夜風が頬を撫でている。人気のない校舎の屋上で、星川は、眼前に広がる景色を見つめた。
太陽が落ちてもまだ眠らない、虫達の控えめな鳴き声。どこか遠くの方から聞こえる、スポーツカーのエンジン音。一つ一つに生活を感じさせる、住宅街のささやかな灯り。この高校は駅や繁華街から少し離れたところにあって、通学には不便だけれど、星を見るには都合が良かった。身を包む心地の良い雰囲気に、思わず頬が緩みそうになる。
「まさか、本当に来てくださるとは」
──ああ、そうだ。感慨に耽る、なんて高尚なことをするために、わざわざ放課後と呼べる時間も過ぎ去ったような夜更けに時間を作り、ここへ来たわけではなかった。星川は気を引き締めると、傍に立つ男子生徒へ視線を向ける。
あの日、教室で空井という変人の襲撃を受けたあと。結局、なんだかうまい断り方が思いつかなかった星川は、半ば気圧される形で空井の提案を受け入れた。星川が首を縦に振ったのを見て、わかりやすく機嫌を良くした空井は「それでは来週の月曜日、十八時ごろに屋上の鍵を持って来てください。校門前で待ち合わせをしましょう。よろしくお願いします」と言って去り、わけもわからないまま土日が明けた当日。約束通り鍵を持参した星川のおかげで、二人はいま、並んで屋上の夜風を浴びている。何の徳もないのに、指示を全て律儀に守った俺は偉い。星川は自分で自分を褒めてあげる。
知り合って数日。現時点であまり仲が良くない先輩である星川を、夏休み中に学校へ呼び出すという豪胆さを披露した空井は、半袖のシャツでちょうど良いくらいという気温なのに、長袖シャツの上からさらに灰色のパーカーを羽織っていた。暑くないんだろうか。思いながら、星川は口を開く。
「まあ。勢いとはいえ、いいよって言っちゃったしね。僕、一度した約束は守る主義なんだ」
「公衆の面前で迫られては、断りづらかったでしょう」
「……そこも計算してたの?」
「いえ。後から気がつきました。すみません」
狡猾なんだか素直なんだか。空井は無表情のまま、星川に向かってぺこりと頭を下げる。
「……空井くんって、謙虚なのか図々しいのか、よくわからない性格だね」
「そうでしょうか」
「なかなかできないよ。突然三年生の教室へやってきて、面識も何もない僕に……ンナポッペ体操、だっけ? そんなのしてほしいって、意味わかんない提案なんか」
「そんな提案をオッケーしてくれて、実際に屋上まできてくれる先輩は優しいですね。ありがとうございます」
調子が狂う。少しだけ嫌味を言ってやるつもりが、いつのまにか褒められて終わってしまった。勝手に気まずくなって、星川は視線を彷徨わせる。
「……まあ。最初に空井くんが言っていた通り、天文部の部室の鍵を持っているのは僕だけだし、屋上へ好き勝手に出入りができるのも、空井くんに望遠鏡を貸してあげられるのも、僕だけだと思うから」
「重ね重ね、ありがとうございます。やっぱり先輩は優しいですね」
「そうかな」
「そうですよ。だって、三年生の夏って、大事な時期じゃないですか」
あれ、と思った。顔を見上げても、空井は相変わらずの無表情だ。表情筋のストレッチをした方が良いんじゃないだろうか。
「空井くん」
「はい」
「君、知ってて僕にお願いしたんじゃないの?」
「何をですか?」
「なにって、僕が……いや、何でもない」
なんと。あまりに無遠慮だからてっきり”一年生の頃から狙っていた大学の指定校推薦枠を無事に勝ち取ったため、星川はすでに進路が決まっている”という情報をどこからか仕入れて、一般受験をする生徒よりは多少の余裕があるんだろうな、と見込んだ上で声をかけてきたのかと思っていた。なんだ。じゃあ知らないでこんなことをお願いしてきたのか。受験生の夏休みにちょっかいかけるって、やっぱりこいつめちゃくちゃにやばい人かも。内心引きつつ、今更放り出して帰るわけにもいかない。呼び出しておいて、空井はぼんやり空を見上げている。しかし、視線に気がつくと星川へ身体を向けて「それで」と口を開いた。
「望遠鏡は、貸していただけるのでしょうか」
「もちろん貸してあげるよ。マストなんでしょ?」
「なるほど、ありがとうございます。でも、それにしては身軽ですね」
「…回りくどい言い方しないで、何で今日は望遠鏡を持ってこなかったんですか、って聞いたら?」
「何で今日は望遠鏡を持ってきてくれなかったんですか? 一人だと重くて持ち運べないなら手伝いますよ」
ここへきてあげただけでもずいぶん親切なのに、どうしてここへくる前に天文部へ立ち寄って、望遠鏡を持ってこなかったのか、なんて要求をされるとは思っていなかった。うん、やはりこいつには常識がない。星川はこれ以上、空井に人並みの配慮や気配りする心なんてものを期待するのをやめることにした。
「用途がわからなかったからだよ。空井くんは、どの星が見たいの?」
「星?」
「望遠鏡使うんだから星が見たいんでしょ。月の表面が見たい、とか。具体的にそういう希望があるなら大きい望遠鏡を持ってくるし、そうじゃなければ小さいものを持ってくるよ」
幸い、屋上の出入り口と天文部の部室は近いから、空井の希望を聞いて、それに合う望遠鏡をとって戻ってくるくらいは容易い。星川は空井の返答を待つ。望遠鏡がマスト、とか言うから、観測対象だって決まっていると思っていたのに、空井は何かを考え込んでいるようだった。
「……おれが見たいのは、動く星なんです」
しばらく間が空いて、気まずくなった星川が何か、世間話の一つでもしようかと考え始めた頃。顎に手を当てて沈黙していた空井が、ぽつりとそんな言葉を漏らす。動く星。うごく、ほし……そんなの、この季節に見れたっけ?
「そういう場合は、小さな望遠鏡ですか?」
「…激しく動くなら、双眼鏡の方が良いと思うよ」
「いいえ。おそらく、決まった方角からゆっくり、近づいてきます」
「……空井くんが見たいのは、星だよね?」
「いいえ。俺はンナポッペ体操をするために、先輩に協力してもらってここへきました」
会話が成立していない。というか、もろもろ星川の理解をこえている。今まで培ってきた常識の範囲外すぎて、思考を頑張って追いつかせよう、という気にもなれなかった。もういいや。空井のことは宇宙人か何かだと思うことにして接しよう。つまり、異星間コミュニケーションだ。人類が未だかつて遭遇したことない事象に対応しているのだから、それはそれは大変で、労力がかかる。としておいた方が、自分にかかる負荷が少ない……ような気がする。
「空井くんが言っているンナポッペ体操っていうのは、具体的に何をするの?」
「明日お見せします」
「……今日じゃだめ?」
「望遠鏡がありませんし、それに」
夜風が空井の髪を揺らす。ふわりと香ってくるのは柔軟剤か香水だろう。そうであってほしい。こんなトンチキ人間の体臭を好ましく思うなんて、星川のプライドが許さない。
「まさか今日、本当に先輩が来てくれるとは思わず、必要な道具を忘れてしまいました。なので明日、またお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「……」
こいつ、人の時間を借りている自覚がないのか? 望遠鏡を持ってきていない件については、まあ……五億歩ほど譲って星川に非があるとしても、道具を忘れるのは空井のミスだ。ていうか道具って何? 体操に道具? フラフープとか? マジで何するつもりなの?
濁流のように押し寄せる疑問のかわり、星川の口からこぼれたのは、大きなため息だけだった。
8月3日(月)
太陽が落ちてもまだ眠らない、虫達の控えめな鳴き声。どこか遠くの方から聞こえる、スポーツカーのエンジン音。一つ一つに生活を感じさせる、住宅街のささやかな灯り。この高校は駅や繁華街から少し離れたところにあって、通学には不便だけれど、星を見るには都合が良かった。身を包む心地の良い雰囲気に、思わず頬が緩みそうになる。
「まさか、本当に来てくださるとは」
──ああ、そうだ。感慨に耽る、なんて高尚なことをするために、わざわざ放課後と呼べる時間も過ぎ去ったような夜更けに時間を作り、ここへ来たわけではなかった。星川は気を引き締めると、傍に立つ男子生徒へ視線を向ける。
あの日、教室で空井という変人の襲撃を受けたあと。結局、なんだかうまい断り方が思いつかなかった星川は、半ば気圧される形で空井の提案を受け入れた。星川が首を縦に振ったのを見て、わかりやすく機嫌を良くした空井は「それでは来週の月曜日、十八時ごろに屋上の鍵を持って来てください。校門前で待ち合わせをしましょう。よろしくお願いします」と言って去り、わけもわからないまま土日が明けた当日。約束通り鍵を持参した星川のおかげで、二人はいま、並んで屋上の夜風を浴びている。何の徳もないのに、指示を全て律儀に守った俺は偉い。星川は自分で自分を褒めてあげる。
知り合って数日。現時点であまり仲が良くない先輩である星川を、夏休み中に学校へ呼び出すという豪胆さを披露した空井は、半袖のシャツでちょうど良いくらいという気温なのに、長袖シャツの上からさらに灰色のパーカーを羽織っていた。暑くないんだろうか。思いながら、星川は口を開く。
「まあ。勢いとはいえ、いいよって言っちゃったしね。僕、一度した約束は守る主義なんだ」
「公衆の面前で迫られては、断りづらかったでしょう」
「……そこも計算してたの?」
「いえ。後から気がつきました。すみません」
狡猾なんだか素直なんだか。空井は無表情のまま、星川に向かってぺこりと頭を下げる。
「……空井くんって、謙虚なのか図々しいのか、よくわからない性格だね」
「そうでしょうか」
「なかなかできないよ。突然三年生の教室へやってきて、面識も何もない僕に……ンナポッペ体操、だっけ? そんなのしてほしいって、意味わかんない提案なんか」
「そんな提案をオッケーしてくれて、実際に屋上まできてくれる先輩は優しいですね。ありがとうございます」
調子が狂う。少しだけ嫌味を言ってやるつもりが、いつのまにか褒められて終わってしまった。勝手に気まずくなって、星川は視線を彷徨わせる。
「……まあ。最初に空井くんが言っていた通り、天文部の部室の鍵を持っているのは僕だけだし、屋上へ好き勝手に出入りができるのも、空井くんに望遠鏡を貸してあげられるのも、僕だけだと思うから」
「重ね重ね、ありがとうございます。やっぱり先輩は優しいですね」
「そうかな」
「そうですよ。だって、三年生の夏って、大事な時期じゃないですか」
あれ、と思った。顔を見上げても、空井は相変わらずの無表情だ。表情筋のストレッチをした方が良いんじゃないだろうか。
「空井くん」
「はい」
「君、知ってて僕にお願いしたんじゃないの?」
「何をですか?」
「なにって、僕が……いや、何でもない」
なんと。あまりに無遠慮だからてっきり”一年生の頃から狙っていた大学の指定校推薦枠を無事に勝ち取ったため、星川はすでに進路が決まっている”という情報をどこからか仕入れて、一般受験をする生徒よりは多少の余裕があるんだろうな、と見込んだ上で声をかけてきたのかと思っていた。なんだ。じゃあ知らないでこんなことをお願いしてきたのか。受験生の夏休みにちょっかいかけるって、やっぱりこいつめちゃくちゃにやばい人かも。内心引きつつ、今更放り出して帰るわけにもいかない。呼び出しておいて、空井はぼんやり空を見上げている。しかし、視線に気がつくと星川へ身体を向けて「それで」と口を開いた。
「望遠鏡は、貸していただけるのでしょうか」
「もちろん貸してあげるよ。マストなんでしょ?」
「なるほど、ありがとうございます。でも、それにしては身軽ですね」
「…回りくどい言い方しないで、何で今日は望遠鏡を持ってこなかったんですか、って聞いたら?」
「何で今日は望遠鏡を持ってきてくれなかったんですか? 一人だと重くて持ち運べないなら手伝いますよ」
ここへきてあげただけでもずいぶん親切なのに、どうしてここへくる前に天文部へ立ち寄って、望遠鏡を持ってこなかったのか、なんて要求をされるとは思っていなかった。うん、やはりこいつには常識がない。星川はこれ以上、空井に人並みの配慮や気配りする心なんてものを期待するのをやめることにした。
「用途がわからなかったからだよ。空井くんは、どの星が見たいの?」
「星?」
「望遠鏡使うんだから星が見たいんでしょ。月の表面が見たい、とか。具体的にそういう希望があるなら大きい望遠鏡を持ってくるし、そうじゃなければ小さいものを持ってくるよ」
幸い、屋上の出入り口と天文部の部室は近いから、空井の希望を聞いて、それに合う望遠鏡をとって戻ってくるくらいは容易い。星川は空井の返答を待つ。望遠鏡がマスト、とか言うから、観測対象だって決まっていると思っていたのに、空井は何かを考え込んでいるようだった。
「……おれが見たいのは、動く星なんです」
しばらく間が空いて、気まずくなった星川が何か、世間話の一つでもしようかと考え始めた頃。顎に手を当てて沈黙していた空井が、ぽつりとそんな言葉を漏らす。動く星。うごく、ほし……そんなの、この季節に見れたっけ?
「そういう場合は、小さな望遠鏡ですか?」
「…激しく動くなら、双眼鏡の方が良いと思うよ」
「いいえ。おそらく、決まった方角からゆっくり、近づいてきます」
「……空井くんが見たいのは、星だよね?」
「いいえ。俺はンナポッペ体操をするために、先輩に協力してもらってここへきました」
会話が成立していない。というか、もろもろ星川の理解をこえている。今まで培ってきた常識の範囲外すぎて、思考を頑張って追いつかせよう、という気にもなれなかった。もういいや。空井のことは宇宙人か何かだと思うことにして接しよう。つまり、異星間コミュニケーションだ。人類が未だかつて遭遇したことない事象に対応しているのだから、それはそれは大変で、労力がかかる。としておいた方が、自分にかかる負荷が少ない……ような気がする。
「空井くんが言っているンナポッペ体操っていうのは、具体的に何をするの?」
「明日お見せします」
「……今日じゃだめ?」
「望遠鏡がありませんし、それに」
夜風が空井の髪を揺らす。ふわりと香ってくるのは柔軟剤か香水だろう。そうであってほしい。こんなトンチキ人間の体臭を好ましく思うなんて、星川のプライドが許さない。
「まさか今日、本当に先輩が来てくれるとは思わず、必要な道具を忘れてしまいました。なので明日、またお時間をいただいてもよろしいでしょうか」
「……」
こいつ、人の時間を借りている自覚がないのか? 望遠鏡を持ってきていない件については、まあ……五億歩ほど譲って星川に非があるとしても、道具を忘れるのは空井のミスだ。ていうか道具って何? 体操に道具? フラフープとか? マジで何するつもりなの?
濁流のように押し寄せる疑問のかわり、星川の口からこぼれたのは、大きなため息だけだった。
8月3日(月)


