四畳半、煙草の煙、火曜日の少女 〜これは、二人だけの秘密だよ〜

 私の家にやってきた、白いメスのアザラシのぬいぐるみ。
 私は彼女を「シロちゃん」と名付けた。
 家を出る時や帰宅した時などに、私はシロちゃんに挨拶するようにしている。
 家での挨拶の習慣が付いたことで、私の生活の質は向上したような気がしていた。
 ハートのイヤリングは、アクセサリーボックスに大切にしまってある。
 また来週、林が来るときに着けよう。
 その時は、林も同じイヤリングを着けてくるかもしれない。
 そう考えたら、私は胸が躍り、来週がとても待ち遠しくなってしまった。
 
 今日は、金曜日。コンビニバイトのシフトが入ってる。
 十七時に仕事を終え、そのコンビニで夕飯の弁当と缶チューハイを買って帰る。
 いつも通り。何の変哲もない仕事上がりだ。
 金曜日だから、ドラマの見逃し配信があるな。先週の話はどうなってたっけ。微妙に思い出せないな……。
 そんなことを考えながらアパートまで帰ると、見慣れないものが目に入り、私は足が止まった。
 私の部屋の前に、子どもがうずくまって座っていた。
「林……?」
 私の家に来る子どもなんて他にいないと思い、そう呟いた。
 うずくまった子どもが顔を上げると、それはやはり林だった。
「杉野さん……」
 林は暗い顔をしてこちらを見上げた。
 なぜここに林が? 私は混乱した。
 今日は金曜日だ。いつもの火曜日じゃない。しかもこんな夕方に?
 悲しげな林の姿を見て、私は一つの可能性が頭をよぎった。
 ――家出。
 きっと、何らかの理由があって、家にいられなくなった。
 そして私を頼ってやって来たのではないか。
 とにかく話を聞かないといけないと思い、私は林を家に上げた。
 林はいつもの定位置であるテーブルの横に座った。
 私はグラスに入れた麦茶を出してやり、林に向かい合って座ると、さっそく質問した。
「何があったの?」
 しかし、林はうつむいたまま何も言わない。
 私はアプローチを変えた。
「怪我はしていない?」
 林は小さく頷いた。それを見て、私は少しだけほっとした。
 しかし、このままでは埒が明かない。
 どうしようかと迷っていると、林が口を開いた。
「……そっちに行ってもいい?」
「うん、いいよ」
 林の不安を取り除いてあげたかった私は、すぐにそう答えた。
 すると林は私の横に座り、体を預けた。
 私は、慈しむように林の肩を片腕で抱いた。
 この子に何が起きたのかわからないけれど、少しでも不安がなくなりますように。
 しばらく沈黙してから、林はようやく口を開いた。
「あのね」
 私に肩を抱かれながら、こちらを見ずに言った。
「お母さんにバレちゃったの」
「バレた……?」
 そう聞いた途端、心臓がきゅっと縮こまるような感覚がした。
「図書館に行くって嘘をついて、杉野さんに会っていること」
 その途端に、縮こまったままの私の心臓がどっと暴れだした。
 背中に汗が流れる。
 親に、バレた。
「こないだショッピングモールに行ったでしょう? その時に、学校の子の親に見られたみたいなの」
 私は動悸が止まらない。誰かに、見られた……?
「お母さんは、その人から、私にお姉ちゃんがいるのかって聞かれたみたいで……。そして、私に、どうして嘘をついて知らない人に会いに行ったりしたの、って怒りだして……」
 そこまで喋ると、林はぐずぐずと涙を流し始めた。
「どうしよう……お母さん……怒ってた……。きっと、もう会うなって……言うの……」
 林の話を黙って聞くうちに、胸の奥がじわりと痛んだ。
 どうしよう。私のせいだ。
 この子をこんな目に遭わせたのは、私なんじゃないか。
 私がショッピングモールへ連れまわしたりしたから。
 親にちゃんと説明しないとだめだよ、と言ってあげられなかったから。
 林の呼吸は小刻みに震えていた。
「私……杉野さんと……離れたくないよ……」
 それは、私もそうだ。林と会えなくなるなんて、耐えられない。腕の中で震えるこの子を、私は手放したくない。
 ……このまま。
 このまま、親の目の届かないところまで、林を連れて行けば。
 誰にも知られることなく、二人の秘密の時間を過ごすことができるかもしれない。
 でも。
 もたれかかる林を、私はそっと引きはがした。
「林、家に帰って、親御さんにちゃんと話そう」
 ここは、林の帰るべき場所じゃないから。
 林はショックを受けたようで、顔から血の気が引いている。
「これ以上嘘はダメだよ。親御さんは林を心配しているんだよ」
「……やだよ。ずっと、一緒にいたいよ」
「林!」
 私は声を荒げた。林はびくんと体を震わせた。
 深呼吸してから、一息にしゃべった。
「私だって……ずっと一緒にいたいよ。だけど、あんたがそうやって嘘をつけばつくほど……私たちは、もっとダメになるかもしれないんだよ!」
 林は涙目のまま、黙ってこちらを見ている。
「確かに、親御さんは……もう私に会うなって言うかもしれないよ」
 私は林の目をしっかりと見た。
「でも、親に黙って子どもを連れていくのは、いけないことなの。もし私がこのままあんたを泊めたりしたら、警察に捕まって、もう絶対に会えなくなるよ」
 それは説得の言葉であり、また自分に言い聞かせる言葉でもあった。
 私は、林を惑わせない。
「そんな……でも……」
 私は、言いよどむ林を抱きしめた。か細い彼女の体の温もりが伝わってくる。
「だから、帰るしかないの。それが私たちのためなの」
 林は黙ったままだった。
 説得するために抱きしめたつもりだったけど、私は名残惜しくなってしまい、すぐには離すことができなかった。
 もし今この手を離せば、こうして二人で過ごすことはできなくなるのかもしれない。
 だけど、もう、どうしようもない。きっと、この秘密の関係も潮時なんだ。
 私は林を抱くのをやめて、目を合わせた。
「ね、家に帰ろう。送っていくから」
 林は目を逸らしてから、小さく頷いた。

 アパートを出た私たちは、手を握って一緒に林の家へ向かった。
 林の手のほのかな温かさから、口に出さない不安が伝わってくる。
 外はいつもよりも空気が薄いように感じた。足取りは重い。
 すっかり気が滅入ったまま、私たちはゆっくりと歩みを進めた。