四畳半、煙草の煙、火曜日の少女 〜これは、二人だけの秘密だよ〜

 今日は火曜日。オフの日。
 カレンダーは六月に変わった。そろそろ梅雨の足音が聞こえてくるかもしれない。
 林は今週も来た。もう四度目の来訪だ。
「あれ? これ、どうしたの?」
 林はすぐに気が付いた。部屋の中に、見慣れない電化製品が置いてあることに。
「空気清浄機」
 私はそれだけを言った。
 この副流煙の巣窟のような部屋は、子どもが過ごす場所としては不適切だと感じていた。
 それが少しでもマシになればと思い、空気清浄機を設置してみたのだ。
 これには空気の状態を示すランプがあり、問題ないときは緑だが、空気が悪いときは赤に点灯し、ガーガーと音を立てて激しく動き出す。
 ちなみに、この部屋で電源を入れて以来、私は赤いランプしか見たことがない。
 林はあまり興味がないようで、空気清浄機に対するそれ以上の反応はなかった。
 
 それよりも、テーブルの上の食べかけの食パンが気になっているようだった。
「お昼ごはん食べてたんだ」
「ああ、ちょっと……今日は遅くて」
 私は歯切れ悪く答えた。実は三十分前に起きたばかりだった。
 なんとなく、寝坊したことをあまり説明したくなかった。昨晩、古いドラマの配信を夢中になって見てしまい、寝るのが遅くなったのだ。
 テーブルの上の皿には、ジャムを塗った食パンが一枚乗っているだけだった。
「これしか食べないの?」
「後は納豆も食べるよ」
 パンと納豆。私の基本的な朝食兼昼食スタイルだ。炭水化物とたんぱく質がバランスよく摂れそうな気がするし、何より経済的。
 しかし、林は呆れた顔をした。
「ええ~? もっと食べた方がいいよ。何か作ってあげようか?」
「え、マジ?」
「うん! 私、時々ごはんは自分で用意してるよ」
 林は張り切って冷蔵庫を開けた。
 しかしそこには、飲み物・納豆・ジャム・缶チューハイくらいしかなかった。
「何もない!」
 林は素っ頓狂な声を上げた。
 よく考えたら、私は料理を一切しない。だから、材料と呼べるものがなくて当然だった。
「ねえ、普段はどんな料理をするの?」
「あのね、ウィンナーを焼いたり、スクランブルエッグを作ったりするよ」
「へえ、すごい」
 私は素直に感心した。しかし、うちには卵どころかフライパンすらなかったので、どうあがいても料理をさせてあげることはできなかった。
 料理の腕を披露できなかった林は、少し機嫌を悪くしてぷりぷりとしてしまった。
 私は苦笑いしながら納豆をかきまぜた。

 それから、林は最近読んだ本の話などをした。
 恐らく学校に行っていない林から聞ける新しい話題と言えば、図書館の本くらいしかなかった。
 私が食事を終えて一服しだすと、また林は私の横にすり寄ってきた。
「ねえ」
 林は上目遣いで尋ねてきた。
「杉野さんって、恋人とかいないでしょ」
 私は一瞬だけ固まった後、タバコを吸いなおした。
「ねえって」
 返事をしない私に対して、林は催促するように声を出した。
 私は仕方なく言葉を返してやった。
「どうしてそう思ったの」
「だって、料理ができないから」
「はっ」
 私は思わず笑ってしまった。どんな偏見だよ。でも、
「ああ、まあね。今はいないね」
 ちょっとだけ見栄を張って「今は」と添えつつ答えてあげた。
「じゃあ前はいたの?」
 私があえて添えた言葉に対して、林は強く食いついてきた。これは想定外だった。
「……ああ、いたよ」
 私はタバコの煙の向こう側に、過去の思い出を呼び起こした。
 あれは恋人だったんだろうか。少なくとも、私はそう思っていたんだけどな。

 *

 私が高校二年生のころ。当時はまだ田舎の実家で暮らしていた。
 ある日の夜に、親から卵を買ってきてくれと頼まれ、私は渋々コンビニへと向かった。
 そのコンビニには灰皿が設置されていて、眼鏡をかけた女性が一人でタバコを吸っていた。
 そして、私はその女性を知っていた。
 高校の部活の三年生の先輩だった。
 比較的真面目な高校だったが、その中でも特に地味で真面目そうだった先輩。
 そんな彼女が、夜な夜な外でタバコを吸っていたのだ。
 私はショックを受けた。しかし、それは嫌な感情ではなかった。
 なんて、かっこいいんだろう。
 私は心からそう思い、先輩から目が離せなくなった。
 すると先輩は私に気が付いた。タバコの火を消して、こちらに歩み寄ってきた。
 シメられる! 先輩の不良行為の現場を見てしまった私は、直感的にそう思った。
 しかし、先輩は私の前まで来ると、私の唇の前に人差し指を立てて、いたずらそうな顔でこう言った。
「これ、私と杉野の二人だけの秘密ね」
 その瞬間、心臓が跳ねた。私は赤面しながら、ごくりと唾を飲み込んだ。

 それから、私は時々夜にコンビニへ出かけた。
 部活の時とは違う、大人びた顔の先輩に会えることを期待して。
 先輩と何度か会う中で、私はタバコを教わった。いつしかタバコだけではなく、人の手の温もりや、唇の柔らかさまで教わった。
 
 しかし、先輩は高校を卒業すると、東京の大学へ進学してしまい、私は取り残された。
 その時の寂しさを、私は今でも覚えている。
 後を追うように私も東京へ出たけれど、その頃の先輩にはもう恋人がいた。
 じゃあ、私は何だったんだろう。
 それは、今でもよくわからない。

 *

 私は、私にもたれかかっている林を見やった。
 きっと学校で何かがあったせいで、今ここにいる女の子。
 この可愛い子を、これ以上傷つけるわけにはいかない。
「そっか。杉野さんは、やっぱり大人だね」
 林はそう言うと、部屋の空気を鼻から吸い込んだ。
 
 タバコには、人を惑わせる力がある。
 先輩は私を惑わせて、傷つけた。
 だから私は、林を惑わせては、いけないんだ。
 そう思いながら、私はタバコの煙を天井に向かって吐き出した。
 四畳半の部屋の中では、赤いランプを灯した空気清浄機の音だけが響いていた。