それから、私は毎週火曜日の午後に図書館へ出かけた。
人は少なく、静か。オフの日にゆっくりと過ごすにはちょうどいい。
私は相変わらず、低い机で児童文庫を読んだ。
そして、くせ毛の少女はいつも同じ席にいた。
またいるな、と思って少女を見やると、向こうも私に気が付いて、少しだけ目が合う。
私たちは言葉を交わすことはないが、きっとお互いのことを認識している。
向こうがどう思っているか知らないけど、私はいつも見る顔に安心感を覚えていた。
図書館に通い始めてから一か月半ほどが経った頃。
ゴールデンウィークが終わり、学生やサラリーマンは連休が名残惜しくて嘆いている頃だろうか。
今日は火曜日なので、いつもなら図書館へ行く日だ。
でも、雨がしとしとと降っている。まだ梅雨入り前なのに。
私は外に出る気になれず、タバコを吸いながら窓の外をぼんやりと見下ろしていた。
図書館は家から近いが、この窓からは見えなかった。
あの少女は、今日も図書館にいるのだろうか。
同じ空間で、ほんのわずかな時間、視線を交わす少女。
どうして、学校に行かないで、図書館なんかにいるんだろうな。
少女と何度も顔を合わせているせいで、今となっては気になって仕方がない。
かといって、話しかけようとも思わない。私はそこまでおせっかいじゃない。
ふう、と私は口から煙を吐いた。
すると、窓の外に、傘を差した子どもが歩いてくるのが見えた。女の子だろうか。
曲がり角に差し掛かった時に、角の反対側から、雨合羽を着て自転車に乗った人が勢いよく走ってくるのが見えた。
このままだと危なそうだな。大丈夫かな。
そう思った時には、その二人は同じタイミングで曲がり角に入った。
「危ないっ!」
私は部屋の中で声を上げた。
間一髪、自転車と子どもはぶつかることはなかった。自転車はそのままのスピードで走り去っていった。
しかし、子どもは自転車に驚いたためか、転んで倒れてしまった。
子どもは道路にへたり込んだまま、立ち上がらない。傘は投げ出されてしまっている。
え、これ、ヤバくない?
部屋の中から、立て、立つんだ! と念を送るものの、子どもは雨に濡れたまま、立ち上がるそぶりを見せない。
ああもう! 私はたまらなくなり、傘を持って部屋を飛び出した。
「ちょっと、大丈夫?」
私は投げ出された傘を拾い、へたり込んだ子どもに手渡そうとした。
すると私は、あっ、と小さく声を上げた。
あの少女だった。
図書館でいつも見る、くせ毛の少女。
少女が私を見上げると、向こうも、あっ、という表情をした。
それで現実に帰ってきたのか、少女はゆっくりと立ち上がり、傘を受け取った。
見ると、半ズボンから伸びた足の膝には大きな擦り傷ができており、出血していることがわかった。
「怪我してるじゃん。手当てしてあげるから、来て」
しかし、少女は硬い表情のまま、動かない。
「すぐそこだから」
私は少女の手を引き、目の前のアパートまで連れて行った。
しかしドアノブに手をかけた途端に、不安が全身を襲った。
見知らぬ大人が、子どもを家に連れ込んでいいのか?
私は一瞬ためらったが、かといって怪我をした少女をそのままにはできなかった。
私は頭を左右に振ってからドアを開けた。
四畳半のワンルーム。うちは物が少ないから、あまり散らかっていない。
部屋の真ん中には折り畳みテーブル。あとは衣装ケースとちょっとした小物入れ程度だ。
「そのまま上がっちゃって」
雨に濡れた少女を部屋に上げると、私はバスタオルを手渡した。
「適当に座っていいよ」
私がそう言うと、少女はテーブルの横に体育座りをした。膝の擦り傷が痛々しい。
さて、まずは……傷口を清潔にしないと。
私は座らせたばかりの少女を立ち上がらせた。ごめん。
バスルームに連れていき、靴下を脱いでもらうと、綺麗な素足が現れた。その足をバスタブに入れさせる。
「ちょっと痛いかも。我慢してね」
そう言ってから傷口にシャワーを当てると、少女は顔をしかめた。
傷口を洗い終えた後にタオルでふき取ると、出血はひどくないことがわかった。
部屋に戻り、改めてテーブルの横に少女を座らせると、私は傷口に絆創膏を貼ってあげた。
一通りの手当てを終えて、私はようやくほっとした。
「これで大丈夫かな」
私が微笑むと、少女は小さく頷いた。まだ表情は硬い。
「落ち着くまで、ここで休んでいきな」
私はそう言ってキッチンに向かった。
電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントのカフェオレを作る。
部屋へ戻ろうと振り返ると、少女は私を見ていた。警戒されているのかな。
「はいどうぞ。カフェオレ。熱いから気を付けて」
少女はマグカップを受け取ると、ふうふうと冷ましながらカフェオレを飲み始めた。
その姿を見届けた私は、タバコに火をつけ、肺にたっぷりと煙を吸い込んだ。
すると、少女は私をじっと見つめていた。
そこで私はハッと気が付いた。
やっべ。子どもの前じゃん。
「ごめん」
私は灰皿を手にしてそそくさとキッチンへ行き、換気扇の下に立った。
一本吸い終えてから部屋に戻ると、カフェオレはまだほとんど残っていた。
「あー……ごめんね。この部屋、タバコ臭いよね」
「ううん」
少女は、ふるふると顔を横に振った。それが、私にとっての初めての少女の声だった。
「お姉さんの匂い、嫌いじゃないです」
少女は上目遣いでこちらを見ながら言った。
「……そう」
私はふっと目を伏せた。
タバコの匂い、じゃなくて、お姉さんの匂い、か。
そうか、私、いつもタバコ臭いんだ。
そんな女が、図書館の子どもの本のコーナーに座っていたのかと思うと、途端に申し訳なさに包まれた。
「あの……あの、あなた、いつも図書館にいるよね。今日も図書館に行くところだった?」
名前も知らない少女をなんて呼べばいいかわからず、少し迷ってから「あなた」という呼び方になった。
少女は頷いた。
「本が好きなの?」
すると、少女はうつむいた。
「……家にいても、退屈だから」
ほんの短い回答だったが、それは私に充分な情報を与えた。
やっぱり、不登校なんだろうな。
この子は平日、少なくとも火曜日は家にいる。そして、やることがないから図書館に来ている。
どうして学校に行かないんだろう。勉強とか、遅れてしまわないかな。
そんな心配が頭をよぎったが、それこそおせっかいが過ぎると思う。
でも、なんだか、放っておけないな。
「あの、帰ります」
少女が言った。いつの間にかマグカップは空っぽになっていた。
「うん、気を付けて」
そう言ったものの、私は心残りを感じていた。
ここで別れてしまえば、私たちはまた図書館の無言の関係に戻るだろう。
暇を持て余した不登校の少女と、タバコ臭いフリーターの女。
しかし、彼女のことを知ってしまった今、それはなんとなく無責任であるように感じた。
「あのさ」
私は少女を呼び止めた。
私は、自分がそうしたことに驚いた。
「あの、もし、カフェオレが飲みたくなったら、また来てもいいから。私、火曜日はいつも仕事が休みだから」
それを聞いた少女は、驚いた顔をした。
そして、はにかんで笑った。
「……はい」
お、初めて見たかも。この子の笑うところ。
少女が帰った後、私はキッチンでマグカップを洗った。もう数年使っていて、少しコーヒー渋のついたマグカップ。
本当に、また来るかな。
思わず期待して胸が温かくなったが、期待しすぎるのもよくない。来なかったときに、かえってがっかりしてしまう。
ああは言ったものの、私はなるべく今日の感情を忘れようとして、スポンジをぎゅっとマグカップに擦り付けた。
人は少なく、静か。オフの日にゆっくりと過ごすにはちょうどいい。
私は相変わらず、低い机で児童文庫を読んだ。
そして、くせ毛の少女はいつも同じ席にいた。
またいるな、と思って少女を見やると、向こうも私に気が付いて、少しだけ目が合う。
私たちは言葉を交わすことはないが、きっとお互いのことを認識している。
向こうがどう思っているか知らないけど、私はいつも見る顔に安心感を覚えていた。
図書館に通い始めてから一か月半ほどが経った頃。
ゴールデンウィークが終わり、学生やサラリーマンは連休が名残惜しくて嘆いている頃だろうか。
今日は火曜日なので、いつもなら図書館へ行く日だ。
でも、雨がしとしとと降っている。まだ梅雨入り前なのに。
私は外に出る気になれず、タバコを吸いながら窓の外をぼんやりと見下ろしていた。
図書館は家から近いが、この窓からは見えなかった。
あの少女は、今日も図書館にいるのだろうか。
同じ空間で、ほんのわずかな時間、視線を交わす少女。
どうして、学校に行かないで、図書館なんかにいるんだろうな。
少女と何度も顔を合わせているせいで、今となっては気になって仕方がない。
かといって、話しかけようとも思わない。私はそこまでおせっかいじゃない。
ふう、と私は口から煙を吐いた。
すると、窓の外に、傘を差した子どもが歩いてくるのが見えた。女の子だろうか。
曲がり角に差し掛かった時に、角の反対側から、雨合羽を着て自転車に乗った人が勢いよく走ってくるのが見えた。
このままだと危なそうだな。大丈夫かな。
そう思った時には、その二人は同じタイミングで曲がり角に入った。
「危ないっ!」
私は部屋の中で声を上げた。
間一髪、自転車と子どもはぶつかることはなかった。自転車はそのままのスピードで走り去っていった。
しかし、子どもは自転車に驚いたためか、転んで倒れてしまった。
子どもは道路にへたり込んだまま、立ち上がらない。傘は投げ出されてしまっている。
え、これ、ヤバくない?
部屋の中から、立て、立つんだ! と念を送るものの、子どもは雨に濡れたまま、立ち上がるそぶりを見せない。
ああもう! 私はたまらなくなり、傘を持って部屋を飛び出した。
「ちょっと、大丈夫?」
私は投げ出された傘を拾い、へたり込んだ子どもに手渡そうとした。
すると私は、あっ、と小さく声を上げた。
あの少女だった。
図書館でいつも見る、くせ毛の少女。
少女が私を見上げると、向こうも、あっ、という表情をした。
それで現実に帰ってきたのか、少女はゆっくりと立ち上がり、傘を受け取った。
見ると、半ズボンから伸びた足の膝には大きな擦り傷ができており、出血していることがわかった。
「怪我してるじゃん。手当てしてあげるから、来て」
しかし、少女は硬い表情のまま、動かない。
「すぐそこだから」
私は少女の手を引き、目の前のアパートまで連れて行った。
しかしドアノブに手をかけた途端に、不安が全身を襲った。
見知らぬ大人が、子どもを家に連れ込んでいいのか?
私は一瞬ためらったが、かといって怪我をした少女をそのままにはできなかった。
私は頭を左右に振ってからドアを開けた。
四畳半のワンルーム。うちは物が少ないから、あまり散らかっていない。
部屋の真ん中には折り畳みテーブル。あとは衣装ケースとちょっとした小物入れ程度だ。
「そのまま上がっちゃって」
雨に濡れた少女を部屋に上げると、私はバスタオルを手渡した。
「適当に座っていいよ」
私がそう言うと、少女はテーブルの横に体育座りをした。膝の擦り傷が痛々しい。
さて、まずは……傷口を清潔にしないと。
私は座らせたばかりの少女を立ち上がらせた。ごめん。
バスルームに連れていき、靴下を脱いでもらうと、綺麗な素足が現れた。その足をバスタブに入れさせる。
「ちょっと痛いかも。我慢してね」
そう言ってから傷口にシャワーを当てると、少女は顔をしかめた。
傷口を洗い終えた後にタオルでふき取ると、出血はひどくないことがわかった。
部屋に戻り、改めてテーブルの横に少女を座らせると、私は傷口に絆創膏を貼ってあげた。
一通りの手当てを終えて、私はようやくほっとした。
「これで大丈夫かな」
私が微笑むと、少女は小さく頷いた。まだ表情は硬い。
「落ち着くまで、ここで休んでいきな」
私はそう言ってキッチンに向かった。
電気ケトルでお湯を沸かし、インスタントのカフェオレを作る。
部屋へ戻ろうと振り返ると、少女は私を見ていた。警戒されているのかな。
「はいどうぞ。カフェオレ。熱いから気を付けて」
少女はマグカップを受け取ると、ふうふうと冷ましながらカフェオレを飲み始めた。
その姿を見届けた私は、タバコに火をつけ、肺にたっぷりと煙を吸い込んだ。
すると、少女は私をじっと見つめていた。
そこで私はハッと気が付いた。
やっべ。子どもの前じゃん。
「ごめん」
私は灰皿を手にしてそそくさとキッチンへ行き、換気扇の下に立った。
一本吸い終えてから部屋に戻ると、カフェオレはまだほとんど残っていた。
「あー……ごめんね。この部屋、タバコ臭いよね」
「ううん」
少女は、ふるふると顔を横に振った。それが、私にとっての初めての少女の声だった。
「お姉さんの匂い、嫌いじゃないです」
少女は上目遣いでこちらを見ながら言った。
「……そう」
私はふっと目を伏せた。
タバコの匂い、じゃなくて、お姉さんの匂い、か。
そうか、私、いつもタバコ臭いんだ。
そんな女が、図書館の子どもの本のコーナーに座っていたのかと思うと、途端に申し訳なさに包まれた。
「あの……あの、あなた、いつも図書館にいるよね。今日も図書館に行くところだった?」
名前も知らない少女をなんて呼べばいいかわからず、少し迷ってから「あなた」という呼び方になった。
少女は頷いた。
「本が好きなの?」
すると、少女はうつむいた。
「……家にいても、退屈だから」
ほんの短い回答だったが、それは私に充分な情報を与えた。
やっぱり、不登校なんだろうな。
この子は平日、少なくとも火曜日は家にいる。そして、やることがないから図書館に来ている。
どうして学校に行かないんだろう。勉強とか、遅れてしまわないかな。
そんな心配が頭をよぎったが、それこそおせっかいが過ぎると思う。
でも、なんだか、放っておけないな。
「あの、帰ります」
少女が言った。いつの間にかマグカップは空っぽになっていた。
「うん、気を付けて」
そう言ったものの、私は心残りを感じていた。
ここで別れてしまえば、私たちはまた図書館の無言の関係に戻るだろう。
暇を持て余した不登校の少女と、タバコ臭いフリーターの女。
しかし、彼女のことを知ってしまった今、それはなんとなく無責任であるように感じた。
「あのさ」
私は少女を呼び止めた。
私は、自分がそうしたことに驚いた。
「あの、もし、カフェオレが飲みたくなったら、また来てもいいから。私、火曜日はいつも仕事が休みだから」
それを聞いた少女は、驚いた顔をした。
そして、はにかんで笑った。
「……はい」
お、初めて見たかも。この子の笑うところ。
少女が帰った後、私はキッチンでマグカップを洗った。もう数年使っていて、少しコーヒー渋のついたマグカップ。
本当に、また来るかな。
思わず期待して胸が温かくなったが、期待しすぎるのもよくない。来なかったときに、かえってがっかりしてしまう。
ああは言ったものの、私はなるべく今日の感情を忘れようとして、スポンジをぎゅっとマグカップに擦り付けた。



