恋を知らない私への処方箋――エリート上司と癒やし系同僚がくれる、ほんものの愛

「……やっと終わった」

 私は椅子に座ったまま思いきり伸びをした。
 肩も腰も重く、溜まった疲労がどっと押し寄せる。

 就業時間はとっくに過ぎているけれど、仕事が残っていたせいでけっきょく残業になってしまった。

 あれ以来、女性社員たちから仕事を押し付けられることが多くて困る。

 周囲に目をやるとまだちらほら人影はあるものの、ほとんどの社員はもう帰っていた。
 ふと彼の机へ視線を送る。けれど、そこにはもう桐生さんの姿はなかった。

 帰っちゃったのか……。支度を整えながら、なぜか急に土岐くんの顔が浮かんだ。
 胸がじんわりとあたたかくなる。

 土岐くん。一緒にいると癒されるというか、自然と何でも話せちゃうんだよね。

 昼間のことを思い出す。桐生さんのこともつい口にしてしまうし、さっきは愚痴まで聞いてもらっちゃった。
 まあ、彼は事情もいろいろ知っているから、気軽に話せるだけなのかもしれないけど。

 それにしたって、あんなふうに気負わず話せる人ってなかなかいない。特に私にとっては貴重な存在だった。

 いいな、こういう関係。男女とか関係なくて親友みたいで。
 ちょっと憧れてたんだよね。

 ひとりでほくそ笑む。

「お疲れさまです」

 まだ残っていた社員に挨拶をして、部屋を出た。節電対策なのか最近の廊下は少し薄暗い。人気のない通路にコツコツとヒールの音が響く。

 エレベーターに乗り込み一階のボタンを押した、そのとき。

 閉まりかけたドアの隙間から滑り込んできた人がいた。

 驚く私に桐生さんがにこりと微笑みかける。
 その背後では、エレベーターのドアがゆっくりと閉まっていった。

「……もう、帰ったのかと思ってました」

「うん。君を待ってた」

 ドキッと心臓が跳ねる。

 目を丸くすると彼は面白そうにくすくすと笑った。

「そんなに驚く?」

「だって、その……ダメじゃないですか。一緒にいるところ、見られたら」

 また噂にでもなったら大変だ。桐生さんだって、わかっているはずなのに。

「大丈夫だって。少しくらい」

 そう言って、気楽な調子で続ける。

「ね、これから食事でもしない?」

 あまりにあっさりと言われて、戸惑う。

「で、でも……」

「いいから。先に裏で待ってるから」

 次の階に着くなり、桐生さんはさっさと降りてしまった。


 私は言われたとおり会社の裏手へ向かう。
 そっと通路を覗くとそこに彼がいた。こちらに気づいた桐生さんが駆け寄ってくる。

「よし、じゃあ行こうか」

「え? ちょ、ちょっと」

 彼は私の手を取り、そのまま歩き出した。
 半ば連行されるような形で、私は彼のあとを追った。



 連れてこられたのは、落ち着いた雰囲気のレストランだった。
 照明は控えめで、どこか上品な空気が漂っている。

 桐生さんはスタッフに声をかけ、奥の個室へ向かった。通路もきれいに整えられていて、いかにも高級そうなお店だ。

 通された部屋には、クラシック調の机と椅子。壁も床も磨き上げられ、やわらかな音楽が流れている。
 完全個室で、人目を気にせず話せそうだった。

 圧倒されて立ちつくしていると、桐生さんに促される。
 腰を下ろすと、ふかふかのクッションに身が沈んだ。向かい側に座った桐生さんが、優しく微笑みかけてきた。

 すごい……。やっぱり、桐生さんってすごいな。
 私とは生きている世界が違う気がする。
 こういうところに、いつも通っているのかな。

 さっきの行動も少し強引だった。会うのは控えようって言ってるのに、すぐに会いに来るし。

 マイペースというか、自由な人だな。
 私とは違って、人の顔色ばかり気にする人じゃない。

 それは少し羨ましくて、憧れる。

 だって……私には、ないものだから。