今日は火曜日。オフの日。
そして、林のご褒美の日だ。
泊まりの荷物を持って、林は午前中にやって来た。左耳にイヤリングを揺らしながら。
「いらっしゃい」
「杉野さん、おはよう」
「おはよう。ふふ、おはようなんて、初めてだね」
私が笑うと、林も笑った。
「話しておいた通り、今日は時間がたっぷりあるから、出かけようと思ってるの。いいよね?」
「うん、杉野さんと一緒なら、どこでもいいよ」
「よし、じゃあ荷物を置いて、トイレを済ませたらさっさと出かけようか」
林の支度が済むと、私は質問をした。
「そういえば、ネックレスはしてきたの?」
「うん、もちろん」
林はシャツの内側からネックレスを取り出した。
私がプレゼントした、あの秘密のネックレス。
「綺麗。すごく似合ってるよ」
私はドキドキしながら、首筋に手を置こうとして、そっと手を引っ込めた。
「ねえ、今日は特別な日だから、夏実って呼んでもいい?」
そう言うと、宝物を手に入れたみたいに林の目がキラキラと輝いた。
「いいよ~。じゃあ、私も円さんって呼ぶね」
「いいね。最高だよ、夏実」
きゃあ、と夏実は照れて喜んだ。この子は本当に可愛い。
今日は電車でお出かけ。私たちは水族館に来た。平日なので、とても空いている。
薄暗がりの中で、ゆっくりと水槽を見て回った。
小さなエビの水槽をのぞき込んでいる時に、顔が近づいた。
そこで私は耳元で囁いた。
「ねえ、あなたと一緒にいると、いつもすごく落ち着くんだ」
すると、夏実はもじもじした後、私に囁き返した。
「うん、私も」
そして互いの目を見つめ、ふふ、と笑いあった。
ああ、この時間が、永遠に続けばいいのに。
でも、それは夏実の未来を奪うことになってしまう。
彼女が行くべき未来は、ここじゃない。
よくわかっているはずなのに、どうしても気持ちが割り切れない。
私たちはスーパーで夕食と明日の朝食を買い込んでから、アパートに戻った。
夏実は目玉焼きを作りたいと張り切っていたが、相変わらずフライパンがないということで断った。
夕食を終えてタバコを吸い始めると、夏実はいつものようにすり寄ってきた。
そこで私は、自分でも思いがけない言葉を口にした。
「ねえ、タバコ、吸ってみる?」
「ええ、いいの?」
「うん、今日は特別。お母さんとかには内緒ね」
言葉にしてから、自分でも気付いた。
また私は、この子に「秘密」を渡している。
それ以上考えないようにしながら、私はタバコを手渡した。
最初は肺に入れないで、口に含むように吸うといいよ、と教えてから火を着けてやると、夏実は上手にタバコを吹かした。
未成年に喫煙させたことよりも、秘密を共有させてしまったことに胸が痛む。
今日の私はおかしい。以前ならこんなことさせなかったのに。
タバコの味を覚えた夏実は、上気した様子でこちらを見た。
「これで円さんに近づけたね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
違う。
夏実の来るべき場所は、本当はこっちじゃなかった。
二人で一服し終えた後。
夏実が真新しい制服を着て、同世代の友達と談笑する未来を想像した。
それは本来、喜ぶべき未来だった。
でもその未来の中に、私はいなかった。
私は、ずっと考えていたことを打ち明けた。
「ねえ、こんな特別な日が、ずっと続いたらいいと思わない?」
「うん、そうだね」
「実は私……引っ越そうと思ってるんだ」
「ええ? どこに?」
「夏実の寮の近く。そうすれば、これからはいつでも会えるよ」
「そんな、平気なの?」
「平気だよ。私、夏実が安心できる場所を作ってあげたいから。あなたのそばで、ずっと守ってあげたいの」
「円さん……!」
夏実は感極まり、私に抱き着いた。
すると、耳の奥で、『本当に?』という声が聞こえた気がした。シロちゃんだ。
『守るって言うけどさ、本当はキミがそばにいたいだけなんじゃないのかな?』
私はハッとして部屋を見回したけど、シロちゃんはいなかった。
そういえば、夏実は気がつかなかったみたいだけど、今日のこの部屋にはシロちゃんはいない。
二人の時間を邪魔してほしくなかったので、衣装ケースの奥に閉じ込めたのだ。
しばらく、二人で静かに体を寄せ合っていた。
静寂の中で、お互いの体温や重みを感じていた。
しかし、夏実が甘えるように私の胸に顔をうずめた時、頭の中で何かが焼き切れる音が聞こえた気がした。
「……ねえ、夏実」
「んー?」
夏実は甘えた声を出して顔を上げた。
私の湿った視線を受けながら、次の言葉を待っている。
「夏実は本当に可愛いね」
私は彼女の背中を撫でてから、腰に手を回した。
「ふふ、そう?」
夏実は照れながら笑った。
「あのさ……私だけの、特別になってよ」
私は夏実の顎に手を添えて、顔を近づけた。
その時、シロちゃんの声が耳鳴りのように聞こえた気がして、ずきんと胸が痛んだ。
「特別……?」
夏実の体がこわばるのを感じた。期待と不安が入り交じった目をしている。
「これは、二人だけの秘密だよ」
「ひみつ……」
夏実の顔は火照り、目はとろんとしてきた。
耳鳴りが大きくなる。
「大丈夫、私に任せて。私なら、あなたを特別にしてあげられる」
すると、夏実は小さく頷いてから、静かにその目を閉じた。
その姿を見て、私は一瞬だけ迷った。
今ならまだ、やめられる。まだ、取り戻せる。
でも。
私は、その一歩を踏んでしまった。
こうして、私は夏実を手に入れた。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
守りたかった大切なものを、私は自分の中に閉じ込めてしまった。
* * *
春の風は、少しの暖かさと新しい空気を連れてくる。
夏実はとうとう中学へ進学した。
以前とは打って変わって、楽しく学校へ通っているらしい。
私は相変わらずコンビニでバイトをしていた。
でも、以前とは違う店舗で働いている。
ここは学校が近い。そのため、放課後には中高生たちが次々と来店してくる。
すると、女子中学生のグループがやってきた。流行りのアイドルやダンスの話題で盛り上がっている。
その中に夏実がいた。制服姿で同級生らと談笑する姿を見て、私はほっとした。
よかったね、夏実。
ここが、あなたの望んだ場所だよ。
彼女たちは順番にレジに来た。いつも通り淡々と接客をこなしていく。
そのうち夏実も来て、アイスをレジに置いた。それを受け取る時に、目が合った。
そして私だけに聞こえるように、ほほ笑みながらそっと囁いた。
(どようび)
そして、制服の下に隠した校則違反のネックレスをちらりと見せた。
私はその秘密のメッセージを受け取ると、夏実だけにわかるように小さく笑った。
私はあの日から、耳鳴りがやまない。
明日は土曜日。オフの日。
夏実の中学校は休みだ。
私はまた、あの子を待っているだろう。
でも、明日、あの子は必ず来る。
だって、私がそうさせてしまったから。
そして、林のご褒美の日だ。
泊まりの荷物を持って、林は午前中にやって来た。左耳にイヤリングを揺らしながら。
「いらっしゃい」
「杉野さん、おはよう」
「おはよう。ふふ、おはようなんて、初めてだね」
私が笑うと、林も笑った。
「話しておいた通り、今日は時間がたっぷりあるから、出かけようと思ってるの。いいよね?」
「うん、杉野さんと一緒なら、どこでもいいよ」
「よし、じゃあ荷物を置いて、トイレを済ませたらさっさと出かけようか」
林の支度が済むと、私は質問をした。
「そういえば、ネックレスはしてきたの?」
「うん、もちろん」
林はシャツの内側からネックレスを取り出した。
私がプレゼントした、あの秘密のネックレス。
「綺麗。すごく似合ってるよ」
私はドキドキしながら、首筋に手を置こうとして、そっと手を引っ込めた。
「ねえ、今日は特別な日だから、夏実って呼んでもいい?」
そう言うと、宝物を手に入れたみたいに林の目がキラキラと輝いた。
「いいよ~。じゃあ、私も円さんって呼ぶね」
「いいね。最高だよ、夏実」
きゃあ、と夏実は照れて喜んだ。この子は本当に可愛い。
今日は電車でお出かけ。私たちは水族館に来た。平日なので、とても空いている。
薄暗がりの中で、ゆっくりと水槽を見て回った。
小さなエビの水槽をのぞき込んでいる時に、顔が近づいた。
そこで私は耳元で囁いた。
「ねえ、あなたと一緒にいると、いつもすごく落ち着くんだ」
すると、夏実はもじもじした後、私に囁き返した。
「うん、私も」
そして互いの目を見つめ、ふふ、と笑いあった。
ああ、この時間が、永遠に続けばいいのに。
でも、それは夏実の未来を奪うことになってしまう。
彼女が行くべき未来は、ここじゃない。
よくわかっているはずなのに、どうしても気持ちが割り切れない。
私たちはスーパーで夕食と明日の朝食を買い込んでから、アパートに戻った。
夏実は目玉焼きを作りたいと張り切っていたが、相変わらずフライパンがないということで断った。
夕食を終えてタバコを吸い始めると、夏実はいつものようにすり寄ってきた。
そこで私は、自分でも思いがけない言葉を口にした。
「ねえ、タバコ、吸ってみる?」
「ええ、いいの?」
「うん、今日は特別。お母さんとかには内緒ね」
言葉にしてから、自分でも気付いた。
また私は、この子に「秘密」を渡している。
それ以上考えないようにしながら、私はタバコを手渡した。
最初は肺に入れないで、口に含むように吸うといいよ、と教えてから火を着けてやると、夏実は上手にタバコを吹かした。
未成年に喫煙させたことよりも、秘密を共有させてしまったことに胸が痛む。
今日の私はおかしい。以前ならこんなことさせなかったのに。
タバコの味を覚えた夏実は、上気した様子でこちらを見た。
「これで円さんに近づけたね」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が締め付けられた。
違う。
夏実の来るべき場所は、本当はこっちじゃなかった。
二人で一服し終えた後。
夏実が真新しい制服を着て、同世代の友達と談笑する未来を想像した。
それは本来、喜ぶべき未来だった。
でもその未来の中に、私はいなかった。
私は、ずっと考えていたことを打ち明けた。
「ねえ、こんな特別な日が、ずっと続いたらいいと思わない?」
「うん、そうだね」
「実は私……引っ越そうと思ってるんだ」
「ええ? どこに?」
「夏実の寮の近く。そうすれば、これからはいつでも会えるよ」
「そんな、平気なの?」
「平気だよ。私、夏実が安心できる場所を作ってあげたいから。あなたのそばで、ずっと守ってあげたいの」
「円さん……!」
夏実は感極まり、私に抱き着いた。
すると、耳の奥で、『本当に?』という声が聞こえた気がした。シロちゃんだ。
『守るって言うけどさ、本当はキミがそばにいたいだけなんじゃないのかな?』
私はハッとして部屋を見回したけど、シロちゃんはいなかった。
そういえば、夏実は気がつかなかったみたいだけど、今日のこの部屋にはシロちゃんはいない。
二人の時間を邪魔してほしくなかったので、衣装ケースの奥に閉じ込めたのだ。
しばらく、二人で静かに体を寄せ合っていた。
静寂の中で、お互いの体温や重みを感じていた。
しかし、夏実が甘えるように私の胸に顔をうずめた時、頭の中で何かが焼き切れる音が聞こえた気がした。
「……ねえ、夏実」
「んー?」
夏実は甘えた声を出して顔を上げた。
私の湿った視線を受けながら、次の言葉を待っている。
「夏実は本当に可愛いね」
私は彼女の背中を撫でてから、腰に手を回した。
「ふふ、そう?」
夏実は照れながら笑った。
「あのさ……私だけの、特別になってよ」
私は夏実の顎に手を添えて、顔を近づけた。
その時、シロちゃんの声が耳鳴りのように聞こえた気がして、ずきんと胸が痛んだ。
「特別……?」
夏実の体がこわばるのを感じた。期待と不安が入り交じった目をしている。
「これは、二人だけの秘密だよ」
「ひみつ……」
夏実の顔は火照り、目はとろんとしてきた。
耳鳴りが大きくなる。
「大丈夫、私に任せて。私なら、あなたを特別にしてあげられる」
すると、夏実は小さく頷いてから、静かにその目を閉じた。
その姿を見て、私は一瞬だけ迷った。
今ならまだ、やめられる。まだ、取り戻せる。
でも。
私は、その一歩を踏んでしまった。
こうして、私は夏実を手に入れた。
そう思った瞬間、胸の奥が冷たくなった。
守りたかった大切なものを、私は自分の中に閉じ込めてしまった。
* * *
春の風は、少しの暖かさと新しい空気を連れてくる。
夏実はとうとう中学へ進学した。
以前とは打って変わって、楽しく学校へ通っているらしい。
私は相変わらずコンビニでバイトをしていた。
でも、以前とは違う店舗で働いている。
ここは学校が近い。そのため、放課後には中高生たちが次々と来店してくる。
すると、女子中学生のグループがやってきた。流行りのアイドルやダンスの話題で盛り上がっている。
その中に夏実がいた。制服姿で同級生らと談笑する姿を見て、私はほっとした。
よかったね、夏実。
ここが、あなたの望んだ場所だよ。
彼女たちは順番にレジに来た。いつも通り淡々と接客をこなしていく。
そのうち夏実も来て、アイスをレジに置いた。それを受け取る時に、目が合った。
そして私だけに聞こえるように、ほほ笑みながらそっと囁いた。
(どようび)
そして、制服の下に隠した校則違反のネックレスをちらりと見せた。
私はその秘密のメッセージを受け取ると、夏実だけにわかるように小さく笑った。
私はあの日から、耳鳴りがやまない。
明日は土曜日。オフの日。
夏実の中学校は休みだ。
私はまた、あの子を待っているだろう。
でも、明日、あの子は必ず来る。
だって、私がそうさせてしまったから。



