林の家の前まで来ると、私たちの足は止まった。
閑静な住宅街の一軒家。玄関の明かりがついている。
あの扉の向こうで、林の親はどんな顔をして待っているのか。
握っていた林の手に、少しだけ力が入った。
「着いたよ」
私はそう言ったが、林は家を見上げたまま動かなかった。
少しだけ逡巡したのち、林は私の手を離し、意を決してインターホンを押した。
ピーンポーンと音が鳴る。そして、
『夏実!』
インターホンから、母親らしき女性の声が響いた。
そしてドアが開き、林の母親が現れた。
「夏実! よかった!」
母親は走り寄ってきて、林のことを強く抱きしめた。
林は何も喋らないが、その背中から、声を上げずに泣いていることが伝わってきた。
私はそれを見てほっとする反面、胸の中がチクリと痛んだ。
林の帰るべき家は、やっぱりここなんだ。
すると、母親が私に気が付いた。
「夏実、この人は?」
林は涙をぬぐった。
「杉野さん。私のことを連れてきてくれたの」
林が母親に向かって平然と私の名前を口にしたので、少しだけ動揺した。
すると母親は、あっ、という顔をした。
もしかして、ショッピングモールで一緒にいた人として、もう私の名前を聞いているのか?
「夏実、ちょっと先に中に行ってて。私もすぐに行くから」
母親がそう言うと、林は素直に従って家の中に入っていった。
そういえば、あの子の下の名前、夏実っていうんだ。初めて知ったかも。
一瞬だけそう考えたが、母親と二人きりという状況の重圧で、すぐにそれどころではなくなった。
私はどうしてよいかわからず、立ち尽くしていた。
目が合った時に、すぐに会釈くらいすればよかったと後悔する。完全にタイミングを逸した。
「杉野さんですね」
「……はい」
林の母親に見つめられて、私は冷や汗が止まらない。
「まず、夏実を連れて帰ってきてくださって、ありがとうございます」
「……いえ」
「夏実から話は聞きました。夏実がたびたびお邪魔しているそうですね」
「……はい」
母親がまっすぐ見つめてくるので、私は耐えられずに目が泳ぐ。
小学生のころ、いたずらをして先生に呼び出されたときのことを思い出していた。
「夏実がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「え? いえ……そんな、全然です……」
私は驚いてしまった。なぜ謝られたのか。迷惑をかけているのは私の方じゃないのか。
だって、私は、うっかりあの子を連れ去る想像をした女だ。
「夏実のことはどこまで聞いていますか?」
「え……どこまで、と言うのは……?」
「不登校のことです」
「ああ……」
そう言われて、改めて考えてみると、私は何も知らなかった。
本人が何も言わないし、学校の話題を出してはいけない気がしたので、私も聞き出さなかったのだ。
「いえ……そうかな、とは思いましたが……。な、夏実さんから、詳しい話を聞いたことはないです」
私がそう答えると、母親はじっくりと考えこんだ。
沈黙が場を包む。ジー、という虫の声だけが聞こえた。
「杉野さん」
「あいっ」
突然名前を呼ばれて、思わず声が上ずった。
「ここで立ち話も何ですので、よかったら上がっていただけませんか?」
「はい。えっ? あ、はい……」
想定外の申し入れに戸惑い、変な返事になった。
私は促されるまま玄関をくぐった。
リビングに通されると、林がいた。不安そうな顔をしている。
「夏実、ごめんね。杉野さんとお話があるから、部屋に行っててくれる?」
林は頷き、さっとリビングから去っていった。
私はテーブルに着き、真剣な面持ちの母親と改めて対峙した。
明るい場所で見ると、顔立ちはどことなく林に似ていて、やはり親子だと感じさせた。
でも、髪の毛はストレートで、目はメイクできりっとしている。林が大人になって縮毛矯正をしたらこうなるんだろうか。
「杉野さん。まずは改めて、夏実のことをありがとうございました」
「いえ、はい……」
「そして、いつも夏実がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いえいえ、そんな、迷惑だなんてことは全くありません。あの……」
私は頭を働かせて言葉を選んだ。あの煙たい四畳半の部屋の様子は、とても親にそのまま伝えられるものではないと思った。
「夏実さんが遊びに来てくれて、私も退屈せずにいられますので」
「そうですか、そう言ってくださってよかったです」
しかし、母親は真剣な顔のままだ。
「では、夏実の話をしますね」
「はい」
私は唾をゴクリと飲み込んだ。
「あの子は、去年の三学期ごろから小学校に行かなくなりました。四月から六年生になりましたが、一度も登校していません。不登校になった原因について、本人は詳しく語ってくれませんが、私は人間関係が原因なんだろうと思っています」
なんとなく、わかると思った。あの子は同級生に遭遇することを避けている。
「親としては、学校には行ってほしいと思うものの、無理強いする気はなく、本人のやりたいようにさせたいと思っています。ただ、友達付き合いがなくなってしまったので、それが一番気がかりです。家にいると、勉強はどうにでもできますが、人との関わりが少ないんです。フリースクールなどに行かせてあげられるとよいのですが、家から通いやすい場所がなく、諦めていました」
フリースクール。聞いたことはあるけど、どんな場所なのかはよく知らない。
母親の話を聞いていて、この人が林の不登校と真剣に向き合おうとしていることを強く感じた。
一緒に過ごしているだけの無責任な私とは違う。この人は、ちゃんと保護者だ。
「だから、近所に杉野さんのような話し相手がいてくれたことを知って、私はほっとしたんです」
「え……?」
母親は少し柔らかい表情になった。
「これからも、あの子の話し相手になってあげてくれませんか。もちろん、杉野さんのご都合のよい時だけで構いませんから」
「え、あ、はい。私は大丈夫です」
話に頭が追い付かない。
これはつまり、林の親から、林と一緒にいてくれと言われている……?
とても嬉しい話のはずだが、なぜか素直に喜べない。
その原因について考えると、一つの罪悪感が持ち上がった。
「あ、あの、先日は夏実さんをショッピングモールに連れまわしてしまい、申し訳ありませんでした……」
私は非礼を詫びた。親を前にして、本心から申し訳ないと思った。
母親は少しだけ険しい顔になった。やっぱり、あれはよくなかったな……。
「そうですね。今後はどこかに行くときは事前に連絡してほしいですね。杉野さんの連絡先を教えていただけますか?」
母親はスマホを取り出した。私は言われるがままに連絡先を交換した。
「杉野さんの方からは、何かありますか?」
「いえ、大丈夫です……」
私はもう頭がいっぱいだ。これ以上聞くことなんて思いつかない。
「では、夏実を呼んできますね」
母親は席を立った。
一人になった私は、少しずつ冷静になってきた。
林の母親に対して、説明していないことがある。
タバコのこと。お揃いのイヤリングのこと。そして、林の私に対する憧れの眼差し。
でも、これだけ信頼を置いてもらっているんだ。そんなのは余計な話だろう。
とりあえず、今後も林と会えるってことだ。
しかも、親に認められた状態で。
徐々に、罪悪感よりも期待の方が大きくなってくる。
いやあ、よかった。ちゃんと林を家に帰らせて、本当によかった。
そうこうするうちに、林がリビングにさっと入ってきた。
ニコニコしているので、既に母親から話を聞いたのだろう。
「杉野さん」
「うん」
「お母さんが杉野さんのところに行っていいって!」
「うん、よかったね」
私は顔がにやけそうになるのを必死にこらえた。さすがに母親の前ではマズい。
「ねえ夏実。迷惑をかけちゃダメだよ」
遅れて母親もリビングに来た。
「わかってるよ」
林は口をとがらせた。
「じゃあ、私はそろそろ帰りますね」
「ええ! 夕飯食べていきなよ!」
「ちょっと夏実!」
林のわがままに、母親は声を上げた。
「いえいえ、大丈夫です。今日のところは失礼します……」
私は苦笑いしつつ、親子の微笑ましいやり取りを見てほっとした。
すると、何だか急に空腹を覚えた。お腹が鳴る前に早く帰ろう。
玄関を出ると、林はぶんぶんと手を振って私を見送ってくれた。
いつもは私が見送る側なので、新鮮な気持ちだ。
「杉野さん、またね」
「うん、またね」
歩き出すと、どっと疲れが押し寄せてきた。
今日は、私の知らない、林の日常の世界を知った日だった。
林の下の名前、そっくりな母親、今後のこと……。
家に帰ったら、シロちゃんに報告してあげよう。
閑静な住宅街の一軒家。玄関の明かりがついている。
あの扉の向こうで、林の親はどんな顔をして待っているのか。
握っていた林の手に、少しだけ力が入った。
「着いたよ」
私はそう言ったが、林は家を見上げたまま動かなかった。
少しだけ逡巡したのち、林は私の手を離し、意を決してインターホンを押した。
ピーンポーンと音が鳴る。そして、
『夏実!』
インターホンから、母親らしき女性の声が響いた。
そしてドアが開き、林の母親が現れた。
「夏実! よかった!」
母親は走り寄ってきて、林のことを強く抱きしめた。
林は何も喋らないが、その背中から、声を上げずに泣いていることが伝わってきた。
私はそれを見てほっとする反面、胸の中がチクリと痛んだ。
林の帰るべき家は、やっぱりここなんだ。
すると、母親が私に気が付いた。
「夏実、この人は?」
林は涙をぬぐった。
「杉野さん。私のことを連れてきてくれたの」
林が母親に向かって平然と私の名前を口にしたので、少しだけ動揺した。
すると母親は、あっ、という顔をした。
もしかして、ショッピングモールで一緒にいた人として、もう私の名前を聞いているのか?
「夏実、ちょっと先に中に行ってて。私もすぐに行くから」
母親がそう言うと、林は素直に従って家の中に入っていった。
そういえば、あの子の下の名前、夏実っていうんだ。初めて知ったかも。
一瞬だけそう考えたが、母親と二人きりという状況の重圧で、すぐにそれどころではなくなった。
私はどうしてよいかわからず、立ち尽くしていた。
目が合った時に、すぐに会釈くらいすればよかったと後悔する。完全にタイミングを逸した。
「杉野さんですね」
「……はい」
林の母親に見つめられて、私は冷や汗が止まらない。
「まず、夏実を連れて帰ってきてくださって、ありがとうございます」
「……いえ」
「夏実から話は聞きました。夏実がたびたびお邪魔しているそうですね」
「……はい」
母親がまっすぐ見つめてくるので、私は耐えられずに目が泳ぐ。
小学生のころ、いたずらをして先生に呼び出されたときのことを思い出していた。
「夏実がご迷惑をおかけして申し訳ありません」
「え? いえ……そんな、全然です……」
私は驚いてしまった。なぜ謝られたのか。迷惑をかけているのは私の方じゃないのか。
だって、私は、うっかりあの子を連れ去る想像をした女だ。
「夏実のことはどこまで聞いていますか?」
「え……どこまで、と言うのは……?」
「不登校のことです」
「ああ……」
そう言われて、改めて考えてみると、私は何も知らなかった。
本人が何も言わないし、学校の話題を出してはいけない気がしたので、私も聞き出さなかったのだ。
「いえ……そうかな、とは思いましたが……。な、夏実さんから、詳しい話を聞いたことはないです」
私がそう答えると、母親はじっくりと考えこんだ。
沈黙が場を包む。ジー、という虫の声だけが聞こえた。
「杉野さん」
「あいっ」
突然名前を呼ばれて、思わず声が上ずった。
「ここで立ち話も何ですので、よかったら上がっていただけませんか?」
「はい。えっ? あ、はい……」
想定外の申し入れに戸惑い、変な返事になった。
私は促されるまま玄関をくぐった。
リビングに通されると、林がいた。不安そうな顔をしている。
「夏実、ごめんね。杉野さんとお話があるから、部屋に行っててくれる?」
林は頷き、さっとリビングから去っていった。
私はテーブルに着き、真剣な面持ちの母親と改めて対峙した。
明るい場所で見ると、顔立ちはどことなく林に似ていて、やはり親子だと感じさせた。
でも、髪の毛はストレートで、目はメイクできりっとしている。林が大人になって縮毛矯正をしたらこうなるんだろうか。
「杉野さん。まずは改めて、夏実のことをありがとうございました」
「いえ、はい……」
「そして、いつも夏実がご迷惑をおかけして、申し訳ありません」
「いえいえ、そんな、迷惑だなんてことは全くありません。あの……」
私は頭を働かせて言葉を選んだ。あの煙たい四畳半の部屋の様子は、とても親にそのまま伝えられるものではないと思った。
「夏実さんが遊びに来てくれて、私も退屈せずにいられますので」
「そうですか、そう言ってくださってよかったです」
しかし、母親は真剣な顔のままだ。
「では、夏実の話をしますね」
「はい」
私は唾をゴクリと飲み込んだ。
「あの子は、去年の三学期ごろから小学校に行かなくなりました。四月から六年生になりましたが、一度も登校していません。不登校になった原因について、本人は詳しく語ってくれませんが、私は人間関係が原因なんだろうと思っています」
なんとなく、わかると思った。あの子は同級生に遭遇することを避けている。
「親としては、学校には行ってほしいと思うものの、無理強いする気はなく、本人のやりたいようにさせたいと思っています。ただ、友達付き合いがなくなってしまったので、それが一番気がかりです。家にいると、勉強はどうにでもできますが、人との関わりが少ないんです。フリースクールなどに行かせてあげられるとよいのですが、家から通いやすい場所がなく、諦めていました」
フリースクール。聞いたことはあるけど、どんな場所なのかはよく知らない。
母親の話を聞いていて、この人が林の不登校と真剣に向き合おうとしていることを強く感じた。
一緒に過ごしているだけの無責任な私とは違う。この人は、ちゃんと保護者だ。
「だから、近所に杉野さんのような話し相手がいてくれたことを知って、私はほっとしたんです」
「え……?」
母親は少し柔らかい表情になった。
「これからも、あの子の話し相手になってあげてくれませんか。もちろん、杉野さんのご都合のよい時だけで構いませんから」
「え、あ、はい。私は大丈夫です」
話に頭が追い付かない。
これはつまり、林の親から、林と一緒にいてくれと言われている……?
とても嬉しい話のはずだが、なぜか素直に喜べない。
その原因について考えると、一つの罪悪感が持ち上がった。
「あ、あの、先日は夏実さんをショッピングモールに連れまわしてしまい、申し訳ありませんでした……」
私は非礼を詫びた。親を前にして、本心から申し訳ないと思った。
母親は少しだけ険しい顔になった。やっぱり、あれはよくなかったな……。
「そうですね。今後はどこかに行くときは事前に連絡してほしいですね。杉野さんの連絡先を教えていただけますか?」
母親はスマホを取り出した。私は言われるがままに連絡先を交換した。
「杉野さんの方からは、何かありますか?」
「いえ、大丈夫です……」
私はもう頭がいっぱいだ。これ以上聞くことなんて思いつかない。
「では、夏実を呼んできますね」
母親は席を立った。
一人になった私は、少しずつ冷静になってきた。
林の母親に対して、説明していないことがある。
タバコのこと。お揃いのイヤリングのこと。そして、林の私に対する憧れの眼差し。
でも、これだけ信頼を置いてもらっているんだ。そんなのは余計な話だろう。
とりあえず、今後も林と会えるってことだ。
しかも、親に認められた状態で。
徐々に、罪悪感よりも期待の方が大きくなってくる。
いやあ、よかった。ちゃんと林を家に帰らせて、本当によかった。
そうこうするうちに、林がリビングにさっと入ってきた。
ニコニコしているので、既に母親から話を聞いたのだろう。
「杉野さん」
「うん」
「お母さんが杉野さんのところに行っていいって!」
「うん、よかったね」
私は顔がにやけそうになるのを必死にこらえた。さすがに母親の前ではマズい。
「ねえ夏実。迷惑をかけちゃダメだよ」
遅れて母親もリビングに来た。
「わかってるよ」
林は口をとがらせた。
「じゃあ、私はそろそろ帰りますね」
「ええ! 夕飯食べていきなよ!」
「ちょっと夏実!」
林のわがままに、母親は声を上げた。
「いえいえ、大丈夫です。今日のところは失礼します……」
私は苦笑いしつつ、親子の微笑ましいやり取りを見てほっとした。
すると、何だか急に空腹を覚えた。お腹が鳴る前に早く帰ろう。
玄関を出ると、林はぶんぶんと手を振って私を見送ってくれた。
いつもは私が見送る側なので、新鮮な気持ちだ。
「杉野さん、またね」
「うん、またね」
歩き出すと、どっと疲れが押し寄せてきた。
今日は、私の知らない、林の日常の世界を知った日だった。
林の下の名前、そっくりな母親、今後のこと……。
家に帰ったら、シロちゃんに報告してあげよう。



