その言葉の真意が掴めず、私は目を瞬かせる。
「ふふっ、わかってないって顔ね」
母がくすくすと笑う。
「な、なによ。わかってるわよ……たぶん」
頬を膨らませていじけると、母は今度は声をあげて笑った。ひとしきり笑ったあと静かに問いかけてくる。
「……あなたが、いつも笑顔でいられるのは、どっち?」
「え?」
その瞬間、ふと彼の顔が浮かんだ。
「どちらといるときが、自然体でいられる? 一緒にいて、楽しい?」
私はその問いに応えなかった。いや、答えられなかった。ただ黙って母の声に耳を澄ました。
「どちらといると、あなたは、ありのままでいられるのかしら」
はっとして母を見る。
ありのまま……
視線がそっと重なった。澄んだ瞳。
私もこんなふうに綺麗な目をしているのだろうか。
「母さんはね。父さんといると、いつも笑顔でいられるよ。
それに、一緒にいると楽しいし、気楽だし。ありのままの自分でいられるの」
母の声が耳へ届き、その想いがやさしく胸を包み込んでくる。
「……母さん、あの」
「ほんとは、もう気づいてるんでしょ?
……さ、もう遅いし、寝ましょう。おやすみ」
そう言うと、母はそのまま目を閉じた。
もっといろいろ聞いてみたかった。でも、これ以上聞いてもきっとはぐらかされる。
そう思い私も目を閉じた。
さっきから頭に浮かぶのは……
「どっちを選んでも、あんたが幸せならそれでいいのよ」
母がぽつりとつぶやいた。それを最後に部屋は静まり返る。
しばらくすると母の寝息が聞こえてきた。でも、私は眠れなかった。
ありのままでいられる人――それは。
実家から戻った私はすぐに連絡を取った。
ふぅと息を吐き、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりとスマホのボタンを押していく。呼び出し音が数回鳴ったあと声がした。
『望月さん?』
少し嬉しそうで、どこか焦ったような声。
「あ、あの。ちょっと会えますか?」
『もちろん!』
その弾んだ声を聞いた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
アパートの前で待っていると車がこちらへ向かってくる。
私の前に停まり彼が降りてきた。
「お待たせ」
にこにこと、嬉しそうな顔の桐生さん。
「わざわざごめんなさい。ちょっと……二人きりで、話したいことがあって」
視線を向けると、その表情からすっと笑顔が消えた。
「……わかった。じゃあ乗って」
穏やかな声でそう言って、桐生さんは車に乗り込んだ。
少し遅れて私も助手席に乗り込む。ドアを閉めると、ふと彼の匂いがした。
以前は、ときめいていたこの匂い。今はただ苦しくて、胸を締めつける。
重たい沈黙を乗せたまま、車は静かに発進した。
しばらく車を走らせて辿り着いたのは、景色のいい高台だった。
「ここ、お気に入りの場所なんだ」
笑顔を見せて彼は車を降りる。
そして、さりげなく助手席側のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
車から降りると、陽光に目を細める。夕方の赤い光が目の前に広がる海に反射して、きらきらと輝いていた。
「きれい」
そうつぶやくと、桐生さんも海へ視線を向ける。
「だろ? よかった、連れてきて。君の可愛い笑顔が見られた」
愛おしそうに微笑む彼に、胸がちくりと痛んだ。
これから私は……。
「で、話ってなにかな。
……もしかして、悲しい話?」
桐生さんは少し寂しそうに笑う。
「あまり聞きたくないけど。しょうがないか」
そう言って、夕日を見つめる。茜色に染まる横顔はどこか影を帯びていた。
ぐっと喉が詰まる。
挫けそう。でも、だめ。ちゃんと言わなくちゃ。
「あ、あの……」
言い淀んでいると、桐生さんがゆっくりと振り向いた。
けれど、その目を見返す勇気がどうしても出ない。
「ご、ごめんなさい。私、初めてで。気づけなかったというか……」
ああ、何を言ってるんだろう。支離滅裂だよ。
まごつく私に、桐生さんは変わらずやさしい声をかけてくれる。
「大丈夫だよ、ゆっくりでいいから」
その声に背中を押されるように、ようやく彼の顔を見た。
桐生さんは穏やかな表情で笑っていた。
胸にじんとした痛みとあたたかさが広がって、張りつめていた気持ちが少しずつほどけていく。
きっと彼は気づいている。これから私が言おうとしていること。
言いにくいだろうって、わかっていて、それで。
「私……土岐くんが、好きです」
言えた。
彼の表情からは何も読み取れない。
微笑みは崩れないまま、ただ瞳だけがほんのわずかに揺れたように見えた。
「……うん」
それだけ言って、桐生さんは黙り込む。
「えっと、桐生さんとのことはなんていうか。楽しかったです。
辛いことや悲しいこともあったけど。たくさんのドキドキやわくわくする気持ち。
そして、恋ってこういうものなんだって、わかった気がします」
そう。彼がいたから、恋がどんなものかわかってきた。
好きっていう気持ちも。
桐生さんへの想いが恋なのか。ずっとわからなかったけど……。
これは確かに恋だった。
私は、桐生さんが好きで、恋をしていた。
それは真実。
「それでも、ずっと心の片隅には土岐くんがいて。それに気づいてしまって。
寂しいとき、辛いとき、悲しいとき。隣には彼がいて。
何気ない一言に救われたり、そばにいるだけでほっとしたりして。
それが、すごくあたたかくて、居心地がよかった」
「……うん」
桐生さんは私の言葉を遮ることなく、ただ相槌を打つ。
涙が滲んできて、視界がぼやける。
「いつの間にか、土岐くんは、私の中で大切な人になってて。
ずっと一緒にいたいって。そう、思うようになって」
「そっか。うん、わかった」
はっきりと言われた。
その表情は、さっきより少し晴れているように見えた。
「……それは愛だよ」
やさしく微笑み、そうつぶやく。
「え?」
目を見開き、その顔を見つめた。
そんな言葉が返ってくるなんて、思ってもみなかった。
「それを人は、愛と呼ぶんだ」
少し意外だった。こんなことを言うなんて。
「……好きだった。君のこと、本当に好きだったよ。
すごく悔しいけど」
桐生さんは私をふわりと抱きしめた。
その抱擁はとてもやさしくて、せつなくて、そっと包み込んでくる。
何も言えないまま、そのぬくもりに身を委ねた。
やがて顔を上げると、至近距離で視線が重なった。
その瞳は涙で滲んでいた。
「お別れだね。今までありがとう。
俺は愛していたんだけど……君の愛は、俺に向いてないみたいだから」
笑っているのに、その表情はどこか歪んでいた。無理をしているのが分かる。
「ごめんなさい……」
それしか言えない自分が悔しい。今は何を口にしても彼を傷つける気がして、
涙が頬を伝って落ちていく。
そんな私を愛おしそうに見つめて、桐生さんはそっと笑った。
「いいんだ、もう、いいんだよ……」
もう一度、今度は強く抱きしめられる。
「ありがとう。幸せにね」
涙が止まらない。私は彼の背に手を回し、しがみつくようにして泣いた。
桐生さんはそんな私をいつまでも抱きしめていてくれた。
「ふふっ、わかってないって顔ね」
母がくすくすと笑う。
「な、なによ。わかってるわよ……たぶん」
頬を膨らませていじけると、母は今度は声をあげて笑った。ひとしきり笑ったあと静かに問いかけてくる。
「……あなたが、いつも笑顔でいられるのは、どっち?」
「え?」
その瞬間、ふと彼の顔が浮かんだ。
「どちらといるときが、自然体でいられる? 一緒にいて、楽しい?」
私はその問いに応えなかった。いや、答えられなかった。ただ黙って母の声に耳を澄ました。
「どちらといると、あなたは、ありのままでいられるのかしら」
はっとして母を見る。
ありのまま……
視線がそっと重なった。澄んだ瞳。
私もこんなふうに綺麗な目をしているのだろうか。
「母さんはね。父さんといると、いつも笑顔でいられるよ。
それに、一緒にいると楽しいし、気楽だし。ありのままの自分でいられるの」
母の声が耳へ届き、その想いがやさしく胸を包み込んでくる。
「……母さん、あの」
「ほんとは、もう気づいてるんでしょ?
……さ、もう遅いし、寝ましょう。おやすみ」
そう言うと、母はそのまま目を閉じた。
もっといろいろ聞いてみたかった。でも、これ以上聞いてもきっとはぐらかされる。
そう思い私も目を閉じた。
さっきから頭に浮かぶのは……
「どっちを選んでも、あんたが幸せならそれでいいのよ」
母がぽつりとつぶやいた。それを最後に部屋は静まり返る。
しばらくすると母の寝息が聞こえてきた。でも、私は眠れなかった。
ありのままでいられる人――それは。
実家から戻った私はすぐに連絡を取った。
ふぅと息を吐き、気持ちを落ち着かせるようにゆっくりとスマホのボタンを押していく。呼び出し音が数回鳴ったあと声がした。
『望月さん?』
少し嬉しそうで、どこか焦ったような声。
「あ、あの。ちょっと会えますか?」
『もちろん!』
その弾んだ声を聞いた瞬間、胸がきゅっと痛んだ。
アパートの前で待っていると車がこちらへ向かってくる。
私の前に停まり彼が降りてきた。
「お待たせ」
にこにこと、嬉しそうな顔の桐生さん。
「わざわざごめんなさい。ちょっと……二人きりで、話したいことがあって」
視線を向けると、その表情からすっと笑顔が消えた。
「……わかった。じゃあ乗って」
穏やかな声でそう言って、桐生さんは車に乗り込んだ。
少し遅れて私も助手席に乗り込む。ドアを閉めると、ふと彼の匂いがした。
以前は、ときめいていたこの匂い。今はただ苦しくて、胸を締めつける。
重たい沈黙を乗せたまま、車は静かに発進した。
しばらく車を走らせて辿り着いたのは、景色のいい高台だった。
「ここ、お気に入りの場所なんだ」
笑顔を見せて彼は車を降りる。
そして、さりげなく助手席側のドアを開けてくれた。
「どうぞ」
車から降りると、陽光に目を細める。夕方の赤い光が目の前に広がる海に反射して、きらきらと輝いていた。
「きれい」
そうつぶやくと、桐生さんも海へ視線を向ける。
「だろ? よかった、連れてきて。君の可愛い笑顔が見られた」
愛おしそうに微笑む彼に、胸がちくりと痛んだ。
これから私は……。
「で、話ってなにかな。
……もしかして、悲しい話?」
桐生さんは少し寂しそうに笑う。
「あまり聞きたくないけど。しょうがないか」
そう言って、夕日を見つめる。茜色に染まる横顔はどこか影を帯びていた。
ぐっと喉が詰まる。
挫けそう。でも、だめ。ちゃんと言わなくちゃ。
「あ、あの……」
言い淀んでいると、桐生さんがゆっくりと振り向いた。
けれど、その目を見返す勇気がどうしても出ない。
「ご、ごめんなさい。私、初めてで。気づけなかったというか……」
ああ、何を言ってるんだろう。支離滅裂だよ。
まごつく私に、桐生さんは変わらずやさしい声をかけてくれる。
「大丈夫だよ、ゆっくりでいいから」
その声に背中を押されるように、ようやく彼の顔を見た。
桐生さんは穏やかな表情で笑っていた。
胸にじんとした痛みとあたたかさが広がって、張りつめていた気持ちが少しずつほどけていく。
きっと彼は気づいている。これから私が言おうとしていること。
言いにくいだろうって、わかっていて、それで。
「私……土岐くんが、好きです」
言えた。
彼の表情からは何も読み取れない。
微笑みは崩れないまま、ただ瞳だけがほんのわずかに揺れたように見えた。
「……うん」
それだけ言って、桐生さんは黙り込む。
「えっと、桐生さんとのことはなんていうか。楽しかったです。
辛いことや悲しいこともあったけど。たくさんのドキドキやわくわくする気持ち。
そして、恋ってこういうものなんだって、わかった気がします」
そう。彼がいたから、恋がどんなものかわかってきた。
好きっていう気持ちも。
桐生さんへの想いが恋なのか。ずっとわからなかったけど……。
これは確かに恋だった。
私は、桐生さんが好きで、恋をしていた。
それは真実。
「それでも、ずっと心の片隅には土岐くんがいて。それに気づいてしまって。
寂しいとき、辛いとき、悲しいとき。隣には彼がいて。
何気ない一言に救われたり、そばにいるだけでほっとしたりして。
それが、すごくあたたかくて、居心地がよかった」
「……うん」
桐生さんは私の言葉を遮ることなく、ただ相槌を打つ。
涙が滲んできて、視界がぼやける。
「いつの間にか、土岐くんは、私の中で大切な人になってて。
ずっと一緒にいたいって。そう、思うようになって」
「そっか。うん、わかった」
はっきりと言われた。
その表情は、さっきより少し晴れているように見えた。
「……それは愛だよ」
やさしく微笑み、そうつぶやく。
「え?」
目を見開き、その顔を見つめた。
そんな言葉が返ってくるなんて、思ってもみなかった。
「それを人は、愛と呼ぶんだ」
少し意外だった。こんなことを言うなんて。
「……好きだった。君のこと、本当に好きだったよ。
すごく悔しいけど」
桐生さんは私をふわりと抱きしめた。
その抱擁はとてもやさしくて、せつなくて、そっと包み込んでくる。
何も言えないまま、そのぬくもりに身を委ねた。
やがて顔を上げると、至近距離で視線が重なった。
その瞳は涙で滲んでいた。
「お別れだね。今までありがとう。
俺は愛していたんだけど……君の愛は、俺に向いてないみたいだから」
笑っているのに、その表情はどこか歪んでいた。無理をしているのが分かる。
「ごめんなさい……」
それしか言えない自分が悔しい。今は何を口にしても彼を傷つける気がして、
涙が頬を伝って落ちていく。
そんな私を愛おしそうに見つめて、桐生さんはそっと笑った。
「いいんだ、もう、いいんだよ……」
もう一度、今度は強く抱きしめられる。
「ありがとう。幸せにね」
涙が止まらない。私は彼の背に手を回し、しがみつくようにして泣いた。
桐生さんはそんな私をいつまでも抱きしめていてくれた。



