宇宙はお前を救わない


「一緒に屋上でンナポッペ体操をしていただきたくて」

 夏休み前日の、最終登校日。
 突如として星川理央の前に現れた変人は、消しゴムでも借りに来たような気安さで、何でもなさそうにそう言った。光の加減で、黒にも紫色にも見える長い髪。細長い体と、病的な程に白い肌。感情があまり読み取れない顔。星川は、頭の中に今まで知り合った人間たちの顔を並べてみる。しかし、見覚えがない。当たり前だ。だいたいこんな変なやつ、一度あっていたら一瞬だって忘れないだろう。教室の方々から視線を感じ、星川は帰り支度を進めていた手をとめると、とりあえず、待てを命じられた犬みたいに、星川のそばでじっと動きを止めている変人を見つめ返す。

「えっと……君は?」
「ああ、すみません。自己紹介がまだでしたね。おれの名前は空井すばる。二年生です。初めまして」
「……はじめまして」

 見たことがない顔だ、と思っていたら、学年が違うらしい。変人に礼儀正しく自己紹介をされた。案外まともなやつなのか? いや、まともなら突然面識のない人間のところへ現れて、聞いたこともないような日本語を発したりしない。未だ、理解が現実へ追いつかなくて、星川はいまいち力の入らない声で返事をする。

「それで、空井くんは……ごめんね。よくわからなかったんだけど、僕とどこで何をしたいって?」
「星川先輩と屋上でンナポッペ体操がしたいです」

 聞き返したが、何度聞いても理解ができないのは同じだった。そして、同じ単語が返ってきたことにより、聞き間違いという可能性が消える。加えて、きちんと星川の名前を口にしているから、人違いというわけでもないんだろう。ということは、マジじゃん。こいつは本気で、この"俺"と訳のわからん体操がしたいって言ってるんだ。
 星川は舌打ちしたいような気持ちを必死に抑える。昔から、女の子みたい、と無遠慮に評されることの多い顔立ちと、内面に抱える粗暴な性格が釣り合わず、損ばかりしてきた。だからこの高校では三年間、本来の性格を抑えに抑えて、虫もころさぬ善人としてやってきたのだ。おかげで今は優等生の称号を欲しいままにしている。クラスメイトからはもちろん、教師からも評判も良い。せっかくここまで頑張ったのだから、このまま卒業をするまで、なんとかその仮面を付け続けたい。そう決めると、にこり。口角を持ち上げ、すっかり得意になった作り笑いを浮かべる。

「どうして、僕と?」
「部長だから天文部所有の望遠鏡を持ち出すことができて、かつ、センセイから屋上へ自由に出入りする許可をもらっているのは、全校生徒の中でも星川先輩だけだと聞いたからです」
「それは確かにそうだけど……その、なんだっけ。パンナコッタ体操には」
「ンナポッペ体操です」
「……その体操には望遠鏡と、屋上への出入りが必要なの?」
「はい。マストです」

 変人──空井の顔は真剣そのもので、ふざけてなんかいない。この場合は、いくらかふざけてくれていた方が、こちらとしてもやりようがあった。厄介だ。夏休み最終日に、こんな面倒ごとが転がり込むなんて。ここが教室でなければ多少素を出してでも断っていたのだが、クラスメイトの目がある以上、できるだけ穏便に済ませなくてはならない。幸い、空井は変なやつだが、全くもって話が通じない、というわけではなさそうだ。それなら、この話題が使えるだろう。星川は笑顔を保ったまま、空井を見上げた。長い前髪の合間から、二つの目がこちらを見下ろしている。相変わらず無表情で、何を考えているかわからない。

「一応、僕は三年生で、いまは夏休み前なんだけど、それはわかってる?」
「はい。いまは夏休み前で、おれは明日から夏期講習で、星川先輩は三年生です」

 空井はまた、何でもなさそうに答えた。高校三年生の夏、という言葉が、これほどまで響かないとは。普通の感性を持つ人間なら、いろいろと気を配って、ありとあらゆる提案から身を引くところだ。近所に住んでいるおばさんなんて「受験生でしょう? 風邪を引いていない? 安静にね?」と、顔を合わせるたびに体調を気遣ってくれる。それなのにこいつは。いやまて。もしかして知ってるのか? ちょっとびっくりして、星川は目を大きく瞬かせる。ていうか、夏期講習があるならそっちに集中しろよ。

「お願い事があるときは」

 脳内で散々文句を言われているとは露知らず、空井が唐突に口を開いた。

「人間たちはみんな、空を見上げて星に祈りますよね」
「……流れ星とか?」
「だからおれも、星に祈ってみることにしたんです」

 また、訳のわからないことを言われている。首を傾げながら見上げた先、そこで初めて、空井は微笑んでいた。色素の薄い虹彩が細められて、薄い唇が三日月の形にしなる。

「星川先輩は、おれのお願い、叶えてくれますか?」