極上のパス

 六月になり、雨でグラウンドが使えない日が増えた。
 今は鈍色の雲が空を覆っているが、かろうじて雨は降っていない。
 けれど、前日の雨でグラウンドには、大きな水たまりができていた。
 朝練は外周を走ったり、渡り廊下で筋トレをした。
「今日の午後も雨が降るみたいだから、放課後は休みにする」
 朝練後に三浦先輩から伝えられた。


 昼休みにクラスメイトと弁当を食べていると、スマホが震えた。
 こんな時間にメッセージを送ってくるのは、藤丸しか思い浮かばない。
 箸を置いて画面を見ると、三浦先輩だった。
 何かあったのか気になり、画面をタップする。
『放課後、誰にも見られずに俺の教室に来てほしい』
 闇取引みたいな内容だな、と笑いが漏れた。
『わかりました』
 返信をして、スマホをしまう。
「ヒメ、聞いてたか?」
「え? 悪い。なんだった?」
 高崎にジト目を向けられるけれど、全く聞いていなかった。
「部活が休みだから、みんなで遊ぼうって話してたんだよ。ヒメもカラオケ行くだろ?」
「予定があるから行けない」
 周りから「えー」と不満の声が上がる。
「また今度誘ってよ」
 高崎が急に口を引き結んで、観察するような瞳を向けてくる。無意識に逸らしてしまった。
 勘繰られたかとヒヤヒヤしたが、またすぐにいつもの調子で「ヒメの分まで俺が歌う!」と宣言していた。
 高崎はちゃらんぽらんに見えて、周りをよく見ているし侮れない。だから空気を読んで、周囲を和ませる能力に長けているのだろう。


 放課後になり、サッカー部員を警戒しながら三浦先輩の教室に向かう。
 廊下に三浦先輩と東堂先輩が立っていて、俺を待っていた。
「遅くなって、すみません」
「いや、急に呼び出して悪かったな」
「静かなところに行こう」
 二人の後について、空き教室に入った。
 東堂先輩が先に座り、三浦先輩が前の席で背もたれを抱えるように跨った。
 俺は横からイスを持ってくる。
 東堂先輩がファイルから紙を取り出して、机に乗せた。そこに目を落とす。
「夏の大会のスタメンだ」
 三浦先輩が説明してくれる。一年生の名前はなかった。
「何で発表前に、俺に見せるんですか?」
 二人は眉を下げて笑った。
「俺と三浦で意見が割れている」
「だからヒメの考えも聞こうと思ってな」
 この紙に書かれている名前は、今までのスタメンと変わっていない。悩む理由なんてわかりきっている。
「藤丸ですね」
 二人が頷く。
「俺は藤丸を控えにしておくのは、勿体無いと思っている」
 藤丸を推していたのは、東堂先輩だった。同じFWとして、あいつのポテンシャルを買っているのだろう。
「それはわかるけど、安定を捨ててまで超火力の二人を並べるメリットがあるのかって疑問が残る」
 三浦先輩の言い分はもっともだ。俺もそれは考えていたから。
「ヒメはどうだ?」
「俺は藤丸を使いたいですね」
 東堂先輩が腕を組んで、そうだろうと頷いた。
「東堂と藤丸か……」
 三浦先輩は天井を仰いで、ため息混じりに呟く。
「いえ、違います」
 二人が眉を寄せ、訝しげな顔をこちらに向けた。
「先輩たちは、スリートップをどう思いますか?」
 一瞬目を瞬かせて、東堂先輩が声を立てて笑った。
「俺より攻撃的なことを考えてたのかよ」
「はい、左に藤丸。右に東堂先輩を配置します。どちらのサイドからも射抜けるように」
 三浦先輩が慌てて「ちょっと待て」と体の前で手のひらを見せた。
 俺は口を閉ざす。
「スリートップのメリットはわかるけど、中盤が薄くなるぞ。そこはどう思っているんだ?」
「スリートップはオフェンス時のみ。ディフェンス時はFWを一人下げて、今まで通り4-4-2でいきます」
 二人は顔を見合わせて、乾いた笑みを浮かべる。
「ちなみに、その行き来するハードなポジションは、誰がやるんだ?」
 東堂先輩に問われ、キッパリと告げる。
「もちろん藤丸です。藤丸を出すかどうかの話なのに、先輩たちにそんなことはさせられませんよ。先輩たちが藤丸にはできないと判断すれば、俺の案は却下してください」
 二人とも興味は持ってくれたようだが、即決はしない。
「ヒメの意見も参考にして、もう一度考えてみる。発表まではみんなに伏せといてくれるか?」
「わかりました」
「時間をとってくれて、ありがとな」
 小さく会釈をして退室した。


 一週間後の朝練終わりに、藤丸が三浦先輩に呼び出されていた。
 何を話しているか気になり、藤丸の背を眺める。高崎に「何見てんの?」と肩を叩かれて我に返り、視線を外して部室に向かう。
 藤丸と三浦先輩は遅れて部室に入ってきた。
「今日の放課後はミーティングをする。視聴覚室に集合するように」
 三浦先輩が声を張る。
 いよいよスタメン発表か。
 そのために藤丸は呼ばれたのだろう。
 高崎と部室を出ると、藤丸が追いかけてきた。
「高崎先輩が羨ましいです。クラスまでヒメ先輩と一緒で」
 俺と高崎は顔を見合わせて首を傾ける。
「ほら! 仲が良い。高崎先輩には負けませんよ」
「俺はヒメのことなんとも思ってねーから、勝負する気にもならねーよ」
 高崎は面倒そうに手をシッシッと振る。
「それより、さっき三浦先輩に呼ばれたのは何でだ?」
 気になっていたが聞いてもいいか迷っていたことを、高崎は普段通りの口調で切り出した。
「ああ、よくわかんないです。50メートル走のタイムと、スタミナに自信があるかを聞かれました」
「……何て答えたんだ?」
 興味に抗えずに聞けば、藤丸はパッと顔を輝かせる。
「ヒメ先輩、オレのことを知りたいんですか!」
 藤丸は熱量高く声を弾ませる。俺は聞いたことを後悔した。
 表情を消して、正面に目を向けて歩き続ける。
「聞いたなら、最後まで責任持ってくださいよ。50メートル走は6.1秒。スタミナは自信ありますって答えました」
「速っ!」
 高崎が目を見開いて声を上げる。
 俺は自然と口角が上がりそうになり、隠すために手で覆った。
 藤丸を抜擢するかの決め手は、本人の判断に委ねられたようだ。


 放課後の視聴覚室では、学年ごとに座る。
 ざわざわと妙に浮き足立っているのは、みんなスタメンの発表だと予想しているからだろう。
 全員が揃うと、三浦先輩と東堂先輩が前に立つ。
「夏の大会まで、あと一ヶ月。今から、スタメンを発表する。名前を呼ばれたら返事をするように」
 三浦先輩が拳を口に当てて咳払いをした。
「まずは1番。俺、三浦」
 順番に名前が呼ばれていく。
「5番高崎」
「はい」
 高崎はまっすぐに手を伸ばして叫んだ。
 さらに名前が呼ばれる。
「7番藤丸」
 それまで静かだった室内に、どよめきが上がった。
 藤丸は目を見開いて固まっている。本人が一番驚いているようだ。
「藤丸、返事は?」
 東堂先輩に急かされ、「はい」と立ち上がる。
 眉を寄せて「7番?」と困惑しながら座った。
「9番東堂」
「はい」
「10番姫宮」
「はい」
 最後に11番が呼ばれた。
 東堂先輩がホワイトボードに、サッカーコートを書き、それぞれのポジションに背番号を書いていく。
「夏の大会は4-3-3でいく」
 そして7番からSH(サイドハーフ)の位置に矢印を引っ張った。
「ディフェンス時は4-4-2の変則フォーメーション。藤丸、できるか?」
 三浦先輩に投げかけられて、藤丸は口を引き結ぶ。
 もう困惑の表情は、跡形もなく消えていた。
 いつも通り自信たっぷりに、口角を上げる。
「できます」
 腹が立つが、頼もしくもある。
 先輩たちが説明をしている中、隣の高崎が「くっ」と喉で笑いを堪えた。
 集中して聞けよ。そう込めて睨みつければ、高崎はニヤニヤ笑いながらこちらに顔を寄せた。
「これを考えたのはヒメだろ」
 俺にだけ届くような、小さな声だった。
「何でわかるんだ?」
「めっちゃヒメっぽい」
 俺っぽい? 眉間を狭めると、高崎の口角が引き上がる。
「気に入ったやつほど、酷使するところ」
「別に気に入ってねーよ」
 正面に目線を戻す。
「この後は着替えて、グラウンドに集合するように」
 解散の合図で、席を立った。


 部活後の部室で、藤丸が部員に囲まれていた。
「一年生でスタメンとか、すげーじゃん」
「期待の新人だな」
 藤丸は当然とでもいうように、自信に満ちた顔で笑う。
 別に藤丸が誰かと話すのなんて、いつも通りなのに。
 なぜかその輪の中心にいる藤丸が、遠く感じた。
「気になるなら、ヒメも『おめでとう』とか『がんばれ』とか言ってやれば?」
 隣の高崎が心を見透かすように、顔全部で楽しさを表していた。
 ギリッと奥歯を鳴らして、練習着を丸めてスクールバッグに詰め込む。
「イライラしてんな。いつもは丁寧に畳んでしまうのに」
「うるさい」
 スクールバッグを引っ掴んで、ロッカーを閉めた。普段より大きな音が響く。
 足早に扉へ向かい、開くと藤丸と視線が交わった。
 藤丸はまだ、部員たちの輪の中にいた。なぜか無性に居心地が悪くなる。
 高崎の忍び笑いが追いかけてきて不快だ。
 さっさと部室を後にした。
 いつもより歩幅が広くなっているのに気付き、眉を顰める。
 校門を出たところで「ヒメ先輩!」と後ろから大声で呼ばれた。
 立ち止まって振り返ると、藤丸がこちらに駆けてくる。
 胸の奥がスッと軽くなり、首を捻りながら胸をさすった。
 何でこんなに安心するのだろう?
「帰るの早いですって。少しくらい待っててくれてもいいじゃないですか」
 一緒に帰る約束なんてしていないのに、何で待たなければいけないのか。
 並んで歩き出す。
「あの、ヒメ先輩がスリートップを提案してくれたって聞きました。ありがとうございます」
 先輩たちに口止めをしておくんだった。
 足を止めて、藤丸を見上げる。
 藤丸も静止して、視線が絡んだ。
 いつになく真剣な瞳に射抜かれる。
 乾いた喉に唾を送り込み、口を開いた。
「お前を使いたいと思った俺を、後悔させるなよ」
「もちろんです。ヒメ先輩にオレのゴールを捧げます」
「俺が決めさせてやるんだよ」
 ふっと笑い合って、足を進める。
 さっきまでの苛立ちは、すっかり消え失せた。高揚感で胸が躍る。
 ふと高崎の言葉が蘇った。
 顔が熱く感じるのは、きっと西陽に照らされているせいだ。気に入っているわけじゃない。
 藤丸が拳をこちらに向ける。
 緩んでしまわないよう、表情を引き締めた。グッと手を握り、甲をコツンと当てる。
 触れた手から、全身に熱が駆け巡った。
 理由はわからないが、胸が妙に騒がしい。こんな感覚は初めてだった。
 藤丸を盗み見る。
 口角を上げる、生意気そうな横顔が目に入った。
 藤丸が俺の視線に気付いて、ふっと目を細める。
「どうしたんですか? いいことでもありましたか?」
 顎に手を添えて、首を捻る。いいことなんて、別にない。
「ヒメ先輩、すごく優しい顔をしてたから」
「そんな顔、してねーよ」
 視線を逸らして、意図的に口を引き結ぶ。
「ヒメ先輩」
「なんだよ」
「オレ、すげー嬉しいです」
 心の底から溢れ出た、飾らない笑顔を向けられる。
「一年生でスタメンだもんな。……おめでとう」
 高崎の言葉がチラつき、最後は消え入るような声量になってしまった。
「それもありますけど、ヒメ先輩がオレのことを考えて作戦を考えてくれたから」
「お前のためじゃなくて、チームのためだから」
 自分の都合のいいように解釈するな。
 藤丸が目の前に立ち、俺の足は止まる。
「本当にオレのためじゃないんですか?」
 藤丸は身を屈めて俺の顔を覗き込んだ。出会った時と同じ、あざとい笑顔だ。
「違う」
「じゃあ今はそういうことにしておきましょうか。今後、オレじゃなきゃダメだって言わせてみせます」
 そっぽを向いて、藤丸の目から逃れる。
 自信に満ちた顔が腹立たしいのに……。
 生意気な瞳に映る自分の顔が緩んでいたことなんて、知りたくなかった。
 いまだに手の甲に残る熱は、引きそうにない。