愛したのはあなただけ


 わたしが独りぼっちになってしまったような気分に陥った時。彼はわたしの頭を撫でながら笑って言った。
「俺はお前のこと愛してるよ」
 それはおままごとのような、本当に軽いノリの言葉だったのだろう。
 だけど、わたしはそれを真に受けてしまった。だって、わたしも彼のことが好きだったから。
 彼は高校時代のひと学年上の先輩だった。
 知り合ったきっかけは生徒会。書記として入った生徒会役委員の、副委員長が彼だった。
 背はそんなに高くない。わたしと頭半分違うかどうか。
 顔は美形というよりは小動物系の可愛めの顔立ちで。
 声は落ち着きのあるテノールだった。
 彼が少し軟派な性分なのだろうかと思ったのは、挨拶を終えて直後に投げられた台詞から。
「君かわいいね。名前は? 結城? じゃあ、ゆーちゃんって呼ぶね」
 そんな呼び方をされたのは初めてだったから、少々面食らった。
 彼の……有馬先輩のその一言で、わたしは生徒会の中でだけ『ゆーちゃん』と呼ばれるようになった。
「ゆーちゃんこっちおいでよー、ジュースあるよー。あ、お菓子も。チョコ好きだよねー?」
 生徒会に入ってふた月も立たない内に、有馬先輩はわたしをお気に入りの後輩にしてくれた。
「ゆーちゃん可愛いなー」
 隣に座ればわしゃわしゃと頭を撫でてくる手は男の子らしく大きくて、有馬先輩はまるでわたしのことを子犬のように扱っているみたいだったけど、わたしはドキドキして仕方がなかった。
 わたしが有馬先輩を恋愛感情で好きだと確信したのは、彼が同級生に告白された時のことだった。
「ねぇゆーちゃん、告白されちゃったんだけど、どーすれば良いと思うー?」
 そんなの知らない、と思った。
 同時に、何故迷う必要があるんだとも思った。
 また、彼に告白した女生徒の勇気に嫉妬した。
 その嫉妬こそが、わたしが有馬先輩を好きだという証拠だと悟った。
「有馬先輩は……」
 きゅ、とプリーツスカートに横皺を作って、わたしは視線だけを流した。
「好きって言われて、どうしようか悩む人と恋人になるって不誠実だと思いませんか?」
 小さな声だったけれど、有馬先輩は少しだけ目を丸くしてから、そーだねとわたしの頭を撫でた。
「それもそーだ。好きだって思ってないなら悩む必要ないよな」
 明日ちゃんと断るわ。ありがとな、って。
 優しく頭を撫でられたら何だか無性に泣きたくなった。
 わたしがもし「好きです」と伝えたら、彼はどう反応するんだろうって。
 わたしは時折世界に独りぼっちになってしまうような感覚に陥ることがある。
 どうしてかは分からない。
 ただ、誰も彼も本当はわたしのことなんか見てなくて、このまま消えちゃっても誰一人悲しんでくれる人は居ないんじゃないかな、って。
 そういう時は寂しいのに人と関わるのが怖くなって、いつもは真っ直ぐに向かう生徒会室に向かえず、屋上へと出た。
 空は少しだけぐずついていた。
 背の高いフェンスに指を引っ掛けて、見るでもなく校舎の向こうにある団地を眺めていたら、ギィと重たいスチールの鳴き声がした。
「あー、いたいたー」
「……有馬先輩……」
「ゆーちゃん全然来ないからどーしたのかなーって探しに来た」
 何してたの? って隣に並んできた有馬先輩に、特に何も、と薄く笑う。
「うーん……ゆーちゃんはさー」
「……?」
「ゆーちゃんは、一人じゃないよ?」
 わたしから何も言わないのにそんなことを言ってくれた人は初めてで、びっくりしてしまった。
「ゆーちゃんはね、ちゃんと色んな人に愛されてる」
「あい、されて……」
 微かな声で復唱したわたしに、有馬先輩はうん、と頷いた。
「有馬、先輩は……」
「俺?」
「有馬先輩は……わたしのこと……」
 愛してくれていますか?
 ほんの僅かに彼を見上げたら、有馬先輩はいつもわたしにするように頭を撫でながら微笑んだ。
「俺はお前のこと愛してるよ」
 だから一人じゃないよっていう、その言葉がわたしの心をどれだけ救ってくれたか、彼は知らないだろう。
 それからも有馬先輩のわたしへの接し方は変わらなかった。
 まるで飼い犬を可愛がるみたいな接し方。
 有馬先輩に他意はないのだろうけれど。
 わたしは心臓が喧しく騒ぐのを抑えることが出来なかった。
 わたしは有馬先輩のことが恋しくて恋しくて仕方がなくなってしまった。
 次の年、代替わりしてから有馬先輩との接点は減った。
 有馬先輩は受験勉強が忙しくなってしまったし、わたしも副委員長になったことにより生徒会の仕事が忙しくなってしまったからだ。
 会えない時間が募れば募るほど、逆に恋しさは増すもので。
 厄介な病に罹ってしまったなとわたしは唇を噛んだ。
 けれども告白しようと思わなかったのは、告白したことで、わたしたちを繋ぐ糸が切れてしまうんじゃないかと不安に駆られたからだ。
 卒業式の日、有馬先輩は一瞬だけ生徒会に顔を出してくれた。
 学生服のボタンはきれいちひとつも残っていなかった。
「お疲れ様ー。お世話になりましたー」
 それはこっちの台詞だと思いながら、こちらこそと涙が浮かびそうになるのを堪えて笑顔を作った。
 軟派なくせに写真を嫌う彼だったから、記念撮影も出来ずにわたしは彼との思い出を物として残せずに彼の背中を見送った。
 元来自分から誰かへ用もないのに連絡をするということが出来ないわたしだから、当然の如く大学生になってしまった有馬先輩と連絡を取ることはなかった。
 わたしが高校を卒業する時も有馬先輩からは何の連絡もなかったから、きっとわたしはもつ過去の人になってしまったのだろうな、と、そう思った。
 それならばわたしもかれのことを過去の人にしなければ。
 そう意識しようとおもったけれど。
「俺もお前のこと愛してるよ」
 その一言がわたしの心を高校時代の頃のまま縛り付けた。
 有馬先輩と一切連絡を取らないまま社会人になった。
 二年目で、生徒会の同期だった子が生徒会の同窓会をしようと誘いをかけてきて、何も考えずに頷いた。
 有馬先輩が来る可能性に気付いたのは当日になってからだった。
 大学時代、わたしは二人の男と関係を持った。
 だけど、どうしても有馬先輩と比べてしまって駄目だった。
 有馬先輩ならこういう時にこうしてくれるだろうな、とか。
 有馬先輩ならこんなこと言わないだろうな、とか。
 連絡ひとつ出来ないくせに、わたしはいつだって有馬先輩のことを考えていた。
 数年振りに有馬先輩の顔を見れるのかと思ったら、嬉しさより緊張が身を包んだ。
 膨らむばかりの恋心を持て余して数年。
 果たして平静でいられるのか。
 彼はきっともう覚えていないだろう。
 わたしを愛してる、だなんて言ったことを。
 同窓会にはやはり有馬先輩の顔があった。
 久し振りだね、って向けられた笑顔はあの頃と変わっていなくて、くしゃりと頭を撫でてくる体温もそのままだった。
 愛しくて、恋しくて、胸が苦しくなった。
 でも、この想いを伝えることは出来ないと思った。
 この想いを発露してしまったら、わたしはきっともう一生この人と顔を合わせることは出来ないだろうと思ったから。
 帰り際、わたしはまた有馬先輩に頭を撫でられて。
「また会おうな。久々喋ったらやっぱ楽しかった」
 お前相変わらず可愛い後輩だわ。
 それはきっと喜ぶべきとこなんだろうけれど。
 同時に苦しくて苦しくて仕方がなくなった。
 所詮わたしは彼にとって後輩でしかないのだと思い知ったから。
「わたしも、有馬先輩のこと、好きです」
 あくまで先輩として、という意を込めた台詞は正しく伝わったようで。
「今度誘うわ」
 軽い口調に、わたしは苦くなりそうな表情を頑張って甘いものに変えた。
 この先わたしは他にも恋をするかも知れない。だけどわたしはきっと一生この人しか愛せないだろう。