透明のうらがわ

画面を閉じた。
結局、通知の主が誰なのか、その中身が何なのかは確かめられなかった。いや、確かめなかったのだ。一度開いてしまえば、自分が守ってきた「透明なカプセル」が完全に壊れてしまうような気がした。男はスマホをポケットの奥深くへと押し込んだ。まだ手には、買ったばかりの透明な傘が握られている。信号が青に変わる。周りの人間が一斉に歩き出す。男もそれに流されるように足を一歩踏み出した。向かったのは、自分のアパートではなかった。気がつけば、足はあの路地裏へと向かっていた。街の光に隠れる、あの居酒屋。けれど、男が辿り着いたのは、先ほどまでいた店とは違っていた。数軒隣にある、さらに小さなバー。看板には古びた文字で、読めない外国語が書かれている。ガラス張りのドアからは、中の様子がうっすらと見えた。先ほどの店よりもさらに暗く、落ち着いた青い照明が床を照らしている。男は吸い寄せられるように、そのドアを押した。カラン、と静かな鈴の音が響く。「いらっしゃいませ」奥から聞こえたのは、低い男の声ではなく、鈴の音のように澄んだ女性の声だった。カウンターの中に立っていたのは、一人の女性だった。男の目を惹きつけるには十分すぎるほど、綺麗な人だった。年齢は自分と同じか、少し上くらいだろうか。緩くウェーブのかかった黒髪が肩に流れており、シンプルな白いシャツが、薄暗い店内で妙に白く浮き立って見えた。派手な化粧をしているわけではないのに、切れ味のある目元が、どこか現実離れした美しさを放っている。まさに、男が昔から思い描いていた「理想」を形にしたような女性だった。「お好きな席へどうぞ」彼女は静かに微笑んだ。男は促されるまま、カウンターの真ん中の席に腰を下ろした。先ほどの店とは違い、ここにはバーテンダーである彼女と、自分しかいない。「何にいたしますか?」「……お任せで。少し、強いものを」男がそう言うと、彼女は「かしこまりました」と小さく頷き、手際よくボトルを手に取った。氷がグラスに当たる、カランという音が、静かな店内に心地よく響く。差し出されたのは、深い青色をしたカクテルだった。「サファイア・クールです。少し度数は高めですが、すっきりしていますよ」「ありがとう」男はグラスを持ち上げ、一口飲んだ。冷たい液体が喉を通り、胸の奥がじんわりと熱くなる。確かに強い。けれど、今の男にはその熱さが心地よかった。「雨、強くなってきましたね」彼女が何気ない口調で話しかけてきた。カウンターに置かれた彼女の手は細く、指先が綺麗に整えられている。「そうですね。さっきコンビニで傘を買ったばかりです」「透明な傘、ですか?」彼女は入り口の横に立てかけられた男の傘を見て、少し目を細めた。「ええ。前がよく見えるから」「素敵ですね」彼女はグラスを拭きながら、悪戯っぽく笑った。「多くの人は、雨の日は下を向いて歩くから、前が見えなくても関係ないって言うんです。でも、あなたみたいに『前が見えるから』って理由で透明な傘を選ぶ人は、きっと何かを探している人ね」その言葉に、男の胸がどきりと跳ねた。何かを探している。自分は何を探しているのだろう。会社と家を往復するだけの毎日。スマホの中に届いた、何年も前の名前。居酒屋のバーテンダーが残した、重い言葉。男はグラスを見つめたまま、ぽつりと言った。「……なぁ、あんたに一つ、聞いてもいいか」「ええ、何かしら。私に答えられることなら」彼女は手を止め、カウンターに少し身を乗り出した。微かに、甘い香水の匂いが男の鼻腔をくすぐる。「ネットの恋愛ってさ、どう思う?」男は、自分でもなぜこの質問を口にしたのか分からなかった。さっき別の店で、バーテンダーに全否定して、逆に言い返されたばかりの言葉。目の前にいる、リアルで、非の打ち所がないほど綺麗な女性なら、一体どう答えるのか。それを知りたかった。彼女は一瞬、意外そうな表情を浮かべた。長い睫毛が瞬き、それから、困ったように少し眉を下げて笑った。「ずいぶん唐突ね」「いや、ちょっとさっき、そういう話になってさ。俺は、あり得ないと思ってるんだ。顔も知らない、画面の向こうの相手を好きになるなんて。恋愛って、実際に会って、時間を重ねて、相手のリアルを知るから価値があるんじゃないかって」男は一気に捲し立てた。自分の言葉で、自分を納得させるように。彼女は黙って男の話を聞いていた。その目は、男を否定するでもなく、ただ静かに観察しているようだった。やがて、彼女は磨いていたグラスを静かに置いた。「そうね。あなたの言うことも、一理あるわ」「だろ?」「でもね」彼女はグラスに新しい氷を入れながら、どこか遠い目をして続けた。「リアルだからって、本当に相手のすべてを知っていると言えるかしら?」「え?」「毎日顔を合わせて、一緒にご飯を食べて、手を繋いでいる恋人同士でも、相手が心の奥で何を考えているか分からないことなんて、いくらでもあるわ。優しい笑顔の裏で、ものすごい孤独を抱えているかもしれない。言葉では『好きだ』と言っていても、心は別の場所にあるかもしれない」彼女の声は、静かだが、確かな説得力を持っていた。「逆にね、ネットの向こう側だからこそ、見えるものもあるんじゃないかしら」「画面越しに、何が見えるっていうんだ?」「本音よ」彼女は男の目を真っ直ぐに見つめた。その瞳は、暗い店内の青い光を反射して、まるで深い海の底のように澄んでいた。「現実の人間関係って、どうしても肩書きや、見た目や、立場が邪魔をするでしょう?二十五歳の会社員とか、バーの店員とか。そういう『透明な壁』が、人と人の間には必ずあるの。でもね、ネットの世界で、お互いの名前も顔も知らないまま言葉を交わす時、その壁は消えるわ。残るのは、その人が紡ぐ『言葉』と『心』だけ。現実では誰にも言えない弱音や、本当に求めている寂しさを、文字だけで差し出し合うの。それって、ある意味、現実のどんなデートよりも、生々しくてリアルな繋がりだと思わない?」男は息を呑んだ。彼女の言葉が、自分の心の最も柔らかい部分に突き刺さる。自分がかつて、就職活動に失敗し、社会の歯車になることに怯えていた頃。毎晩のように画面の向こうの「しぐなる」に吐き出していた、泥臭い本音。あれは、偽物だったのだろうか。いや、違う。あの時、確かに自分は救われていた。現実の誰にも言えない自分を、画面の向こうの誰かだけが知ってくれていた。「もし」彼女はさらに声を低くして言った。そのフレーズに、男はデジャヴを覚える。「もし、その文字の向こう側にある魂を、誰よりも愛してしまったとしたら……それはもう、現実とかネットとか、そういう次元の話ではないと思うの。ただ、その人が、その人でなければダメだったっていう、変えられない事実だけが残るのよ」静寂が店内に満ちる。雨の音が、店の外で激しさを増していくのが聞こえた。男は、目の前の綺麗な女性を見つめた。彼女の言うことは、あまりにも正論で、そしてあまりにも切なかった。彼女自身もまた、そんな「変わらない想い」を、誰かに抱いているのだろうか。「……あんたは」男は掠れた声で言った。「あんたは、そういう経験があるのか?」彼女は少しだけ目を見開き、それから、今度は本当に寂しそうな、けれど愛おしそうな笑顔を浮かべた。「さあ、どうかしら。バーテンダーは、客の秘密を聴くのが仕事だけど、自分の秘密は明かさないものよ」彼女はそう言って、男の空になったグラスを引き寄せた。「もう一杯、作りましょうか? 今度は、少し甘いものを」男は答えず、ただ自分のポケットの中で、再び微かに震えたスマホの存在を感じていた。通知はまだ、そこにある。画面を開けば、何かが変わる。開かなければ、何も変わらない。「……いや」男は立ち上がった。「今日は、これで帰るよ。ありがとう、美味しかった」「そう。残念ね」彼女は引き止めなかった。男は伝票のお金を支払い、入り口へ向かった。透明な傘を手に取り、ドアを開ける。カラン、と再び鈴の音が鳴り、冷たい雨の空気が男の頬を叩いた。外へ出ると、街のネオンが濡れたアスファルトに反射して、目まぐるしく変化していた。変わり続ける時代。変わり続ける街。その中で、自分は何を拒み、何を求めているのか。男は傘を開き、一歩を踏み出した。今度は、下を向いてはいなかった。透明なビニールの向こう側にある、暗い夜空を、真っ直ぐに見上げていた。ポケットの中のスマホを取り出す。指が、画面に触れる。