四畳半、煙草の煙、火曜日の少女 〜これは、二人だけの秘密だよ〜

 私は朝から落ち着かなかった。
 
 今日は火曜日。オフの日。
 これまでなら、午後は図書館で読書をするのが習慣だった。
 でも、先週、
 
 ——もし、カフェオレが飲みたくなったら、また来てもいいから。
 
 名前も知らない少女に対して、あんなことを言ってしまったのだ。
 もし本当に来たら、と思うと、おちおち出かけることもできない。
 私は、せめて時間くらいは話しておくべきだった、と後悔した。
 そわそわしながら時計を見ると、今は十二時過ぎ。
 先週、窓からあの子を見たのは、ちょうど今くらいの時間だったはず。
 私は、期待しすぎないように気を付けながら窓の外を眺めた。
 
 すると、来た。
 くせ毛の少女が歩いてくるのが見えた。
 私は嬉しくて、胸がドキドキと鳴るのを感じた。
 でも、まだわからない。このまま道をまっすぐ進んで、図書館へ行ってしまうかもしれない。
 しかし、少女は通り過ぎず、アパートの敷地に入ってきた。
 本当に、来た!
 そこから待つこと数秒。私は落ち着きを取り戻そうと深呼吸した。
 大人らしく、振る舞わないと。
 ピンポーン。部屋のチャイムが鳴った。
 インターホンなどという洒落た設備は付いていないので、ドアの覗き穴に目をやる。
 レンズの奥に、少女がいた。
 私は、がちゃり、とドアを開ける。
「いらっしゃい」
 私は優しい笑顔で少女を迎え入れた。
 少女は、少し照れたような顔で私を見上げた。ぺこり、と頭を軽く下げてから、ドアをくぐった。

 私は比較的、綺麗好きだ。だから部屋もあまり散らからない。
 でも、今日は久々に来客があるということで、念入りに掃除をしておいた。
 先週と同様に、少女はテーブルの横に座った。
「カフェオレ以外にも、麦茶とかオレンジジュースとかもあるけど、何がいい?」
 私は少女に聞きながら、実家みたいだな、と心の中で苦笑いをした。
 子どもに出せそうな飲み物がカフェオレしかなかったので、いろいろと買い揃えておいたのだ。
「カフェオレがいいです」
「えー、アイスかホットか」
「じゃあ……アイスで」
「あいよ」
 私は買ったばかりのグラスを二つ取り、そこでインスタントのアイスカフェオレを作った。少女と私の二人分。せっかくだから、氷も三つ入れてやる。
 キッチンから戻ろうとすると、また少女は私のことを見ていた。
「どうぞ」
 少女の前にグラスを出してやると、何も言わずに一口飲んだ。
 私は、少女を眺めていた。
 しかし、いつまでもそうしているわけにもいかないと思い、会話を始めた。
「そういえば、名前を聞いていなかったよね。私は杉野(すぎの)
 私は優しい笑顔で言った。
「私は、(はやし)です」
 少女は静かに言った。杉とか林とか、私の名前となんとなく似てるな。
 下の名前が気になったものの、他人のプライバシーに関わるし、苗字だけでもコミュニケーションにおいては充分だったので、それ以上は聞かないことにした。
「今日は来てくれて、嬉しかったよ」
 私がそう言うと、林は小さく頷いた。
 ……会話が続かない。子どもとのコミュニケーションって、難しいな……。
 私は記憶の引き出しを探った。人と会話を続けるコツ……。
「今日は、親に何て言って出かけてきたの?」
 そうだ、会話のコツは、質問することだ。質問には答えないといけないから、自然と会話のラリーになる。
「図書館に行くって」
 林は平然と言った。
「……それ嘘じゃん」
「ううん、後で図書館に行けば、嘘にならないから」
 私は呆れた。この子、意外とズルいところがあるんだな。
「図書館で何の本を読むの?」
「こないだは、手品の本。紐が腕を通り抜けたり、トランプを当てたりするの」
「へえ、手品が好きなの?」
「ううん、なんとなく」
「何かやってよ」
「もう覚えてない」
 林は照れくさそうに笑った。それを見て、私も笑った。
 
 林は全ての質問に答えてくれた。
 年齢は十一歳。好きな食べ物はクリームシチュー。
 平日は午前中に家で勉強をして、午後に図書館へ行っていること。
 学校の話は、地雷を踏んでしまうような気がして聞かなかった。
 会話のラリーをある程度続けたところで、私はヤニを補給したくなってきた。
 図書館で本を読んでいる時は全然平気なのだが、家にいるとどうしても吸いたくなってしまう。
「ごめん、タバコ吸うね」
 私は灰皿を手にして、換気扇へ向かおうと腰を上げた。
「ここでいいよ」
 しかし、林に引き留められた。
「でも、体に悪いから」
「ううん、私、杉野さんがタバコを吸うところ、見ていたい」
 林は目を大きく開けて、きっぱりと言った。
 私はその目を知っていた。私もそんな目をしていたときがあったから。
「……じゃあ、お言葉に甘えて。でも窓は開けるから」
 私はそう言って立ち上がり、窓を大きく開けた。
 タバコを咥えて、フィルター越しに息を吸い込み、火をつける。
 じゅ、と音を立てるタバコ。フィルターを通った煙が口に充満し、私はそれをゆっくりと吐き出す。
 その一連の動作を、林はじっくりと見つめていた。

「……あの」
 しばらくすると、林はもじもじとして言った。
「あの……トイレ……」
「ああ、そこのドア」
 私はトイレの場所を人差し指で示した。
 林は、ととと、と歩いてトイレに入った。
 すると、壁の向こう側から、シャー……チョロ、という音が聞こえてきた。
 私は天を仰いだ。
 この部屋のトイレを人に貸すのは初めてだった。
 そっか、こんなに音が聞こえるんだ……知らなかった……。
 ジョバー、と水を流す音が聞こえると、林は何事もなかったように出てきて手を洗い、またテーブルの横に座った。
 私は何となく目を合わせることができなかった。
 もし次に私がトイレに行ったときは、思いっきりジャーって音を立ててやろうかな。
 そんなくだらないイタズラを思い付き、私は心の中でほくそ笑んだ。

 十四時ごろになって、林は帰った。ずいぶんと長居したな。
 最後の方は喋ることもなくなっていたが、林はタバコを吸う私を見つめていた。
 憧れの眼差しだな、あれは。私もそんな目をしていたことがあるから、わかる。
 ところで、今朝の反省を踏まえて、私は林と二つの約束を交わした。
 来るときの時間は十二時から十三時の間で、もし私が出ない場合は諦めて図書館へ行くこと。
 私は窓から、アパートを出た林の様子を見下ろしていた。
 帰る前に消臭剤をかけてあげたから、タバコの匂いは多分大丈夫だろう。もしヤニ臭いままで図書館に行って、白い目で見られたら可哀想だ。
 ところが林は図書館の方ではなく、来た道をまっすぐに帰っていった。
 ……やっぱり嘘じゃねえか。私は頭を抱えてしまった。
 
 それにしても……あいつ、来週も来るかな。
 私は部屋を見渡した。林のいなくなった部屋は、来る前よりも静かなように感じた。