恋を知らない私への処方箋――エリート上司と癒やし系同僚がくれる、ほんものの愛

 迷宮入りしそうになった私は、溜まっていた有給休暇を消化するために一週間の休みを取った。

 こんなに長い休みを取るのは、入社以来初めてだった。

 ずっと仕事中心の毎日だったからなあ。恋愛のことで悩んで仕事を休むなんて。
 昔の私なら、きっと信じられなかったと思う。

 それくらい、今の私は人生の大きな岐路に立っているということだ。

「はあ、よし」

 小さく声を出して、気合いを入れた。
 これから長旅になる。


 久しぶりにやってきた駅は、少しだけ様子が変わっていた。なんだろう。改修工事でもしたのかな。
 辺りを見渡せば、思い出の風景とはどこか違っていた。

 こうやって世界は少しずつ移ろっていく。時代は流れるってやつね。

 私も変わっていくのかな……。

 券売機で切符を買い、案内表示で行き先を確認してからホームへ向かった。


 * * *


 電車に揺られること三時間半。

 何年ぶりかの故郷。窓の外に広がる景色は、あの頃とあまり変わらない。

 私の実家はけっこうな田舎にあった。

 仕事のために上京してからは、滅多に帰らなくなった。
 年に二回ほど。それでも、本当に忙しい時期なんかは一度きりになることもある。

 そんな私に、両親はいつも心配そうに「帰っておいで」と言ってくれる。

 本当にありがたいなあと思う。帰る場所がある。頼りにできる人がいる。それだけで十分に幸福なことだ。

 私は母に相談しようと思っていた。恋の悩み……こんなことを打ち明けられる人なんて、ほとんどいない。真っ先に頭に浮かんだのは母だった。

 だから仕事を休んでまで実家へ向かっている。

 電話をすると、両親はそれはもう喜んでくれた。ご馳走を用意して待っているらしい。
 楽しみだなあ。母の料理はおいしいから。

 いや、目的はそれじゃない。
 ちゃんと話を聞いてもらわないと。……できるかなあ。今まで恋の話なんてしたことなかった。

 緊張するし、無性に恥ずかしい。でもしょうがない、私にはもう手に負えないんだから。
 きっと母なら何かヒントをくれるはず。そう信じるしかない。

 しばらくすると、軋むような音を立てて電車がゆっくりと止まる。
 降りる人は私ひとりだった。

 電車を降り、ホームを抜けて木造の改札口を通る。
 駅前に出ると、低い建物の向こうに緑が広がり、土と草の混じった匂いがした。

 ああ懐かしい、空気もおいしい。

 足を止めて小さく息を吸った。

「花音ー!」

 大きな声が響いて、振り返る。両親がこちらに向かって駆け寄ってきた。

「おかえり~。疲れたでしょ?」

 目の前に立った二人がにこにこと微笑み、その顔を見た途端にふっと力が抜けた。

 帰ってきたんだ。

「おかえり、花音」
「おかえり」

 父がさりげなく荷物を持ってくれる。
 母は私をふわりと抱きしめた。

 その温もりに包まれながら、私は小さくつぶやいた。

「……ただいま」


 * * *


 父が運転する車に乗り、実家へ向かった。

 桐生さんとは違う父の少し荒い運転。これも懐かしいな……まあ、乗り心地は正直よくないけど。
 そんなことを思って笑っていると、父が不思議そうに首を傾げた。

 実家に到着すると、母が玄関先から声をかけてきた。

「すぐに昼食を用意するわね。花音の好きな物ばっかりだから、楽しみにしてて」

 そう言って、そのまま台所へ向かった。
 パタパタと響くスリッパの音を聞きながら、胸がふわっとあたたかくなる。ああ、実家だなあ、なんて。

 返事をしながら玄関の縁に腰掛け、そっと辺りを見まわした。……変わってない。

 昔ながらの木造の一軒家。
 玄関はそこそこ広くて、きちんと整えられている。
 母が飾っているのだろう、下駄箱の上にある花瓶には可愛らしい花が活けられていた。

 靴は、父と母のものが少しだけ並んでいた。

 懐かしい匂いを胸いっぱいに吸い込むように、深呼吸する。

「なにしてるんだ?」

 隣に来た父がくすっと笑いながら、私の頭を撫でる。こうしてもらうのも久しぶりだ。

「へへっ」

 嬉しくて自然と頬が緩む。

「へんな奴」

 そんなやり取りをしながら、父と二人で居間へ向かった。


「うわー、すごい!」

 テーブルの上には、豪華な料理がずらりと並んでいる。どれも私の好物ばかりだ。

 芋の煮っころがし、きんぴら、エビフライ。それにお味噌汁と、ほかほかのご飯。

 嬉しさを隠せずに目を輝かせた。

「お母さん、ありがとう」

 母は優しく目を細めた。

「いえいえ。ちょっと張り切りすぎちゃったかな。花音が久しぶりに帰ってくるって言うから」

「ほんとだよ。普段はこんな豪華な料理食べられないもんなあ」

 父がぽつりと言うと、母は頬を膨らませる。

「なによ。悪かったわね、いつもは手抜きで」

「え! ちがうって。ごめんなさい」

 父が情けない声で謝る。

「ふふっ、相変わらず仲いいね。さ、食べよう」

 私がそう言うと、二人も顔を見合わせて声を揃えた。

「いただきます」


「はあ、おいしかった」

 目の前には、空になった皿が並んでいる。

 お腹いっぱい。満足そうに笑っていると、母が声をかけてきた。

「ふふ、よかった。今日はこれからどうするの?
 せっかく帰ってきたんだし、好きにしてていいわよ。ゆっくりしなさい」

 食器を片付けながらそう言う母に、父が少し不満そうに眉をひそめた。

「えー、久しぶりに再会したんだからさ。いろいろ聞かせてほしいなあ。あっちでの生活とか、仕事のこととか……」

「やあねえ。お父さん、何をそんなに心配することがあるのよ。――あ、もしかして」

 にやりと笑う。

「なんだよ」

「花音に男ができてないか、チェックしたいのねえ。
 まあ、この子も年頃だし。彼氏の一人や二人、できててもおかしくないけど……」

 母がじっと私を見つめてくる。
 それにつられるように、父もちらりと視線を向けた。

「な、なによ。急に。ちょっと散歩してくる」

 私は逃げるようにその場を離れる。

 いやまあ。別に隠す必要もないんだけど、さすがにあの場で言うのは気まずい。父親にはやっぱり話しづらいし。

 ……正式に付き合うようになったら、ね。

 なんて、何を考えてるんだか。まだ自分の気持ちすらわかってないくせに。

 ああ、考え出すと暗くなる。やっぱり散歩しよう。

 気を取り直して、私は外へ向かった。