陸上部のエースより速い帰宅部ですが、恋からは逃げきれないようです

俺は昇降口でスマホを見て、静かに絶望した。

バスが来るまで、あと四分。

「次ので帰ればいいか」

口ではそう言いながら、革靴を履く。次は三十分後だ。三十分あれば昼寝ができる。つまり、待つには長すぎる。

そもそも遅れたのは、日直の仕事を押しつけて先に帰ったクラスメイトで親友の有川光生のせいだ。明日あいつの机に黒板消しを置く。もちろん粉まみれの面を下にして。

バス停への最短は校舎裏を抜ける道だ。なのに昇降口を飛び出した俺の足は、なぜか反対のグラウンド側へ曲がった。

金網の向こうでは陸上部が練習をさぼって、ふざけながら動画撮影していた。その中で、一人だけスタート位置につく背の高い影がある。

高城慧介。二年。短距離のエース。百メートルで県で一位を獲ったとか、朝礼でも名前を聞いた。

「もう一本!」

先輩らしい声が飛ぶ。

俺はトラック脇の舗装路へ出た。バス停までは残り三分。ここからなら、走ればぎりぎり。

乾いた号砲が鳴る。

高城が飛び出した。

同時に、俺も走った。

革靴の底が硬い音を鳴らす。鞄が背中で跳ねる。ネクタイが喉元を叩く。最悪の格好だ。走るために存在していないものばかり身につけている。

しかも舗装路には細かな砂が浮いている。踏み込みを雑にすれば滑る。昔ならこんな条件で走るなと怒られただろうし、今の俺だって誰かに勧める気はない。自分でやる分には、まあ、自己責任だ。

それでも、身体は勝手に思い出す。

腕を小さく引く。腰を落とさない。地面を蹴るんじゃなく、押したぶんだけ前へ運ぶ。

金網一枚を挟んで、高城の肩が並んだ。

息を二つ。高城が吐く。俺も吐く。

次の一歩で右肩が沈む。そこへ合わせるように歩幅を半分だけ伸ばした。

追い抜いた。

「……は?」

風にちぎれた声が聞こえた。

見なくても、足音が変わったのが分かった。一定だったスパイクの刻みが一段鋭くなる。追ってくる。

俺も少しだけ上げた。

肺の奥が熱い。頬に当たる風が懐かしい。嫌いになったはずの感覚なのに、身体のほうはずいぶん素直だった。

舗装路の先、校門が近づく。

その手前で、俺は一度だけ振り返った。

高城は走りながら、目を見開いていた。いつもは無駄なく前だけを見る目が、まっすぐ俺を捉えている。

一瞬、視線がぶつかった。

まずい、と思ったときには遅い。

「待て!」

「待ったらバスに乗れない!」

律儀に返事をして、俺は校門を抜けた。

停留所へ滑り込んだのと、バスがウインカーを出したのはほぼ同時だった。閉まりかけた扉へ身体をねじ込み、運転手にじろりと見られる。

「駆け込みは危ないですよ」

「すみません」

息を整えながら最後列へ座る。窓の外を見ても、高城は来ていなかった。当然だ。スパイクで校外まで追ってきたら、それはもう怖い。

ただバスに間に合うために走っただけだ。

相手がたまたま県大会1位の高城で、たまたまきっと向こうは疲れていて、たまたま俺の調子が良くて抜いただけ。

大したことじゃない。

そういうことにして、俺は熱の残る指先を制服のポケットへ押し込んだ。



翌朝、教室へ入る前に廊下の端から陸上部のジャージが見えたので、反射的に反対側の扉を使った。自分でも何をしているのか分からない。別に悪いことはしていないし、勝ち逃げと呼ばれる筋合いもない。

そのまま四時間は平和だった。

昼休み、階段を下りていたら、背後から低い声がした。

「山瀬」

聞こえないふりをした。

「山瀬侑真」

フルネームはずるい。周りの生徒が何事かと振り向く。

仕方なく足を止めると、高城が二段飛ばしで下りてきた。制服のボタンは上まで留まり、ネクタイもきっちり締まっている。昨日トラックで目を見開いていた人間と同一人物には見えない。

「何」

「昨日のこと、聞きたい」

「駆け込み乗車なら反省してる」

「そこじゃない」

高城は俺の腕をつかんだ。強引というより、逃げると決めつけている手だった。正しいけど腹が立つ。

「離して。目立つ」

「逃げないなら離す」

「逃げない」

嘘だけど。

高城は数秒俺を見てから手を放した。廊下の端へ移動しても、視線は外れない。

逃げ出す隙はなさそうなので、諦めて彼の話を聞くことにした。

「たしか、帰宅部だよな?」

「そうだよ」

「昔、陸上やってたのか?」

「体育の授業でなら」

「そういう走りじゃなかった」

「走りにそういうも何もないだろ。脚を交互に出しただけ」

「革靴で、鞄を持って、俺の横に呼吸を合わせた」

そこまで見ていたのか。

俺はあくびで間をつぶした。

「偶然」

「俺の肩が落ちる瞬間に上げただろ」

面倒なくせに鋭い。

俺は窓の外を見た。昼のトラックは白く光っている。誰も走っていない直線が、やけに長く見えた。

「自意識過剰じゃない?」

高城の眉がわずかに動く。

「山瀬」

「何」

「もう一回、俺と走って」

ほんの少しだけ予想していた言葉に、胸の奥が変な跳ね方をした。

「嫌だよ。昨日はバスに遅れそうだっただけ」

「急いでただけのお前に負けたままなのは、納得できない」

「そっちの都合だろ」

「そうだ」

あっさり認められて、言葉に詰まる。

高城は怒っていなかった。負けた相手を睨む目でもない。俺の顔より少し下、足元へ視線を落とし、上履きを確かめるように見てから、また俺を見た。

「靴は貸す。鞄も持たなくていい。条件を同じにして走りたい」

「次は勝てると思ってる?」

「思ってる」

「すごい自信」

「でも、それだけじゃない」

高城の声が少し低くなる。

「昨日のお前、別人みたいだった。走ってるときだけ、いつもと違うような」

心臓の近くへ、細い針を差し込まれた気がした。

「勘違いじゃない?」

「勘違いじゃない。俺を抜いたあと、振り返っただろ」

覚えていたらしい。忘れてくれればよかったのに。

高城は一歩近づいた。逃げ道を塞ぐほどではない。ただ、低い声が誰にも拾われない距離まで。

「頼む」

窓から入った風が、高城の前髪を揺らす。トラックに立つときと同じ、まっすぐな目だった。

「俺の隣を走ってくれ、山瀬」

断ればいい。面倒だし、理由ならいくらでもある。

なのに俺は、すぐには答えられなかった。