四畳半、煙草の煙、火曜日の少女 〜これは、二人だけの秘密だよ〜

 九月になっても、夏の厳しい暑さはなかなか消えない。
 今日は火曜日。オフの日。
 長かった夏休みシーズンはようやく終わり、林が久々にやってきた。
「いらっしゃあい」
 私はゆっくりとドアを開け、満面の笑みで林を招き入れた。
「杉野さん!」
 嬉しそうな林。まるで尻尾を振る犬のようだ。暑さのせいか、顔が赤い。
 左耳には、ハートのイヤリングを着けていた。ちなみに私も着けてる。
 夏休み明けだというのに、林の肌はほとんど日焼けしていなかった。夏の間、家に引きこもっていたのだろう。
 うちに来てこんなに嬉しそうなのに、それよりも同級生に会いたくない気持ちの方が強いなんて、本当に何があったんだ。
 心配だし気になるけれども、無理に聞き出すつもりはない。親にも言ってないみたいだし。
 とにかく今は、私のそばにいてくれ。
 
 玄関に入ってドアを閉める。
 いつもならさっさと奥に入るのに、今日の林は突っ立ったままだった。
 立ち姿を見ていたら、なんだか林が前よりも大きくなったように見えた。
 実際には、たかだか一か月ちょっとで、そんなに変わらないだろうけど。
「どした?」
「いや、なんか、帰ってきたなあ、って思って」
 林がしみじみと言うものだから、私はグッときてしまった。
 うん、おかえりなさい、と心の中で呟いた。
「あ、杉野さんもイヤリング着けてる。ほら、私も着けてきたよ」
 私のイヤリングに気が付いた林は、左耳を突き出してハートのイヤリングを見せた。
「うん」
 私はドキドキしながら返事をした。
 すると、林は立ったまま私にすり寄ってきた。
「……会いたかった」
 そう言われて、私の心臓の鼓動が急激に早くなる。
 会いたかった、なんて。この子はどんな気持ちで言っているんだろう。
「……うん」
 私は顔を見られたくなくて、首を横に向けた。
 すると、居室の中からシロちゃんがこちらをじっと見ていた。
 私はシロちゃんをキッと睨みつけ、テレパシーを送った。
『絶対に余計なことを言うなよ』
 
 テーブルに着き、二人でアイスカフェオレを飲む。
「シロちゃんヤッホー」
 林はシロちゃんの頭を撫でてくれた。
 シロちゃんがうちに来てから、林も彼女に挨拶するのが習慣になっていた。
 林と向き合って座ると、玄関でのことを思い出して、また胸がドキドキし始めた。
 どうした、私。
「はあぁ冷たい。生き返るぅ」
 林は歓喜の声を上げた。外は本当に暑い。
「今日は話したいことがいっぱいあるんだ」
「うん、なあに?」
「まず、こないだ十二歳になりました」
「ええっ!」
 そっか、夏生まれだから、夏実なんだ。
「誕生日はいつだったの?」
「八月三十日」
「そうかぁ、十二歳か。おめでとう」
 十二歳。そう言われると、林が途端に大人びて見えた。
 もちろん、本当はまだまだ子どもなんだけれども、林の成長を実感して胸が熱くなった。
「じゃあ遅くなったけど、誕生日プレゼントをあげないとね」
「え! いいの?」
 林は目を丸くして喜んだ。この年齢で、家族以外から誕生日プレゼントをもらう機会は少ないだろう。
「うん、次に会う時までに用意しておくよ」
 ふふ、誰かにプレゼントなんて、いつ以来だろう。
 何をあげたらいいかな。後でじっくりと考えよう。

「後ね、最近家庭教師を付けてもらったの」
「へえ、すごい!」
 林は、家では勉強をしていると言っていた。
 それで家庭教師だなんて。しっかり勉強しようという意識の高さを感じる。
「林は勉強熱心で偉いね」
「えへへ。実はね……」
 林は照れたような顔をして、もじもじしだした。
「私、中学受験をしようと思ってるの」
「へえっ……?」
 馴染みのない言葉を聞いて、一瞬脳が止まった。中学……受験。
 中学なんて、ぼんやり過ごしていても入学できるじゃないか。それを、受験?
 もしかして、林ってめちゃくちゃ勉強家だったのか。それとも親の方針なのか。
 よくわからないけど、私は「すごいね……」と言った。
「私立中学に行きたいの。ここから遠く離れた場所で、学校に通いたい」
 私はハッとした。そうだよ。林は不登校なんだよ。
 中学受験をするってことは、中学から学校に通おうとしてるってことだ!
「ってことは学校に行くんだね! すごい!」
 私は林の決心を素直に喜んだ。だけどこのとき、私は重要な部分を聞き逃していた。
 林は寂しそうな顔をした。
「でも……こうやって杉野さんに会えなくなっちゃうのは悲しいな」
「えっ? なんで中学に行くと会えなくなるの?」
「あのね、私はこの街を離れようと思っているの。寮がある遠くの中学で、新しくやり直したいの」
「遠く、って……どのくらい?」
 林は志望校の場所を答えた。
 私は頭の中に日本地図を浮かべた。ここから行くなら……どう考えても飛行機だ。
「うそ……」
 私はさあっと顔から血の気が引いていくのを感じた。
 林が自分の意思で学校に行くことは、とても喜ばしいことだ。
 でも、会えなくなるという悲しみが、それを上回ってしまいそうになる。
 どうしよう。応援しないといけないのに。
 私は今、間違いなく暗い顔をしている。ヤバい。これはヤバい。
 すると、林は私の手を握った。
「大丈夫だよ、杉野さん。夏休みとかには帰ってくるから、全く会えないわけじゃないよ。中学になったらスマホも買ってもらう予定だから、離れていても連絡できるよ」
 表情に少しだけ寂しさを残しつつも、林はきっぱりと言った。
 本当にヤバいよ。私、子どもに慰められてる。
「うん……頑張ってね……」
 気力を振り絞ってそう言った。
 でも、林の話はこれで終わりじゃなかった。
「それでね、これから受験勉強で忙しくなるかもしれなくて」
 私は耳をふさぎたくなった。
「もしかしたら、前みたいに毎週は来られなくなるかもなの」
「……うん」
 もう、頭の中がぐちゃぐちゃだ。
 久々に林に会えたと思ったら、遠くに行ってしまうとか、来る頻度が減るとか。
「ごめんね、杉野さん」
 そんな、謝らないで。これは、あなたの将来のために必要なことだから。
 でも、私は何も言えなかった。
「……ねえ、手を貸して」
 林はそう言って私の右手を引き、手のひらを上に向けた。
 そして、自分のショルダーバッグからペンを取り出した。
「ちょっと我慢してね」
 林は私の手首の内側に星を描いた。
「私にも書いて」
 右手を差し出されたので、私も同じように星を描いてやる。
 そしてお互いの手を重ねて握り、お祈りのようなポーズをした。
「私たちはずっと一緒。はい、杉野さんも目を閉じて言って」
「私たちはずっと一緒」
 目を開けると、林はにっこりとしていた。
「はい、これはおまじない。これで、離れていても心はずっと一緒でいられるよ。昔、本で読んだの。水性ペンで簡単に消えるから安心してね」
 離れていても、心はずっと一緒。
 私は体中がぞわぞわして、頭が熱くなった。
 気が付くと、私の目から涙がこぼれていた。
 林はぎょっとした顔をして、おろおろしだした。
「ご、ごめん」
 私はそう言って握られていた手をほどき、涙をぬぐった。
 すると林は立ち上がり、私の頭を胸に抱いた。
「……大丈夫だよ、杉野さん。ずっと、一緒だよ」
 私はまた涙があふれてきた。
 林のTシャツの胸元は、私の涙で濡れてしまった。
 大人なのに泣いたりして、本当にごめんね。

 林がいなくなることが、こんなに悲しいなんて。
 林の慰めの言葉が、こんなに胸にしみるなんて。
 もうダメだ。もうこれ以上、自分をごまかせないよ。

 私は、林が好き。林のことが、たまらなく好き。

 ああ、こんなはずじゃなかったのに。
 大人でいるって、どうしてこんなに難しいんだろうね……。