透明のうらがわ

男がその場に残っていた。
レジの横では肉まんのケースが湯気を立てている。
六月なのに売るんだなと男は思った。
買う人もいるのだろう。
たぶん。

傘を受け取っても足は動かなかった。
「お前それ絶対怒ってるって」
入口の近くから声がした。
高校生だった。
制服は違う。
学校も違うらしい。
それでも一緒に帰るくらいには仲が良いらしい。
「怒ってないって」
「怒ってるって」
「だから怒ってないって」
「じゃあ何で返信来ないんだよ」

男は水の棚を見る。
特に喉は渇いていない。
それでも見る。

「寝てるだけじゃね」
「夜の九時だぞ」
「寝るやつは寝る」
「お前みたいなやつか」

片方が笑う。
もう片方も笑う。
その話は終わったらしい。
コンビニの会話は終わるのが早い。
続く必要がないからだ。

男はスマホを見る。
夜の九時だった。
昔はもっと長く起きていた気がする。
気がするだけかもしれない。

人は昔のことを都合よく覚える。
それくらいは男にも分かる。

「ねえ」
今度は女性の声だった。
カップ麺の棚の前。
三十代くらいの男女。
「それ捨てたの?」
「何を」
「元カノとの写真」

男性は少し考えた。
考えたというより思い出したようだった。
「いや」
「残してるんだ」
「見ないけどな」
女性は笑う。
「それ残してるって言わない?」
「残してるか」
「残してるでしょ」
男性も笑った。

男はその横を通る。
知らない人だった。
二度と会わない人。
それでも会話は耳に残る。
たまにそういうことがある。

飲み物売り場の奥まで行って。
何も持たずに戻る。
誰かがレジで温めを頼んでいる。
店員がボタンを押す。
電子音が鳴る。
少し待つ。
また鳴る。

世の中の大半は待つ時間で出来ているのかもしれない。
男はそんなことを思った。

スマホを見る。
メッセージの内容は読んでいる。
何度も何度も、読んでいる。

それなのに目が行くのは名前だった。
人は文章より先に名前を覚えるらしい。
逆かもしれない。
男にはよく分からない。

「ありがとうございましたー」
客が一人出ていく。
また一人入ってくる。
外の雨は少し弱くなっていた。
さっきまで白く見えていた駐車場の向こう側が見える。

車が一台停まった。
誰も降りてこない。
迎えを待っているのかもしれない。
待たれている側は案外気付いていない。
そんなこともある。

男は傘を持ち直した。
今度こそ出ようと思った。
本当に。
三回くらいそう思っている。
四回目かもしれない。
数えていないから分からない。

入口へ向かう。
自動ドアが開く。
雨の匂いがした。

六月の雨だった。
春ほど軽くなく。
夏ほど強くない。
どっちつかずの雨。

男は外へ出る。
傘を開く。
買ったばかりの透明な傘だった。
前がよく見える。
透明だからだろう。
歩き始める。

駅前の信号は赤だった。
数人が待っている。
みんなスマホを見ていた。
誰も空を見ていない。
雨の日だからかもしれない。
男もスマホを見る。

信号が青になる。
人が動く。
男も動く。
横断歩道の白線は濡れていた。

街灯が反射している。
踏むたびに色が変わる。
男は少しだけそれを見ていた。
向こう側へ渡る。

コンビニの光は遠くなる。
振り返るほどではない距離だった。
それでも少し遠くなった。

男は立ち止まる。
信号の向こうでは救急車が通っていた。
赤い光が雨粒に反射している。
通知は一件増えていた。
男はしばらく見なかった。

見ても内容は変わらない気がしたからだ。
変わることもある。
変わらないこともある。

男はようやく画面を開く。
男は信号の脇に立ったまま。
傘を差したまま。
しばらく動かなかった。

横を何人も通り過ぎていく。
会社帰りの人。
買い物帰りの人。
恋人同士らしい二人。

それぞれの夜だった。
男にも夜はあった。
ただ少しだけ。
予定が変わった。