無能と捨てられた呪術師の娘、最恐の鬼神の唯一の癒やし手となる

第1話 腐臭と永遠

 自分の首の骨をへし折るのは、これで三度目だ。
 ごきり、と鈍い音がして、視界がぐるんと反転する。雨に濡れた腐葉土の匂いが鼻先を掠めたかと思うと、次の瞬間には、首の断面から赤黒い肉芽が蠢き出し、ちぎれた神経と血管を縫い合わせていく。
 五秒。たった五秒で、視界は元に戻った。痛みはあるが、爪の間に挟まった泥をほじくり出す時のような、ひどく凡庸で退屈な痛みだ。
 黒曜は、泥だらけの地面に仰向けに寝転がったまま、灰色の空を見上げた。
 雨が降っている。
 死ねない。
 数百年、ただの一度も死ねていない。季節が巡り、木々が枯れては芽吹き、人間の村が街になり、そしてまた灰になるのを何度も見た。何もかもが変わっていく中で、俺の肉体だけが永遠にこの場所に縛り付けられている。
 鬼神と呼ばれるようになってから、帝都の人間どもが束になって斬りかかってきたこともあったが、奴らの刀は黒曜の皮膚を数ミリ裂くのがやっとだった。退屈しのぎに自分の心臓を抉り出してみたこともあるが、胸にぽっかり空いた穴は、あくびを一つする間に塞がってしまった。
 死は救済ではない。死とは、この退屈な永遠に終止符を打つための、ただの娯楽だ。
 そして黒曜は、その娯楽を奪われたまま、カビの生えた森の底で泥に塗れている。

 ふと、地面を伝う振動が変わった。
 何かが近づいてくる。獣ではない。人間の足音だ。
 だが、おかしい。
 黒曜は身を起こし、木々の隙間から目を凝らした。
 薄紅色の着物を着た女が、泥に足をとられながら歩いてくる。
 異様なのは、女の足元だった。女が踏みしめた草が、次々と黒く変色し、溶けるように枯れていく。女が吐き出す白い息が木の葉に触れると、葉は瞬時に黄色く変色し、ぽろりと落ちた。
 歩く腐敗。
 生きている猛毒。
 近づいてくる女の周囲だけ、世界が確実に「死」に向かって進行している。
 黒曜は、自分の心臓が、数百年ぶりにひどく人間臭い音を立てて跳ねるのを聞いた。喉の奥がカラカラに渇いている。あの毒なら、俺のこの呪われた再生能力を上回れるかもしれない。

     *

「お姉様、許して……私、お姉様を守れなかった……!」

 数時間前。柊家の裏門で、妹の美桜は本気で泣いていた。
 大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙をこぼし、結衣のために仕立てたという薄紅色の着物の袖を、自分の涙で濡らしている。

「帝都の瘴気を鎮めるには、鬼の森に生贄を捧げるしかないって……。私、お父様に何度もお願いしたの。私が行くから、お姉様だけは残してって。でも、霊力を持たないお姉様しか、家から出せる人がいないって……」

 美桜の言葉に、嘘は一つもない。
 彼女は本当に、結衣を愛していると信じている。自分が姉の身代わりになろうとしたというその自己犠牲の物語に、自分自身で酔いしれ、本気で心を痛めているのだ。泣き崩れる妹の姿は、周囲の使用人たちの目には「なんて優しく、健気な妹なのだろう」と映っているはずだ。
 だからこそ、結衣は吐き気がした。胃の奥から酸っぱいものが込み上げてくるのを、必死に呑み込む。
 十七年間、離れに結衣を幽閉し、食事の盆を棒の先で押し込んできたのは誰だ。結衣が熱を出してうなされている時、「可哀想なお姉様。私が代わってあげられたら」と扉の向こうで泣きながら、決して鍵を開けなかったのは誰だ。
 純粋な善意でコーティングされた加害ほど、始末に負えないものはない。

「ごめんなさい、お姉様。でも安心して。お姉様の分まで、私が柊家を背負うから……!」

 結衣は、妹の白く細い首筋を見つめた。
 今、私がこの手を伸ばして、その綺麗な首に触れたらどうなるだろう。
 結衣の指先が触れた瞬間、優しかった乳母の顔がドロドロに溶け落ちた、あの七歳の夏。
 肉が炭化し、眼球がどろりと零れ落ち、骨が黒く焦げる匂い。
 あの時、私は泣き叫びながら――乳母の顔を溶かした指先に残った熱を、ほんの少しだけ、愛おしいと思ってしまったのだ。
 生まれて初めて、人に触れた熱だったから。

 結衣は、着物の袖の中で、自分の指先をきつく握り込んだ。爪が掌に食い込み、滲んだ血が袖の裏地を黒く焦がしていく。
 だめだ。ここで美桜を殺せば、私は本当にただの化け物になってしまう。人間としての最後の理性が、結衣の腕を必死に押さえつけていた。

「ありがとう、美桜」

 結衣は、顔の筋肉を無理やり引き攣らせて笑った。

「おかげで、この家から出られるわ」

 美桜の泣き顔が、一瞬だけぴたりと止まった。三日前に腐った犬の死骸を見るような、得体の知れないものを見る目。
 それを見て、結衣の胸の奥で、黒い泥のようなものが少しだけ満足した。
 結衣は踵を返し、雨が降り始めた森へと歩き出した。
 背後で、重い鉄の扉が閉まる音がした。もう二度と、あの家に戻ることはない。

     *

 雨は本降りになっていた。
 結衣の体温は奪われ、指先の感覚はない。自分が踏み歩いた跡が、黒く腐った一本の道になっているのを振り返って確認する。
 私の体液も、吐く息も、全てが毒だ。
 呪術師の名門に生まれながら、霊力を持たず、代わりに制御不能な劇毒を体内に宿して生まれた欠陥品。それが柊結衣という生き物だった。
 早く死にたい。
 森の奥にいるという鬼神に喰われれば、この毒ごと消え去ることができるだろうか。いや、私の肉を口に入れた瞬間、鬼神の喉も溶け落ちるかもしれない。そうしたら、私は化け物すら殺した本物の怪物として、この森で一人で腐っていくしかない。

 その時だった。
 ぬかるんだ泥の斜面を滑り落ちた結衣の目の前に、男が立っていた。
 最初は、枯れ木か何かだと思った。泥だらけで、周囲の風景に完全に溶け込んでいたからだ。しかし、それはゆっくりと立ち上がり、人間の形をとった。
 漆黒の髪。頭の両側から伸びる二本の角。着物は破れ、肌にはどす黒い瘴気が這っている。
 鬼神だ。
 男は、血走った赤い目で結衣を見下ろしていた。
 その首元には、不自然にねじ切れたような赤い痕が残っている。

「……お前」

 男の声は、錆びた鉄を擦り合わせたようにひどく掠れていた。

「お前が歩いた跡、草が腐ってやがるな」

 結衣は一歩退いた。
 殺される。いや、違う。私が、この男を殺してしまう。
 足元の泥が、結衣の毒に触れてぶくぶくと泡を立てている。

「近づかないで」

 結衣の声は、自分でも驚くほど震えていた。

「私に触れたら、あなたも溶けるわよ。私の体は毒なの。だから――」

「溶ける?」

 男の目が、異様な光を帯びた。
 狂気でも、怒りでもない。飢餓だ。
 男は一歩踏み出し、泥に塗れた手で、結衣の頬を掴んだ。

 じゅっ、と音がした。
 男の掌が結衣の頬に触れた瞬間、そこから白い煙が噴き出した。
 肉が焦げる甘ったるい匂い。
 男の掌の皮膚がどろりと溶け、赤い肉が露出し、さらにその下の白い骨が黒く変色していく。

「あ……っ!」

 結衣は悲鳴を上げて身をよじった。
 まただ。また私が、人を、生き物を壊している。
 離して。お願いだから離して。
 だが、男は結衣の頬を掴んだまま、口元を歪めた。

「……痛え」

 男は、笑っていた。
 指の骨が溶け落ちかけているというのに、その赤い瞳は歓喜に震えていた。

「痛えよ。すげえな、お前。俺の肉が、ちゃんと腐ってやがる」

 男は結衣の肩を掴み、力任せに引き寄せた。
 結衣の体が男の胸板にぶつかる。濡れた着物越しに、結衣の毒が男の胸の肉を侵食し始める。
 煙が上がり、血が噴き出す。
 しかし、溶けた肉の端から赤黒い肉芽が蠢き出し、凄まじい速度で傷を塞ごうとする。結衣の毒による腐敗と、男の体による再生が、男の胸の上でぐちゃぐちゃに混ざり合い、異様な熱を発していた。

「俺の名は黒曜。永遠に死ねない呪いを受けた鬼神だ」

 黒曜は、結衣の耳元で荒い息を吐いた。
 その腕が、結衣の背中に回される。

「逃がさねえ。お前の毒なら、俺のこの退屈な永遠を終わらせられるかもしれねえ」

 結衣は、黒曜の腕の中で硬直していた。
 怖い。自分の毒で、目の前の男の肉がぐずぐずに溶けていくのが怖い。
 でも。
 でも、この男は、私に触れている。
 十七年間、誰も触れてくれなかった私に。私の毒を浴びて、骨を溶かしながら、それでも私を抱きしめている。

 結衣の腕が、ゆっくりと持ち上がった。
 そして、黒曜の背中に回された。
 結衣の指先が黒曜の背中に触れた瞬間、そこからまた白い煙が上がった。黒曜が低く呻き声を上げる。苦痛の声ではない。熱病に浮かされたような、甘い呻きだ。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 心の中で謝りながら、結衣は指先に力を込めた。男の背中の肉に爪を立てた。
 熱い。
 人の体温だ。
 ああ、私はなんて悍ましい生き物だろう。相手の肉を溶かして、痛めつけているのに。この熱を手放したくないと思ってしまっている。

「もっとだ」

 黒曜が、結衣の首筋に顔を埋めて囁いた。

「もっと俺を腐らせろ。俺が完全に死ぬまで、俺のそばにいろ」

 愛の告白などではない。
 これはただの、狂った利害の一致だ。相手の肉を溶かし、自分の肉を溶かされることでしか成立しない、いびつで残酷な共依存。
 死を乞う化け物と、温もりを乞う猛毒。
 雨が降りしきる泥の中で、二人は互いの肉を溶かし、再生させながら、決して離れようとはしなかった。泥にまみれ、血と体液を混ぜ合わせながら、数百年ぶりの、そして十七年ぶりの、孤独ではない夜が始まろうとしていた。