陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

翌日の放課後、俺はトラック脇の金網の前に立っていた。

足元は革靴でも、体育靴でもない。昨日、県総合運動場からの帰りに自分で選んだ、黒いランニングシューズだ。

店で何足も履き比べた。「部活用ですか」と聞かれて、「まだ分かりません」と答えた。分からないまま買ってもよかった。何に使うかを全部決めてからでなければ、靴を持てないわけじゃない。

高城は俺の顔より先にそこを見た。

「買ったのか」

「見れば分かるだろ」

「陸上部に入ると決めた?」

聞き方が、前とは違う。決めつけず、俺の答えが出るまで待っている。

「そこまでは決めてない」

俺はつま先で地面を軽く叩いた。まだ新しい靴底が、乾いた土を小さく鳴らす。

「俺が走りたい日に、ちゃんと走るための靴」

高城は一度だけ頷いた。

「分かった」

それだけだった。入れとも、入るなとも言わない。

陸上部の片づけが終わったトラックには、西日が長く差している。バスに乗り遅れそうになったあの日、高城が走っていた直線。金網の外を革靴で走った俺は、今日は内側にいる。

高城がいたのと同じスタート位置、その隣のレーンへ立つ。

「百でいいか」

「いい。一本だけ」

「右足は?」

「痛くない。途中で変だと思ったら、止まる」

「分かった。侑真が止まったら、俺も止まる」

「そこはお前が決めろよ」

高城は一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。

「じゃあ、俺が決めて止まる」

「よし」

「約束する」

高城が腕時計を操作する。

スタート位置へ並ぶと、肩の高さが違うせいで、隣にいるだけなのに少し腹が立つ。

「何だ」

「別に。でかいなと思っただけ」

「今さら?」

「走れば関係ない」

短い電子音が鳴った。

三秒後、もう一度。

最後の音と同時に地面を押す。

今度は偶然でも、バスのためでもない。誰かに頼まれたわけでも、必要だと言われたわけでもない。

俺がここへ来て、高城の隣へ立った。

その事実が、最初の一歩から身体を軽くした。

革靴の硬い音も、背中で跳ねる鞄もない。新しい靴が地面をつかみ、押したぶんだけ素直に返してくる。土の匂いと風の音が、忘れていた場所へまっすぐ入り込んだ。

高城が半歩前へ出る。肩は上がらない。指先にも余計な力がない。県新記録を出したときと同じ、最後まで流れる呼吸だ。

それでも、俺はその横へ出た。

四十。肩が並ぶ。

六十で高城が上げる。

俺も上げる。

足音が重なり、ほどけ、また重なる。吸う息も吐く息も別なのに、どこで次の一歩を置くのかだけは分かる。

残り十メートルで、高城の指先が視界の端へ迫った。

届かせない。

白線を越えたのは、俺が先だった。

勢いを落としながら、今度はバス停の方へ逃げない。言葉を振り返り払うように、走り去ることもしない。

その場で待つ。

最初の日は、振り返って高城の顔を見た瞬間に逃げた。今日は、追ってくる足音が白線へ届くまで、正面から見ている。

一歩遅れて白線を越えた高城が、呼吸を乱したまま俺を見る。

「……届かなかった」

「知ってる」

「少しは嬉しそうにしろ」

「勝ったから?」

高城は膝へ手をつかず、立ったまま息を整えた。苦しそうなのに、目だけは逸らさない。

「待ってたんだな」

「何を」

「俺がゴールするのを」

「置いて帰ったら、話せないだろ」

そう言うと、高城の肩がゆっくり下がった。

「ずっと、聞きたかったことがある」

「何」

「あの日、バス停へ行くなら校舎裏の方が近かったはずだ」

心臓が、走ったあとの拍とは違う音を立てた。

「知ってたのか」

「あとで確かめた。何でトラック側へ来た?」

「何となく」

「侑真」

逃がさない声だった。ただし、手は伸びてこない。

「俺が疲れると右肩が落ちることも、呼吸を変える場所も知ってた。あの日たまたま隣を走っただけのやつが、あそこまで気づくとは思えない」

「細かいな」

「侑真のことだから」

それを言われると、茶化しにくい。

俺は白線の向こうへ視線を逃がした。校舎の窓が夕日を反射している。

「……見てたんだよ」

「何を」

「お前を」

高城が黙る。

「教室とか、廊下の窓から。陸上部が練習してるのを」

最初は、たまたまだった。

号砲が聞こえて窓の外を見たら、高城が走っていた。朝礼で名前を聞いた県一位が、どれだけすごいのか少し気になっただけだ。

けれど、次の日も、その次の日も見た。

雨で窓ガラスが白く曇る日、高城の姿だけが濡れたトラックを往復していた。部員が引き上げたあと、誰もいない直線で何度もスタートをやり直していた日もある。

見ていると認めれば、まだ陸上が好きだと認めることになりそうで、窓辺に立つ理由は考えないことにしていた。

「いつも、あのトラックで百メートルを全力で走るのも知ってた」

速いから目についたのだと思っていた。

でも、誰も見ていない日にまで同じように走る背中から、目を離せなかった。

「呼吸までは窓から聞こえない。でも、肩の動きでだいたい分かった。あの日、隣に出たら、音も聞こえたから」

「じゃあ、あの日なんで遠回りした?」

もう何となくでは誤魔化せない。

「お前が走ってたから」

「俺を追い抜きたかった?」

「違う。一度だけ、お前の隣を走ってみたかった」

高城の喉が、小さく動いた。

「それで抜いた?」

「抜けたのは誤算」

「絶対、抜く気だっただろ」

「……ちょっとは」

高城が息を吐いた。笑ったのか、呆れたのか分からない。でも、口元は少しだけ緩んでいる。

「陸上を嫌いになったつもりだった」

言葉にすると、胸の奥の固いところが少しずつほどけた。

「トラックも、記録も、必要だって言われるのも嫌だった。でも、お前が走ってるのを見てたら、一度くらいならまた走ってもいいと思った。勝つためじゃなくて、お前の隣なら」

高城はしばらく何も言わなかった。

風が金網を鳴らす。遠くで野球部の声がして、すぐに途切れた。

「俺が侑真を見つけたと思ってた」

「違うな」

「俺より先に?」

「だいぶ先」

「ずっと見られてたのか」

「言い方が怖い」

「でも、嬉しい」

真顔で言うから、こっちが困る。

高城は一歩近づいた。触れられる距離なのに、手は身体の横にある。

「追いつくまで、好きって言わないつもりだった」

「じゃあ一生言えないな」

「だからルールを変える。好きは勝負じゃない」

高城の声は、走り終えたせいで少し掠れていた。

「侑真が好きだ。走ってるお前も、走らないと決めるお前も。俺が間違えたら、本気で怒るところも」

「そこも入るのかよ」

「入る。俺の都合で隣に置くんじゃなくて、侑真に俺を選んでほしい」

まっすぐすぎる。

逃げようと思えば逃げられる。返事をしないまま、次のバスに乗ることだってできる。

でも、もう理由は考えないことにしなくていい。

俺は自分から高城へ一歩近づいた。

「俺も好きだ、慧介」

高城の目が見開かれる。

「今、なんて言った?」

「一回しか言わない」

「もう一回」

「調子に乗るな。好きだって言ったんだよ」

「名前の方も、もう一回聞きたい」

欲張りすぎる。

腹が立ったので、高城の頬へ手を伸ばした。走ったあとの皮膚は熱く、指先へすぐ体温が移る。

高城は動かなかった。俺が何をするのか、待っている。

背伸びをして、ほんの一瞬だけ唇を重ねた。

触れて、離れる。

それだけなのに、百メートルを走った直後より息の仕方が分からない。

高城はしばらく固まっていた。

「……侑真」

「何」

「今のも、もう一回」

「しない」

「一回しか?」

「今日は」

答えると、高城の目が少し細くなった。

「確認していいか」

「今度は何」

「俺たち、付き合うってことでいいのか」

告白して、名前を呼んで、キスまでしたのに、そこだけ慎重なのが高城らしい。

「ここまでして、違うって言ったら、どうするつもりなんだよ……」

「同じ気持ちだって信じてるけど、きちんと侑真の口から聞きたい」

「……付き合う。俺が決めた」

「ああ」

短い返事なのに、高城の口元はもう隠せていなかった。

「明日は?」

「明日は走らない。足を休める」

「分かった」

「明後日は、走りたくなったら来る」

「待ってる」

「毎日待つなよ? 重いから」

「じゃあ、来る日は連絡してくれ」

「考えとく」

俺は手を下ろした。高城の頬に触れていた指先だけ、まだ熱い。

「顧問への返事も、まだ決めない。見学くらいはするかもしれないし、帰宅部のまま走るかもしれない」

「ああ」

「大会に出るかも、今は分からない」

「決まるまで待つ」

高城は迷わず言った。

俺は新しい靴の紐を見下ろす。走らされるのも、走るなと決められるのも嫌だ。

「俺が走るかどうかは、俺が決める」

「ああ。決めた日に、隣を走らせてほしい」

「追いつけるならな」

「追いつく」

「好きは勝負じゃなかったんじゃないのか」

「走る方は勝負だ」

そこは譲らないらしい。

スマホを見ると、バスまであと四分だった。

高城も画面を覗く。

「走れば間に合う」

「今日はいい。次ので帰る」

三十分後。でも今は、待つには長すぎると思わなかった。

俺たちはトラックの外周を歩き始めた。校門へ行くだけなら反対へ抜けた方が近いのに、どちらも最短には曲がらない。

高城が俺を見つけた日から、全部が始まったのだと思っていた。

けれど、本当は違う。

先に見つけたのは俺で、先に追いかけていたのも、たぶん俺だった。