四畳半、煙草の煙、火曜日の少女 〜これは、二人だけの秘密だよ〜

 一月の風は冷たい。新しい年の冷たい空気が、私の体を鋭く刺そうとしていた。
 年末の頃に、気が付けば私は一つ年を取っていた。二十三歳になった。
 昔は誕生日が待ち遠しくて仕方がなかったのに、今では誕生日が過ぎたことすら気が付かない。
 
 冬のこの部屋は、暖房を入れてもいつも薄ら寒い。
 もこもこした暖かい部屋着に身を包むものの、露出した手が冷える。
 手を脇の下にでも挟んでおけばいいのだけど、そうするとタバコが吸えない。
 まったく、タバコは火を使うのに、どうして体は温まらないんだろう。
 
 今年は久々に初詣へ行った。
 神を信じてはいないけど、私には神頼みくらいしかやれることがなかった。
 神様、林は勉強熱心だったから、きっと合格できると信じています。
 神様も、林のことを見守ってあげてください。
 どうか、合格できますように。
 
 もうすぐ、中学受験の本番のはずだ。
 親とともに飛行機で現地に向かい、試験を受けるという。
 それを決心した林はすごいし、認めてやった親もすごい。
 これに合格できれば、林はここから離れた地で中学に通える。
 林の明るい未来は、きっと、すぐそこまで来ているよ。
 
 *
 
 夜、電話がかかってきた。林の母親からだ。
 電話で連絡が来ることなど滅多にないから、これはきっと、重要な話。
 つまり、受験の結果報告だろう。
 合格か。不合格か。
 私は震える指でスマホを操作した。
「はい」
『もしもし杉野さん? あのね!』
 林の声だった。母親に何か言われたらしく、
『え、何? うん。ごめんね、こんばんは! 夜分に失礼します』
 と挨拶しなおした。
『今日、受験だったの。昨日からお母さんと飛行機で行って、泊まったの。飛行機は初めてだったから、ちょっと怖かったけど、でも楽しかった』
「うん」
 林は明るい声で次々と話し始めた。
『それでね、今日の午前中が試験で、午後はちょっと観光してから帰ってきたの。もうね、試験勉強から解放された気分で!』
「うん、よかったね」
 でも、私が聞きたいのはそこじゃない。もどかしい。
「あの、それで、試験はどうだった……?」
『そうそう、もう結果が出てるの! 早いよね』
 んもう、そういうのいいから。あなたこそ早く。
『なんと……合格しました!』
「本当? すごい……!」
 よかった。本当によかった。
 夏休みに決心して以来の、林の努力が結実したのだ。
 なんて喜ばしいことだろう。
「おめでとう! よかったね……!」
『うん! 嬉しい!』
 私も嬉しい。本当に嬉しい。
『私、春からは中学生だよ。制服なの。ヤバい、楽しみ~! 届いたら見せてあげるね』
「うん! うん……」
 嬉しいんだけれども。
 林が成長して手の届かない場所に行ってしまうことを自覚して、私は急激に気持ちが冷めてきた。
 私の知らない世界で、私の知らない誰かに囲まれて、あの子は大人になるんだ。
 そう思うと、喉の奥がカラカラになった。
 
『それでさ、ご褒美。覚えてる?』
 私は現実に引き戻された。
「もちろん覚えてるよ。丸一日、一緒に過ごすって約束」
『うん、それで、ちょっとお願いがあるの』
「なあに?」
『その日、そっちに泊まってもいいかなあ?』
「ええっ?」
 突然の話に、頭をガツンと殴られたような衝撃を感じた。
『夜に帰っちゃうの、寂しくなるから。なるべく長く一緒にいたいの』
 私の胸が高鳴り始めた。
 そうか、寂しいか。実は、私もだよ。
「うん」
『お母さんは、いいけど杉野さんに聞かないとダメだよ、って』
 胸の鼓動が早くなる。鎮めようとして、鼻からゆっくりと息を吸い込んだ。
『どうかなあ?』
 林と二人で、夜を明かす。朝まで、林と一緒。
 想像するだけで甘い空気が立ち込めてきて、脳がとろけてしまいそうになる。
「……うん。いいよ。うちは大丈夫」
『やった! お母さん、杉野さんが泊まっていいって! うん、うん。杉野さん、お母さんと代わるね』
 お母さんと言われて、私の額に脂汗が浮かび始めた。
 その後、林の母親から、ありがとうございます、夏実がお邪魔します、などと言われてから、少しだけ世間話をした。
 いいお母さんなんだけど、私はなぜか苦手。今は対面じゃないだけましだけど、本当はすぐにでも電話を切りたかった。

 *
 
 缶チューハイを片手に、私はシロちゃんに語りかけた。
『シロちゃん、林は中学受験に合格したって。本当によかった』
『すごいじゃないか。おめでとう』
『これで学校に通えるね』
『うん。いい学友に出会えるといいね』
『そうだね』
『あの子は同年代の友達を作って、健全な人間関係を築いていくだろうね』
『……うん』
 健全な人間関係。シロちゃんの言うそれに、きっと私は含まれない。
 私は右手首を見た。いつか、林がおまじないの星を書いてくれた。
 ――私たちはずっと一緒。
 でも、水性ペンで書かれた星は、あっという間に消えてしまった。
『シロちゃん、私ね……合格したって聞いた時、すごく嬉しいって思ったんだ』
『それはよかったね』
『でも、その次に思ったの』
『何を?』
『……これで、私がいなくても大丈夫になるんだって』 
 私は震える声で言った。
『ねえ、やっぱりそうなの? あの子には、もう私は必要ないの……?』
 寒気がする。頭が痛い。
『どうなの、シロちゃん……!』
 シロちゃんは表情を変えずに言った。
『あの子が求めていたのは安心できる場所での生活だ。この四畳半もその一つだった。でも、あの子は自分で道を切り開いた。そして、ここではない場所に未来を託した。あの子はキミのことを大切に思っているだろうけど、それとこれとは別だね』
 その言葉を聞いて、私は胸が張り裂けそうになった。
『……それも野生の勘ってやつ?』
『いいや、これは客観的な一般論だね』
 私は目を閉じた。涙が頬を流れていくのを感じた。
 そんなわけない。
 あんなに私を慕っていて。
 あんなに私にすり寄ってきて。
 あの子は、私を必要としているはず。
 そうじゃないと、説明がつかないでしょ。
『ちょっと……考えさせて……』
 私は缶チューハイをぐっと飲み干した。全身にアルコールが行き渡り、筋肉が弛緩してくる。
 次に林に会うのは、ご褒美の日だ。私たちは初めて、一日中一緒に過ごす。
 そうだ、話し合おう。二人でゆっくりと話し合うべきだ。
 あの子の明るい未来を。
 私たちの、今後を。