天才令嬢は時戻りを繰り返す~幼馴染の年上伯爵に伝えたいこと~

ダニエルは、クロエをバルコニーに連れ出すと、そっと腰から手を離して距離を取った。
会場からの光と喧騒はバルコニーまでに届かず、ここにきてようやくクロエは安堵のため息を漏らした。
先ほど、ブリジットたちに鋭い視線を向けられ、どうやら思ったよりも緊張していたようだ。

「ダニエル様、助けて下さってありがとうございました」

クロエはそう言って小さく頭を下げた。

「いや、気にしなくていい。むしろ俺の方こそ咄嗟の事とは言え、君をパートナー扱いしてしまって申し訳なかった。不愉快ではなかっただろうか?」
「いいえ!とんでもありません。私の方こそ、ダニエル様にご迷惑をおかけしてしまって。あの……パートナーの方に不愉快な思いをさせてしまわないでしょうか?」
「ふっ、それは心配には及ばない。本の虫の僕にパートナーなんていないのを、君も知っているだろう?」

その言葉からダニエルが夜会に一人で参加していることが分かった。
ダニエルは自分を謙遜してそう言っているが、伯爵家のダニエルは、研究者らしく知的な雰囲気を持つ男性で、容姿も整っている。
それに加え、ゆくゆくは国家魔術師として国の中枢で活躍することを嘱望されており、容姿・地位・将来性共に有望株の青年だ。
だから、密かに彼を狙っている女性が多いことをクロエは知っている。

「そう言えば君のエスコートは……」

そこまで言ったダニエルは、言葉を区切ったかと思うと、突然着ていたジャケットをクロエの肩にふわりとかけた。

「寒いだろう。良かったら着ているといい」
「え?」

バルコニーは確かに会場内に比べたら涼しい。
夜になって少しだけ冷たさを纏った風がクロエの頬を撫でていく。
だが、ジャケットを羽織るほどの寒さではない。
驚いてダニエルを見ると、少し戸惑った様子で会場をちらりと見た後で、躊躇いがちに言った。

「その……君のドレス姿は素敵だが」

ダニエルの言葉と先ほどの視線に含まれた意味をクロエは察した。

「もしかして、先ほどの会話を聞いてらっしゃいましたか?」

クロエがそう尋ねると、無言のままダニエルはバツの悪い顔をした。
たぶん先程、ブリジットからドレスの色について文句を言われていたのを聞いていたのだろう。
恋人であるロザリーと同じ色を纏っているクロエが、ドレスの色を気にしているのを察したようだった。
だから、クロエのドレスが隠れるように、こうしてジャケットを羽織らせてくれたのだと分かった。

「すみません。ありがとうございます」

その気遣いと優しさが、先ほどまで敵意を向けられて固くなっていた心に染みていった。
ダニエルはバルコニーに背を預けながら話題を変えた。

「久しぶりだな。君と会うのは、半年ぶりだろうか?」
「そうですね。多分そのくらいになります。同じ研究棟にいるのに、なかなか会えないものですね」
「ははは、お互い研究室に籠っているからな」

クロエは以前、ダニエルの研究室と一緒に、遺伝子の解析の共同研究をしていた。
そのためクロエはダニエルとほぼ毎日のように顔を合わせ、議論を重ね、研究室で顔を合わせていた。
だが、共同研究が一区切りつき、それぞれの研究室で研究を進めることになってからは、ほとんど顔を合わせることが無くなっていた。
したがって、ダニエルとこうして会話をするのは約半年ぶりとなる。

「この間、君の論文を読んだよ。遺伝子は染色体上に存在するというのがようやく証明されたのは画期的だよ」
「ありがとうございます。ですが、理論的には隣国ラルドビアでは既知の話でしたから、私はそれを元に推測したにすぎませんよ。それにダニエル様が新しい顕微術を開発してくださったお陰です」

ダニエルは医療魔術者としての知識もさることながら、微細な人体構成に関する解析術の開発にも優れた能力を持っている。
隣国で開発された光学顕微鏡という装置と魔術を組み合わせ、ダニエルは人体解析魔術を確立させたのだ。
これにより、より詳細な人体解析を行えるようになった。
クロエが感謝を伝えるとダニエルは少し照れながら答えた。

「いや君の役に立ったのなら僕も嬉しいよ。実は、ジェレミー様がリーダーになっている研究プロジェクトに入っていて、更に精度を上げた解析魔術を急ピッチで開発しているところなんだ」
「父の? それってクレープス病……最近発見された奇病の研究ですか?」
「あぁ、そう言えば君も知っていたんだね。この間、あの奇病解明のヒントを君がくれたとジェレミー様が仰ってたな」

先日、父親が奇病について研究を始めたと聞いて、クロエはその原因が細胞の変異によるものだと話したことを言っているのだろう。

(だけど、なんで私はあの事を知っていたのかしら?)

奇病の話を聞いてすぐに症状と原因が思い浮かんだ。
もしかして何かの文献で読んだのかもしれないが、そのあたりの記憶が曖昧だ。
どこで読んだのか? 何故知っているのか?
思い出そうとすると頭に靄がかかったようになる。

(奇病、クレープス病、細胞変異、遺伝子……)

頭の中で様々な単語が浮かんでは消えていく。
その時不意に誰かの姿が思い浮かんだ。
逆光でシルエットしか見えないが、長身の男性であるようだ。
だが、ぼんやりとしてはっきりとは思い出せない。
鼻梁の高いバランスの良い横顔に、金の髪の毛がサラリと揺れたように思える。

(あなたは……誰?)

クロエが記憶を手繰ろうとした時、突然名前を呼ばれて現実に引き戻された。

「クロエ嬢?」
「あ! 申し訳ありません」

どうやらまたぼんやりとしていたようだ。
人と会話をしながら、他の事を考えるなど失礼にもほどがあるだろう。
クロエは慌てて謝ったのだが、そんなクロエを見てダニエルがくすりと笑った。

「ふっ、久しぶりに見たよ。君の『トリップ』。相変わらずだな」
「本当、私の悪い癖ですね」

クロエは時折、人と話していても、先ほどのように突然思考が飛んでしまう。
特に、研究者と話したり議論をしていると、研究に関するアイディアのようなものが浮かび、ぼうっと思案してしまう。
それを皆「トリップ」と呼ぶのだ。
だから、研究仲間は「またか」と言って大して気にも留めずに放っておいてくれる。
しかも大抵その後にクロエは画期的な発想をしたりするので、研究者としてはクロエのトリップの重要性を理解してくれているのだ。
ダニエルもまたそれを理解してくれているので、小さく笑うだけだった。

「ええと、その後研究は進んでますか?」
「ああ君の助言のお陰でだいぶ進んだ。今回の奇病が細胞変異によるものなら、染色体に異常があるのではないかって考えているんだ。それで、僕が開発している解析術が確立できれば、その正体が分かるはずなんだ」
「そうなのですね。あの、良かったら、研究について話を聞かせていただけないでしょうか?」

この奇病について、もっと分かれば、クロエの中のもやもやの正体も分かるかもしれない。
直感であるがクロエはそう感じ、ダニエルに尋ねてみた。
父ジェレミーに聞いてもいいのだろうが、忙しい父とは屋敷で顔を合わせることが少ない。
それに現場で研究をしているダニエルの方が、リアルタイムで話が聞けるだろう。
ただ、奇病の研究はまだ公になっていないようなので、研究内容を教えてもらうのは無理かもしれないが、一応お願いしてみることにした。
ダニエルはクロエのお願いに逡巡する素振りを見せた。

「もちろん教えていただける範疇で構わないのですが……」
「確かに部外者には漏らせないこともあるだろうが、僕も君の意見を聞きたいところがあるんだ」
「ありがとうございます」
「ああそうだ。この間ラルドビアから最新研究の本を手に入れたんだ。それも貸そう」
「本当ですか! 嬉しいです」

ラルドビアは閉鎖的な国のため、ラルドビアの学術書はほとんど流通していない。
手に入れるのは至難の業だ。
それを見せてもらえることに、クロエの気持ちが弾んだ。
先ほどブリジット達に絡まれて暗く沈んでいた心が、一気に浮上したような気がする。
そうしてクロエが微笑んでいると、不意にダニエルがクロエの顔を覗き込むように、顔を近づけてきた。

「っ!?」

じーっと顔を見られ、クロエは驚いて目を瞠ってしまった。
ダニエルはまじまじとクロエを見つめたかと思うと、今度は眉を顰めた。

「研究に打ち込む君も魅力的だが、少し疲れてるんじゃないか?」
「え?」
「顔色があまり良くない。隈も出来てしまっている」
「ええ! 本当ですか?」

クロエはダニエルの言葉を受け、反射的に顔を覆ってしまった。
その様子を見たダニエルは、言葉に揶揄いの色を滲ませて、小さく笑いながら言った。

「まぁ、僕はもっと酷い顔も見たことはあるがね」
「そ、それを言ったらダニエル様もですからね」

だが、ダニエルも研究終盤になった時には、睡眠時間を削って実験したせいで、青白い顔でクマを作っていたものだ。
クロエは恥ずかしさのあまり真っ赤になって反撃の言葉を口にした。
だから、自分ばかりそんなことを言われるのが悔しくて、クロエは恨めしい顔でダニエルを見つめた。
そして数秒見つめ合った後、互いに吹き出していた。

「まぁ、どっちもどっちだな」
「ですね」

そう言って笑い合っている時、背後からフレッドの声がした。

「クロエ!」

名前を呼ばれて振り返ると、そこには足早にこちらにやって来るフレッドの姿があった。