恋を知らない私への処方箋――エリート上司と癒やし系同僚がくれる、ほんものの愛

 気合いを入れて会社に来たはずなのに。
 ……なんでこうなるの?

 目の前に立つ女性へそっと視線を向ける。

 会社の屋上を吹き抜ける風に、彼女の長く綺麗な髪がふわりと揺れた。
 艶のある瞳が私をとらえ、胸がどきりと跳ねる。

 なんとも妖艶な人だ。視線を外せないほど美しくて、色っぽい。

 桐生さんの隣がよく似合う。この前、彼の隣に立っていたあの女性だった。


 昼休みに突然、彼女から声をかけられた。驚いたけれど、桐生さん絡みかもしれないと思い、そのままついてきた。

 そして今、屋上でこうして向かい合っている。

 いったい何の話なんだろう。桐生さんのことだよね? 「別れてほしい」とか言われるのかな。
 そんなことをぼんやり考えていると、彼女が口を開いた。

「この前のことだけど」

 綺麗な口元から発せられる声まで美しかった。色っぽくて、艶のある声だ。

「……はい」

 緊張して背筋が自然と伸びる。
 彼女がゆっくりとこちらへ歩いてきた。

 目の前に立たれると、ふわりといい匂いが漂ってくる。
 女性らしい香水の香り。

 思わずじっと見つめてしまった。近くで見ると、その美しさはいっそう際立っている。

 ……綺麗。

 ぼーっとしていると彼女が噴き出した。

「ふふっ、かわいい」

 可笑しそうに笑う。その表情はどこか幼くて、意外と可愛らしかった。

「へ? あ、あの……」

 彼女はひとしきり笑った後、改めてこちらを向いた。

「ごめんなさい。なんだか素直で、純粋そうで。桐生くんの言う通りだなって思って」

 その言葉にじんと胸があたたかくなる。
 桐生さん、そんなふうに私のことを……。

「もしかして勘違いしてるといけないから。
 私、桐生くんとは何でもないのよ」

 そう言われて、思考が止まった。
 ……え? どういうこと?

「桐生くんとは古い友人というか、親友みたいなものかな。
 よく一緒に飲んだり、愚痴を言い合ったり相談に乗ったりする関係。
 私たちが恋愛関係になることは、絶対にない」

 はっきり告げてにこりと微笑む。

「は、はあ……」

 そうだったの? あまりにもお似合いだったから、てっきり。
 私の勘違いだったんだ。恥ずかしい。

「あの……どうしてわざわざそんなことを?」

 問いかけると、彼女は目を細め、やさしく笑った。

「ふふっ。だって桐生くんが心配してたから。
 もしかして、誤解されてるかもーって」

 少し肩をすくめる。

「おかしいのよ、彼。
 普段はあんなに冷静なのに、あなたのことになると子どもみたいなんだから」

 声を上げて笑う彼女を私はただ呆然と見つめていた。
 桐生さんを「子どもみたい」なんて言える人がいるなんて、すごい。

 彼女はまた、ふわりと微笑む。

「桐生くんはあなたに夢中よ」

 ふっと息をついて、静かに続ける。

「桐生くんからよくあなたのことを相談されていたの。
 女性とは何度もお付き合いしてたみたいだけど、あなたみたいなタイプは初めてらしくて。

 傷つけたくないんだ、どうすればいい?
 って、よく泣きべそかいてた」

 ふふっと、また可笑しそうに笑う。

 私は開いた口が塞がらなかった。だって、あの桐生さんが泣きべそって、想像したら笑えてしまった。

「おかしいわよね?
 今回のあのデートも、彼が私に頼んできたのよ。

 望月さんが他の男とデートするって言うんだ。
 悔しいから、俺も焼きもちを焼かせる。頼むから俺の恋人の振りをしてくれって」

 ……そ、そんなことが。

 さっきから想像を超える出来事の連続で、私はその場に立ちつくし、ただ目を瞬かせていた。

「で、あのとき。
 あなたを傷つけてしまって……彼、すごく後悔してた。
 ほんと、廃人みたいになってたわよ」

 少しだけ笑ってから、彼女はどこか切なさを帯びた笑みを浮かべる。

「桐生くんはあなたのことが本当に好きなの。
 それだけは、信じてあげてほしい」

 近づいてきて、ぎゅっと手を握られた。
 何かを訴えるように私を見つめ、そっと微笑んだあと、彼女は背を向けて去っていった。


 * * *


 午後になっても、頭の中は彼のことでいっぱいだった。
 パソコンに向かっていても、文字がまるで頭に入ってこない。

 仕事どころじゃない。いや、仕事はしなきゃいけないんだけど手が動かないし、やる気も出ない。

 だって、屋上の出来事が何度も頭の中を駆け巡る。

 なんでこうなるの? 今朝、気持ちを決めたばかりだっていうのに。

 ずっと面倒だと思われているとばかり思ってた。
 何度もすれ違うたびに、彼は私のことが嫌になったんだって。

 なのに。
 あの桐生さんが、そこまで私を想ってくれていたなんて。そんなのわかるわけないじゃない。

 でも、彼女が嘘をついているようには見えなかった。

 あーもう。どうすんだ、私。
 土岐くんのことが好きで、彼と向き合おうって思ったばかりだったのに。

 それでも。やっぱり桐生さんのことだって嫌いになったわけじゃなくて。

 あんな熱い想いを聞かされたら気持ちが揺らいでしまう。
 どうすればいいのかわからない。

 乙女心ってほんとに複雑。こんなことになるなら、恋愛なんてしなければよかった。

 ……ほんとうに?

 わからない。だって、今回のことがなければ、桐生さんと深く関わることはなかった。
 すれ違ったり、挨拶を交わす程度で、違う世界の住人だと遠くから眺めるだけだったはず。

 土岐くんとだって、今みたいな関係にはなっていない。
 一緒にいて、なんでも話せる存在になんて。

 そっと視線を動かすと桐生さんと目が合った。

 ひっ。反射的に視線を逸らしてしまう。

 ど、どうしよう。ごめんなさい。

 心の中で謝りながら、もう一度見る勇気が出なくて、私は無理やり仕事に意識を戻した。