「えっ……」
桐生さんは驚いたように目を丸くした。
しばらく私を見つめ、やがて怪訝そうに眉を寄せる。
「なんで?」
低い声に、胸がきゅっと縮む。――怒ってる?
「どうして、隠さないといけないの?」
その言い方にわずかな強さを感じた。
「ごめんなさい。嫌ですよね? そんなコソコソするの……。
いいです。やっぱりいいです」
早口で言い切って、踵を返した。
嫌われるのではないか。迷惑をかけているのではないか。そんな不安が頭をよぎる。
「待って!」
腕を、きつく掴まれた。
「待ってよ。なんでって、理由を聞いてるんだ。責めてるわけじゃない」
声はさっきより少しだけ柔らかい。
おそるおそる振り返ると、彼がまっすぐこちらを見ていた。
その表情に、もう険しさはなかった。
「……ごめん。少しカッとなってしまった。
だって、付き合えたこと、すごく嬉しかったのに。急にそんなふうに言われたら……」
彼は視線を逸らして俯いた。その横顔がどこか寂しげで、胸がちくりと痛む。
「わ、私の方こそ、ごめんなさい。勝手なことを言っているのは、わかっています。でも……」
もう一度向き合うと、彼の瞳がわずかに揺れていた。
「はあ、驚いたよ。俺、嫌われたのかと思った。
付き合ってそうそう何かやらかしたのかって。だから、ちゃんと知りたいんだ」
あ、そうか。桐生さんは不安になったんだ。
私ったら、先走っちゃって恥ずかしい。
「あの……理由、なんですけど」
言い出しにくくて、もじもじと指先をいじる。
そっと視線を上げると、彼はほんの少しだけ口元をゆるめた。
桐生さんなら大丈夫。ちゃんと聞いてくれる。そう思って、小さく息を吸った。
「桐生さんはとても素敵で、女性から人気があるので。
もし私と付き合っていることが公になれば、その――」
そこまで言ったところで、彼が静かに口を挟んだ。
「嫌がらせされたの?」
ドキッとした。鋭い。
言葉が出てこない。彼女たちのことを悪く言いたくなかった。
黙っていると、ぽつりと声が落ちた。
「そうなんだね。……ごめん。俺のせいで」
桐生さんは深く頭を下げた。
「き、桐生さん! やめてください。あなたのせいじゃありません」
慌てて覗き込もうとした、そのとき。
ふいに体が引き寄せられた。
息が止まりそうになる。
触れたぬくもりがじんわりと伝わってきて、私はただその腕の中で息をひそめた。
強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。
ふわりと香るのは、彼の香水だった。
「俺が守る、絶対に。だから安心して」
抱きしめたまま耳元で囁かれる。
「え、でも……」
「わかってる。会社では内緒にしよう。君を不安にさせたくない」
その言葉に張りつめていたものがゆっくりほどけていく。
背に手を回し、ぎゅっと抱き返した。
「はい。ありがとうございます」
静かに見つめ合い、そのままそっと唇が重なった。
* * *
そして、内緒の社内恋愛が始まった。
同じ部署だから一日のうちに何度もすれ違い、顔を合わせる。
そのたびに視線を交わし、ほんの小さな合図を送り合った。
そんな些細なことで心がふわりと浮き立つ。なんだかくすぐったい。
彼に名前を呼ばれるたび、鼓動が跳ねた。気づけば気持ちまであたたかくなっている。
両思いって、こんなに楽しくて幸せなものなんだと改めて思った。
ある日の会議の準備中。
私は準備のため、先にひとりで部屋へ入った。
資料を配りお茶の用意をしていると、入ってきたのは桐生さんだった。
一瞬、目が合う。数秒見つめ合ったあと、彼はふいっと視線を逸らした。
少しだけ寂しい。でも、どこで誰が見ているかわからない。
仕方のないことだ。そう言い聞かせながら黙々と作業を続ける。
準備を終えた私は、「失礼します」とだけ告げ、そのまま部屋を出ようとした。
ドアに手をかけた、そのとき。
背後から伸びた手がドアを静かに閉めた。
「……え?」
振り返ると、桐生さんがすぐ目の前にいた。
いつの間にか、私は壁際まで追い込まれている。
「あ、あの、桐生さん?」
近すぎる距離に戸惑いながら顔を上げる。
急に、どうしたの?
混乱する私を見て、彼はにこりと笑った。
「ちょっとだけ」
そう言って、頬にそっとキスをした。
廊下を足早に歩きながら、先ほどのことを思い出す。
……いったい、何を考えてるの!
いや、本気で怒ってるわけじゃないけど。
もし、誰かに見られていたらどうするつもり?
あのあと、桐生さんは「ごめん」と言って、舌をぺろっと出した。その仕草が可愛くて、不覚にも怒る気が失せてしまった。
桐生さん、本当に内緒にする気あるのかな。
でも、大丈夫だよね。昨日の彼はふざけているようには見えなかった。嘘をついているようにも。
私を悲しませるようなことはしない。優しい人だから。
そんなことを考えていると、不意に誰かとぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
あれ? この声。
顔を上げると、土岐くんがいた。なぜかほっとする。
「土岐くん……ごめん。大丈夫だった?」
そう言うと、彼はいつものように優しく笑った。
「平気だよ。また、なにか悩みごと?」
少し眉を寄せ、じっと見つめてくる。
いけない。また心配をかけちゃう。
どうすればいいのかわからず、曖昧に頷いた。
それにしても、私ってそんなにわかりやすいのかな。それとも、土岐くんだからわかるの?
「えっと、実は……」
自然と口にしていた。
彼には何でも話せてしまうんだよね。なんでかな。
心がぽっとあたたかくなり、そのまま肩を並べて歩き出す。
さっきまで胸に引っかかっていたものが、言葉を交わすうちにほどけていった。
桐生さんは驚いたように目を丸くした。
しばらく私を見つめ、やがて怪訝そうに眉を寄せる。
「なんで?」
低い声に、胸がきゅっと縮む。――怒ってる?
「どうして、隠さないといけないの?」
その言い方にわずかな強さを感じた。
「ごめんなさい。嫌ですよね? そんなコソコソするの……。
いいです。やっぱりいいです」
早口で言い切って、踵を返した。
嫌われるのではないか。迷惑をかけているのではないか。そんな不安が頭をよぎる。
「待って!」
腕を、きつく掴まれた。
「待ってよ。なんでって、理由を聞いてるんだ。責めてるわけじゃない」
声はさっきより少しだけ柔らかい。
おそるおそる振り返ると、彼がまっすぐこちらを見ていた。
その表情に、もう険しさはなかった。
「……ごめん。少しカッとなってしまった。
だって、付き合えたこと、すごく嬉しかったのに。急にそんなふうに言われたら……」
彼は視線を逸らして俯いた。その横顔がどこか寂しげで、胸がちくりと痛む。
「わ、私の方こそ、ごめんなさい。勝手なことを言っているのは、わかっています。でも……」
もう一度向き合うと、彼の瞳がわずかに揺れていた。
「はあ、驚いたよ。俺、嫌われたのかと思った。
付き合ってそうそう何かやらかしたのかって。だから、ちゃんと知りたいんだ」
あ、そうか。桐生さんは不安になったんだ。
私ったら、先走っちゃって恥ずかしい。
「あの……理由、なんですけど」
言い出しにくくて、もじもじと指先をいじる。
そっと視線を上げると、彼はほんの少しだけ口元をゆるめた。
桐生さんなら大丈夫。ちゃんと聞いてくれる。そう思って、小さく息を吸った。
「桐生さんはとても素敵で、女性から人気があるので。
もし私と付き合っていることが公になれば、その――」
そこまで言ったところで、彼が静かに口を挟んだ。
「嫌がらせされたの?」
ドキッとした。鋭い。
言葉が出てこない。彼女たちのことを悪く言いたくなかった。
黙っていると、ぽつりと声が落ちた。
「そうなんだね。……ごめん。俺のせいで」
桐生さんは深く頭を下げた。
「き、桐生さん! やめてください。あなたのせいじゃありません」
慌てて覗き込もうとした、そのとき。
ふいに体が引き寄せられた。
息が止まりそうになる。
触れたぬくもりがじんわりと伝わってきて、私はただその腕の中で息をひそめた。
強張っていた肩の力が少しずつ抜けていく。
ふわりと香るのは、彼の香水だった。
「俺が守る、絶対に。だから安心して」
抱きしめたまま耳元で囁かれる。
「え、でも……」
「わかってる。会社では内緒にしよう。君を不安にさせたくない」
その言葉に張りつめていたものがゆっくりほどけていく。
背に手を回し、ぎゅっと抱き返した。
「はい。ありがとうございます」
静かに見つめ合い、そのままそっと唇が重なった。
* * *
そして、内緒の社内恋愛が始まった。
同じ部署だから一日のうちに何度もすれ違い、顔を合わせる。
そのたびに視線を交わし、ほんの小さな合図を送り合った。
そんな些細なことで心がふわりと浮き立つ。なんだかくすぐったい。
彼に名前を呼ばれるたび、鼓動が跳ねた。気づけば気持ちまであたたかくなっている。
両思いって、こんなに楽しくて幸せなものなんだと改めて思った。
ある日の会議の準備中。
私は準備のため、先にひとりで部屋へ入った。
資料を配りお茶の用意をしていると、入ってきたのは桐生さんだった。
一瞬、目が合う。数秒見つめ合ったあと、彼はふいっと視線を逸らした。
少しだけ寂しい。でも、どこで誰が見ているかわからない。
仕方のないことだ。そう言い聞かせながら黙々と作業を続ける。
準備を終えた私は、「失礼します」とだけ告げ、そのまま部屋を出ようとした。
ドアに手をかけた、そのとき。
背後から伸びた手がドアを静かに閉めた。
「……え?」
振り返ると、桐生さんがすぐ目の前にいた。
いつの間にか、私は壁際まで追い込まれている。
「あ、あの、桐生さん?」
近すぎる距離に戸惑いながら顔を上げる。
急に、どうしたの?
混乱する私を見て、彼はにこりと笑った。
「ちょっとだけ」
そう言って、頬にそっとキスをした。
廊下を足早に歩きながら、先ほどのことを思い出す。
……いったい、何を考えてるの!
いや、本気で怒ってるわけじゃないけど。
もし、誰かに見られていたらどうするつもり?
あのあと、桐生さんは「ごめん」と言って、舌をぺろっと出した。その仕草が可愛くて、不覚にも怒る気が失せてしまった。
桐生さん、本当に内緒にする気あるのかな。
でも、大丈夫だよね。昨日の彼はふざけているようには見えなかった。嘘をついているようにも。
私を悲しませるようなことはしない。優しい人だから。
そんなことを考えていると、不意に誰かとぶつかった。
「ご、ごめんなさい」
あれ? この声。
顔を上げると、土岐くんがいた。なぜかほっとする。
「土岐くん……ごめん。大丈夫だった?」
そう言うと、彼はいつものように優しく笑った。
「平気だよ。また、なにか悩みごと?」
少し眉を寄せ、じっと見つめてくる。
いけない。また心配をかけちゃう。
どうすればいいのかわからず、曖昧に頷いた。
それにしても、私ってそんなにわかりやすいのかな。それとも、土岐くんだからわかるの?
「えっと、実は……」
自然と口にしていた。
彼には何でも話せてしまうんだよね。なんでかな。
心がぽっとあたたかくなり、そのまま肩を並べて歩き出す。
さっきまで胸に引っかかっていたものが、言葉を交わすうちにほどけていった。
