極上のパス

 ゴールデンウィーク明けの金曜日、部活後に集合をかけられる。
「来週からテスト期間に入るから、テストが終わるまで部活は休みになる」
「赤点を取ると、追試に合格するまで部活ができないからな。赤点を取らないように」
 三浦先輩のセリフに、藤堂先輩が一年生へ向けて補足する。
「自信がないやつは来週の放課後、裏門に集合な。俺の家で勉強会をしよう。俺と東堂で教えるから」
 部員の顔を見渡すけれど、自信がなさそうなやつばかりだった。


 翌週の月曜日の放課後、高崎がスクールバッグを引っ掴んで「じゃあな」と手を上げる。
「お前は毎回先輩にお世話になってるよな。毎日コツコツ勉強をしたらどうだ?」
 一週間前に詰め込もうとするから、赤点の心配をする羽目になる。勉強だってサッカーと同じで、毎日の積み重ねがものを言う。
 高崎は下唇を突き出して目を見開いた。顔芸が達者だ。
「正論言うな!」
 泣き真似をしながら、裏門めがけて駆けていった。


 まっすぐ帰り、二時間勉強をする。
 凝り固まった体を捻ってほぐし、サッカーボールを持って大きな公園へ向かった。
 コンクリートの壁に、サッカーゴールの大きさの白線が引かれている。
 右上に狙いを定めて蹴った。狙い通り右上に当たって跳ね返る。それを拾ってすぐさま同じ場所へ。球速を変えて、蹴る脚を変えて、ひたすら同じ場所へ蹴る練習をする。
「コントロールがヤバいですね」
 後ろから声がかかり、振り返る。制服を着崩した藤丸が立っていた。夢中になりすぎて気付かなかった。
「まだ帰ってなかったのか?」
「はい、三浦先輩の家で勉強をしていました」
「赤点取りそうなのか?」
「そうでもないんですけど、ヒメ先輩も来るかなって期待して」
「お前は俺が勉強できないとでも思ってるのか?」
 眉を跳ね上げれば、藤丸が慌てて手を振る。
「全くそんなこと思っていません。でも先輩たちと仲が良いから、一緒に勉強をするのかなって」
「大勢で押しかけたら、迷惑だろ。……ここの場所は、高崎に聞いたのか?」
「はい。三浦先輩の家を出たら、ヒメ先輩がここで練習してるだろうって教えてくれました。オレも一緒に練習してもいいですか?」
「その格好で?」
 藤丸は制服にローファーだ。眉を寄せて肩を落とし、「見学してます」とベンチに座る。
 走って蹴り、跳ね返ったボールを追いかけてすぐさま蹴る。体勢が悪くても、狙った場所に必ず当てた。
 だいぶ息が上がり、ボールを止める。汗で張り付く前髪を掻き上げた。
 藤丸の隣りに座ると、ベンチに置いていたタオルで、顔の汗を拭われた。
「子ども扱いすんな」
 タオルをひったくって、豪快に拭う。
「子ども扱いじゃなくて、好きな人だから構いたいんです」
 藤丸と視線が交わる。
 口説き方が軽すぎて、どこまで本気なのかわからない。
 時が止まったように、空気がピンと張り詰める。
 藤丸が口角を引き上げた。いつもの軽い笑顔に戻ると、雰囲気が和らいだ。
「ヒメ先輩のお世話をさせてもらえないのは残念ですけど、オレがヒメ先輩を好きなことだけは覚えておいてくださいね」
 視線を外して「ああ」と返事をすれば、喉の奥で笑いを堪えた気配がした。
「それにしても、ヒメ先輩はすげーコントロールがいいですよね」
 藤丸の声は大袈裟なほど力強い。
 俺が気にしないように、気を使っているのか? 初対面から失礼すぎた藤丸が?
 不可解な気持ちを隠さずに視線を投げると、藤丸は穏やかに目を細める。
 パッと目を逸らし、水筒から水を煽った。
 俺はこんな見た目だから、実力をつけるしかなかった。
 練習をすればするほど上手くなるし、サッカーで黙らせるのは気分がいい。
「好きでやってるからな」
「明日もここに来ますか?」
「ああ、部活がない時はだいたいいる」
「じゃあ明日一緒に勉強をして、そのあと練習しませんか?」
 サッカーはいいけど、一緒に勉強はしたくない。うるさそうだし。
「俺は静かに勉強がしたい」
「静かにします。話しかけません。オレはヒメ先輩と学年が違うから、絶対に机を並べることはないじゃないですか。隣りに座って、勉強ができるだけで嬉しいんです」
 藤丸は俺がどんなに素っ気ない態度でもめげない。
 毎日送ってくるメッセージにだって、一度も返していないのに。
「じゃあ、放課後に学校の図書室で」
「絶対ですよ! 忘れないでくださいね」
 藤丸が身を乗り出してきて、背を反らす。
「ああ、わかった」
 立ち上がって、また壁に向かってボールを蹴る。
 薄暗くなるまで続けたが、藤丸は瞬きも惜しいというほど真剣に、俺のプレーを観察していた。


 次の日の放課後、静かな図書室を見渡すが、藤丸はまだいなかった。
 並びで空いている席を確保して、先に勉強を始める。五分ほどして藤丸が隣に座った。
 約束通り喋ることなく、机に数学のワークを広げる。
 カリカリとシャーペンが走る音だけが響いた。
 しばらくすると、藤丸の方から音が消える。
 もう飽きたのか? と眉を顰めて隣に目を向けた。藤丸はワークに目を落とし、険しい表情で前髪を掴んでいる。
 ワークに目を向けると、真面目に問題を解いていることが窺えた。
 ノートの端に『わからないのはどれだ?』と書いて、藤丸に寄せる。
 藤丸は人差し指で問題を指した。
 ルーズリーフに途中式を省略せずに、問題を解いた。最後に『やる』と付け加えて、藤丸に渡す。
『ありがとうございます』
 藤丸がノートの端に文字を書き、相好を崩す。
『勉強しろ』
 俺が付け加えた文字を見て、慌てて目線を落とす。
 俺の解答を参考に、隣の同じような問題を解き出した。
 俺は自分の勉強に戻る。


 きっちり二時間勉強して、図書室を出る。
「ヒメ先輩って、頭いいんですね」
「できないのは悔しいから、普段から勉強してるだけだ」
「サッカーだけじゃなく、勉強でもストイックなんですね。おかげで助かりました。まさかヒメ先輩に教えてもらえるなんて」
 俺は真面目にやるやつには、手を貸す。
「同級生気分も味わえました」
 藤丸が気楽に笑う。こいつが同じ教室にいたら面倒だろうな。


 空き教室に入り、「ここで着替えてから行くぞ」とシャツのボタンを外す。
「待ってください! ヒメ先輩はオレが先輩のことを好きだってわかっていますよね。それなのに目の前で脱ぐとか、もっと危機感を持ってください」
「部室でも普通に着替えているだろ」
 今更何を慌てているんだ?
「いつもはみんながいますよね。今は二人っきりなんですよ」
 真剣に諭される。
 こいつ、俺に欲情するのか? 自分のシャツの襟元を掴んで、引き寄せた。
「じゃあお前が出ていけよ」
 廊下を指す。
「えー、嫌ですよ。ヒメ先輩がオレのことを意識して、警戒心を持ってくれればいいんです。後ろを向いているので、着替えましょう」
 藤丸が俺とは反対に体を向けた。俺も藤丸に背を向ける。
 後ろから聞こえる衣擦れの音で、藤丸の気配を強く感じた。ただの着替えの音が、妙に生々しく聞こえる。
 背中がジワジワと熱くなり、素早く着替えた。


 学校を出て、昨日の公園へ向かう。
 公園に着くと広場で距離を取り、藤丸の足元へパスを出した。
 グラウンドとは違う、少し不規則に弾む芝生の感覚。
 藤丸はそれをインサイドでトラップすると、パスを返す。
 少し右に逸れた。走って難なく止める。
「すみません、まっすぐ蹴ったつもりだったんですけど」
「よし、今から落とすなよ」
 つま先でボールを押さえて、滑らせるように下へ潜り込ませる。甲でボールを浮かせた。
 足首で二度跳ねさせてから、藤丸へ向かってボールを蹴り出す。
 藤丸は胸でトラップして、腿に落とすと足首で受け止めた。
 数回弾ませると、パスを出す。少し大きい。下がって飛び、胸で受け取るとすぐさま蹴り返した。
 ボレーパスで体を温めた後は、一対一でボールを奪い合う。
「本気で奪いに来い!」
 足元にボールを収め、軽く腰を落とす。
 先ほどまでの、どこかお気楽だったラリーの空気は一瞬で消え失せた。
「はい」
 藤丸が大きく一歩を踏み出した。
 ステップを踏みながら、左右に細かくボールを転がす。
 抜こうと藤丸の重心の逆を突いたはずなのに、反応が早い。
 長い足がボールと俺の間に割ってきた。
 体がぶつかり、よろけそうになるのを耐える。
 体格差のせいで、当たられると弱い。
 長引く前に抜かせてもらう。
 わざと横に大きくボールを晒し、誘い球を投げた。狙い通り、藤丸の足がボールを奪いにぐっと伸びてくる。
 その瞬間、藤丸の重心が完全に移動し、両足が開いた。
 伸びてきた足のわずかな隙間を、見逃さない。針の穴を通すような正確さで、ボールをそこに突く。
 俺は藤丸の傍をすり抜け、藤丸が振り返る前にボールを回収した。
「はー。相変わらずコントロールがエグいですね。この一瞬で、股の下なんて狭いところによく通しますね」
 悔しさと興味が入り混じったような顔をする。
「はい、次はお前」
 ボールを蹴って渡す。
 当たりに行っても勝てない。間合いを詰めすぎないよう、距離を保ちながら藤丸の出方を窺う。
 藤丸はボールを小さく小突いた。鋭く踏み込み、大きく左側へと逸れる。
 体を滑り込ませ、進路を塞いだ。ギリギリブロックしたはずなのに、藤丸は右に切り返す。
 恐ろしいボディバランスだ。
 だが、その右への切り返しが大きい。
 そう簡単に抜かせるかよ。まだ俺を抜くのは早い。
 進路を狭める。藤丸の体が一瞬伸びた。その隙を見逃さず、懐に深く踏み込む。つま先でボールだけを綺麗に引っ掛けた。
「は?」
 藤丸の足元からボールが離れ、俺が前へ出て回収した。
「あー、悔しい! ヒメ先輩、もう一回!」
 藤丸からは絶対に止める、絶対に抜く、と剥き出しの感情が伝わってくる。つられて俺もついつい熱くなってしまう。
 普段はムカつくけれど、ここまで躍起にさせてくれる藤丸とのサッカーは楽しい、と認めざるを得ない。


 テスト週間は放課後に藤丸と勉強をして、その後サッカーをすることが続いた。
 金曜日、サッカーの休憩中に、ベンチに並んで座る。
「ヒメ先輩」
 藤丸が特殊なほど、張りのない声で呼ぶ。
 水をグッと飲み干して、そちらに目を向けた。
 藤丸は足の間に腕を垂らし、背を丸めて俯いている。
「どうした?」
「オレは夏の大会に、出られますか?」
 難しい質問だった。
 FWは絶対的なエース、東堂先輩がいる。
 東堂先輩と藤丸は、自分で切り開く超攻撃型のFWとして、プレースタイルが似ていた。冷静な東堂先輩と、感覚的な藤丸という違いはあるが。
 今の時点では、東堂先輩に軍配が上がる。
 もう一人のFWの先輩はポストプレーが得意で、二人とは被らない。総合的に見れば藤丸だが、安定を捨てて、攻撃型の二人を並べるだろうか。
 でも俺は藤丸を使ってみたい。
 ……一つ藤丸を使う案はあるが、期待をさせるのも酷だから言葉を飲み込む。
「それはわからない。決めるのは俺じゃなくて、三浦先輩と東堂先輩だから」
「オレ、試合に出たいです」
「三年生が引退すれば、確実に出られる」
「冬までなんて、待てませんよ!」
 藤丸は仏頂面を見せた。
「テスト明けの部活で、アピールするしかないな。そのためにも、赤点なんて取るなよ」
「大丈夫です。ヒメ先輩と勉強をしたので、自信があります」
 藤丸は胸を張って不敵に笑う。生意気だが、自信に満ち溢れている方が、藤丸には合っていた。
「よし、練習再開しようぜ」
「はい!」
 ベンチから立ち上がって、ボールを蹴った。


 テストが無事終わり、赤点者はなし。
 高崎が引くほどはしゃいでいたが、先輩たちが引退したら誰が面倒を見るのだろうか。……俺か? 考えたくもない。