本を選ぶのに熱中してしまったクロエは悩んだ挙句に5冊ほど本を購入し、屋敷に届けてもらうことにした。
あまりにも長い時間吟味していたため、本屋を出た時には既に西の空だけが茜色に輝き、淡い紫色の夕空が街の上に広がっていた。
そしてフレッドが予約してくれたレストランで食事をとり、クロエたちは帰宅の途に着いた。
フレッドと共に馬車に乗ったクロエは、天鵞絨の柔らかい座席に身を預け、はぁと息をついた。
「楽しい一日だったわ」
外出はあまり好きではないクロエは、普段研究室や屋敷に籠りがちだ。
だが、不思議なことにこうしてフレッドと一緒であれば外出も嫌ではないし、億劫でもない。
むしろ、論文を読むときと同じくらい楽しかった。
「その様子だと喜んでもらえたようで、よかったよ」
「ええ! 久しぶりにお兄様ともゆっくり過ごせたし、私も嬉しかったわ! お兄様は何かほしいものはある? お返しがしたいの」
「気にしなくてもいいよ。俺がやりたくてやったことなんだ。それに、お礼ならさっきの店に付き合ってくれたじゃないか」
路地奥にある本屋のことを指しているのだろう。
確かにあの店に行く時、フレッドの行きたいところに付き合うということで連れて行ってもらった。
だが、あの店に行ったのはクロエを喜ばせるためであって、フレッドが行きたい店ではなかったはずだ。
「あれは私のために連れて行ってくれたのでしょう? 私はお兄様の欲しい物をプレゼントしたいの!」
食い下がるクロエに苦笑したフレッドだったが、不意にクロエのバッグに目を留めた。
「じゃあ一つ聞いてもいいかい?」
「ええ、もちろん」
何を聞かれるのか見当もつかないクロエは、首を傾げながら答えると、フレッドは神妙な顔をして尋ねた。
そこには少しばかりの緊張のようなものも見え隠れして、クロエもまた緊張しながらフレッドの言葉を待った。
「その……だな。俺の勘違いだったら申し訳ないんだが、もしかして、そのバッグに俺に渡すものが入ってたりしないかい?」
「なっ……!」
図星されたクロエはそんな言葉を漏らし、絶句してしまった。
確かにバッグには今日フレッドに渡そうか悩んでいた手作りクッキーの包みが入っている。
だがなぜ、それをフレッドが知っているのだろうか?
「な、なんでそんなことを知ってるのですか!?」
「ああ、やっぱり俺の勘は当たってたのか。クロエは今日何度も俺を見てからバッグを触っていたから、何か渡したいものでもあるのかと思ったんだ」
自分では全く意識してなかった。
確かに、クロエはフレッドに手作りクッキーを渡すタイミングを見計らっていた。
だが、まさか無意識にバッグを触っていたとは思わなかった。
「それで、何をくれるのかな?」
「うっ……そ、それは……」
じっと見つめられてしまい、今更誤魔化すことも難しい。
クロエは観念して、バッグからラッピングした手作りクッキーを取り出すと、フレッドの前に差し出した。
「実は、これをお兄様に渡そうと思っていたの」
上手く包めずに何度も包み直したせいで、ラッピング紙は少しよれよれになってしまっているし、リボンだって曲がってしまっている。
そんな不格好な包みを差し出さねばならず、顔が羞恥で赤く染まっていることは自分でも自覚している。
フレッドの顔が直視できずにクロエは早口でさらに言葉を続けた。
「あの、は、初めて作ったから上手く焼けなかったの。ちょっと焦げてしまって……だから、無理に食べなくても大丈夫よ。要らないならそう言って下さっても結構ですから」
「俺のために焼いてくれたのかい?」
「ええ。でも、本当に見た目が悪くて。ラッピングも上手くできなくてごめんなさい」
少し沈黙が車内に訪れる。
ドキドキと鼓動の音が自分の耳に響き、緊張で身が硬くなってしまう。
だが、フレッドは優しい笑みを浮かべたかと思うと、リボンが曲がって結ばれた薄桃色の包みを受け取った。
そして、慈愛に満ちた目を向けて、ゆっくりとラッピングを解いていく。
フレッドの長く美しい指が、少し焦げたクッキーを摘まむと、そのまま口に運んだ。
「どう……かしら?」
クロエはフレッドの顔色を窺いながら、恐る恐る尋ねた。
「うん、すごく美味しいよ」
「お世辞なんて言わなくても平気よ?」
「お世辞なんかじゃない。それにどんな物でもクロエからの贈り物は嬉しいけど、こうやって俺のために手作りしてくれたことが何よりも嬉しいよ」
そう言ってフレッドはもう一枚クッキーを摘まんで食べると、幸せそうに微笑んだ。
フレッドは優しい。
焦げたクッキーが美味しいわけはないのに、こんなものでも喜んでくれて笑みを返してくれる。
その笑みは昔見た気がする。
(そう言えば、以前もこうやってクッキーを渡したら喜んで食べてくれたわ)
あまりに嬉しそうに食べるフレッドの姿を見たクロエは、ほっと安堵の息を吐いた。
「ありがとう。本当、お兄様は優しいわね。この間も焦げたクッキーを美味しいと言って食べてくれたでしょ?」
クロエは記憶を辿り、懐かしい思い出を語ったつもりだった。
だが、その言葉を聞いたフレッドは柔らかい笑顔を一転させ、クッキーを摘まんでいた手を止めると、怪訝な表情を浮かべた。
「覚えはないが」
「え? あれ? そう……だったかしら?」
意外な反応にクロエは困惑してしまう。
だが、確かに昔この光景を見た覚えがあるのだ。
(記憶が混乱してる?)
クロエもまた覚えのない記憶に戸惑った。
これがデジャヴというものなのだろうか?
そんなことを考えて口をつぐんでいるクロエに、フレッドは心なし低い声で尋ねた。
「以前? その時のクッキーは誰のために焼いたんだ?」
フレッドの剣呑な瞳に見つめられて、クロエは焦って弁解した。
「いいえ、お兄様が初めてよ!」
「本当に?」
「ええ。もちろん! 信じられないなら、料理長のテムズに聞いてみてちょうだい」
このクッキーはテムズに手伝ってもらって一緒に焼いたものだ。
クロエの言葉にまだ疑惑の目を向けてきたフレッドだったが、ふと何かを思いついたようだ。
そして冗談のようにも期待にも満ちた顔で、フレッドは予想外のことを言ってきた。
「じゃあ、食べさせてくれたらお前の言うことを信じるよ」
「えっ?」
フレッドの言葉に、クロエは硬直してしまった。
食べさせるというのは、「あーん」というものをしてほしいと言うことだろうか?
それはさすがに恥ずかしい。
クロエが躊躇っていると、フレッドはまた剣呑な目で言葉を続ける。
「やっぱりお前が言うことは嘘だったんだね」
「ううん、本当よ!」
どうやら食べさせない限り、クロエの言い分は信じてもらえなさそうだ。
クロエは一つ息をついて呼吸を整えると、クッキーを摘まむとそっとフレッドの口元へ運んだ。
(は、恥ずかしい!)
顔を赤らめているクロエの様子を見たフレッドは、クッキーをぱくりと食べた。
だが、更にフレッドはクロエにとって予想外の行動をした。
クッキーと共にクロエの指まで口に含んだのだ。
「!?」
今度こそ頭が真っ白になり、クロエは口をパクパクさせるので精一杯だった。
クロエが言葉を出せないでいるのをよそに、当のフレッドは悪びれもなくにっこりと笑った。
「じゃあクロエの言葉を信じるよ」
「お、お兄様! 今……わ、私の手を……!」
「うん、美味しかった」
「~!!」
「でも、クロエ。でもこうやってお前の手作りを食べるのは俺だけにしてほしい。じゃないと、またこういうことをしてしまうよ」
「わ、分かりました! お兄様にしか作りません!」
フレッドがくつくつと喉を鳴らして笑いを堪えているが、クロエはそれを言うだけで精いっぱいだった。
もしクロエがフレッド以外にクッキーを焼いた日には、絶対に同じことを実行させられる。
伊達に10年も一緒に過ごしているわけではないので、これは冗談で言っているわけではないことを、クロエは確信した。
その時、カタリという音と共に、馬車が止まった。
「あぁ、もう着いたようだね」
どうやらクロエの屋敷に到着したようだ。
フレッドは馬車のドアを開けると、まだ羞恥で顔を上げられないでいるクロエを促すように、手を差し出した。
正直、この状況でフレッドに触れるのはあまりにも恥ずかしい。
だがこのまま馬車に乗っているわけにもいかず、仕方なくフレッドの手を取って馬車を降りた。
真っ直ぐにフレッドの顔を見ることができない。
「揶揄いすぎたね」
頭上から忍び笑いが聞こえるのを恨めしく思っていると、自分の手を掴むフレッドの手首にふと目がいった。
手首に痣が出来て、紫色に変色している。
「お兄様、この痣、どうされたの?」
「ん? あぁ、どこかにぶつけたみたいだね。無意識だったみたいで気づかなかったけど」
「そうなの。打撲だとあとで痛みが出るかもしれないわ。何かあったら言ってくださいね、手当をするから」
「あぁ、ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
クロエに背を向け馬車に乗り込もうとしたフレッドが、突然踵を返してクロエの耳に口を寄せた。
「次に会うのは夜会だね。夜会で僕の色を纏ったお前が見れるのが楽しみだ」
そう告げたと思った瞬間、フレッドはクロエの頬に軽く口づけた。
フレッドの柔らかい唇の熱を頬に感じたと思った時には、すでにフレッドは馬車に乗り込んでしまっていた。
「え?」
何が起こったか分からず、呆然としたままフレッドの馬車を見送り、その姿が見えなくなったところで我に返ったクロエはその場に崩れ落ちるようにしゃがんでいた。
「い、今のは、何?」
今になって頬に触れたフレッドの唇の柔らかい感触が思い出され、じわじわと顔が赤くなっていった。
(今の、キスされた? それにあの言葉って……)
フレッドは別れ際に「僕の色を纏ったお前」と言った。
それは先ほど贈ってくれたオートクチュールのドレスの事を意味するのだろう。
つまり、フレッドは意味を持ってあの色を選んだということになる。
エスコート相手の色を身に着けるというのは、二人が特別な関係であることを示唆するものだ。
ならば、フレッドがクロエに青に金糸の入ったドレスを贈ったということは、クロエを「特別な関係」と思ってくれているということだろうか?
(今日はもう何が何だかよく分からないわ)
混乱した頭のまま、クロエはフレッドの消えた方角を見つめ続けた。
※
翌朝、クロエはぼんやりとした面持ちで食堂へ向かった。
まだフレッドの唇の感触を思い出し、クロエは無意識に自らの頬に触れていた。
(私ったら!)
自分の行動が妙に恥ずかしく思え、クロエは頭を軽く振り、顔を引き締めて食堂に入った。
「おや、クロエ、おはよう」
「あら、お父様。朝に会うのは久しぶりですね」
クロエと同じように国家魔術研究所で研究員をしている父ジェレミーは、最近研究が忙しいようで、毎日帰宅が遅い。
そのためクロエとはすれ違いの日々を送っており、こうやって朝に顔を合わせるのは1週間ぶりだ。
「毎日遅くまでお仕事なさっているようですけど、あまり無理なさらないでね」
「ははは、その台詞はそっくりそのままお返しするよ」
ジェレミーはおどけてそう言ったが、あまり冴えない顔つきだった。
その様子から、研究で何か問題が起こったのだと察した。
「お父様、何かあったのですか?」
「実はな、新しい奇病が確認されたんだ。その治療魔術を開発しようという話なのだが、何が原因でそれが発病するのか、全く分からないんだ」
「奇病……」
クロエの頭の中で、ふと一つの症状が浮かび上がった。
「もしかして、全身に痣が浮かび上がって、その部分が壊死し、最終的には死亡するという症状ではありませんか?」
「あ、あぁそうだが……」
その奇病ならば「クレープス病」と呼ばれる病気で、原因は細胞の変異によるものだと特定されているはずだ。
確かに、どうして細胞の変異が起こるのか、どうやったらそれが治るのかがまだ分かっていないのは事実だが。
だから父ジェレミーがクレープス病の事を「新しい奇病」と言っていることも、「何が原因でそれが発病するのか」と言っていることも不思議に思い、クロエは首を傾げた。
「それってクレープス病の事ですよね?あの病気は細胞変異が原因だって分かってるはずですよ。ただ、細胞変異の発現原因が特定できてないだけで……」
クロエの言葉を聞いたジェレミーは驚愕の表情を浮かべた。
「クレープス病? なんだそれは?」
「え? だから先ほどお父様が話してくださった症状が出る病気ですけど。違ったかしら?」
クレープス病は近年発見されたものだが、現在急ピッチで研究が進められている病気でもある。
だから、博識な父がクレープス病を知らないはずはないと思うのだが、父の反応を見る限り病気の事を知らないようだった。
クロエの発言に対し、ジェレミーは驚愕の表情を浮かべた後、困惑気味にクロエに尋ねた。
「クロエ、この奇病は最近発症が確認されるようになった病気なんだ。だから、一部の研究者しか知らない病気なのに……」
「え? どうしてって……あれ? なんで知っているのかしら?」
だが、ジェレミーに問われたクロエも、自分自身でその答えがないことに気が付いた。
ジェレミーが言う通り、確かにクロエはその症状に関する病気の話を聞いたことがないように思える。
だが、クロエはそのことを知っている。
まるで以前からその奇病の事を知っていたかのように、クロエの中で当然のように症状が浮かんだ。
矛盾した二つの記憶に、クロエ自身も戸惑い、ジェレミーに答えを返すことができずに口籠った。
(どうして、私は奇病の症状を知っているの? 以前聞いたことがある? いいえ、そんな話知らないはずだわ)
不思議そうな顔でクロエを見るジェレミーの視線に気づき、クロエは曖昧に笑った。
「ええと、何か別の病気と混同してしまったみたい。変なことを言ってごめんなさい」
「いや、お前は昔から医療魔術の発想が優れている。なるほど、細胞変異か。その視点はなかったな」
そう言ってジェレミーは何やら考えているようである。
どうやら研究者モードになり、これからの実験について考えているのだろう。
その時、食堂に執事が入ってきてジェレミーに出勤の時間を告げた。
「旦那様、そろそろ出立のお時間でございます」
「ああ、そんな時間か! じゃあクロエ、行ってくるよ。さっきの助言、ありがとう」
「いいえ。行ってらっしゃいませ、お父様」
バタバタと慌ただしく食堂を出て行く父親の後ろ姿を見送ったクロエは、テーブルに並べられた朝食をなんとなく見つめながら考えていた。
昨日もフレッドに「どうして医療魔術が好きなのか」と問われ、即答できなかった。
その時と同じように、上手く言語化できないが、何かを思い出そうとして思い出せないもやもやとした気持ちになる。
記憶にはないはずの記憶。
手繰ろうとすると砂が崩れ落ちるように無くなっていく『誰か』。
(昨日から何なのかしら。もしかして、疲れているのかしら?)
昨日はフレッドの言葉に翻弄されて、よく眠れなかったせいかもしれない。
ただ、先ほど父が言っていた奇病について、どうしても気になってしまう。
(あとで、少し論文を調べてみようかしら)
クロエはそう考えつつ、目の前のスクランブルエッグを口に運ぶことにした。
あまりにも長い時間吟味していたため、本屋を出た時には既に西の空だけが茜色に輝き、淡い紫色の夕空が街の上に広がっていた。
そしてフレッドが予約してくれたレストランで食事をとり、クロエたちは帰宅の途に着いた。
フレッドと共に馬車に乗ったクロエは、天鵞絨の柔らかい座席に身を預け、はぁと息をついた。
「楽しい一日だったわ」
外出はあまり好きではないクロエは、普段研究室や屋敷に籠りがちだ。
だが、不思議なことにこうしてフレッドと一緒であれば外出も嫌ではないし、億劫でもない。
むしろ、論文を読むときと同じくらい楽しかった。
「その様子だと喜んでもらえたようで、よかったよ」
「ええ! 久しぶりにお兄様ともゆっくり過ごせたし、私も嬉しかったわ! お兄様は何かほしいものはある? お返しがしたいの」
「気にしなくてもいいよ。俺がやりたくてやったことなんだ。それに、お礼ならさっきの店に付き合ってくれたじゃないか」
路地奥にある本屋のことを指しているのだろう。
確かにあの店に行く時、フレッドの行きたいところに付き合うということで連れて行ってもらった。
だが、あの店に行ったのはクロエを喜ばせるためであって、フレッドが行きたい店ではなかったはずだ。
「あれは私のために連れて行ってくれたのでしょう? 私はお兄様の欲しい物をプレゼントしたいの!」
食い下がるクロエに苦笑したフレッドだったが、不意にクロエのバッグに目を留めた。
「じゃあ一つ聞いてもいいかい?」
「ええ、もちろん」
何を聞かれるのか見当もつかないクロエは、首を傾げながら答えると、フレッドは神妙な顔をして尋ねた。
そこには少しばかりの緊張のようなものも見え隠れして、クロエもまた緊張しながらフレッドの言葉を待った。
「その……だな。俺の勘違いだったら申し訳ないんだが、もしかして、そのバッグに俺に渡すものが入ってたりしないかい?」
「なっ……!」
図星されたクロエはそんな言葉を漏らし、絶句してしまった。
確かにバッグには今日フレッドに渡そうか悩んでいた手作りクッキーの包みが入っている。
だがなぜ、それをフレッドが知っているのだろうか?
「な、なんでそんなことを知ってるのですか!?」
「ああ、やっぱり俺の勘は当たってたのか。クロエは今日何度も俺を見てからバッグを触っていたから、何か渡したいものでもあるのかと思ったんだ」
自分では全く意識してなかった。
確かに、クロエはフレッドに手作りクッキーを渡すタイミングを見計らっていた。
だが、まさか無意識にバッグを触っていたとは思わなかった。
「それで、何をくれるのかな?」
「うっ……そ、それは……」
じっと見つめられてしまい、今更誤魔化すことも難しい。
クロエは観念して、バッグからラッピングした手作りクッキーを取り出すと、フレッドの前に差し出した。
「実は、これをお兄様に渡そうと思っていたの」
上手く包めずに何度も包み直したせいで、ラッピング紙は少しよれよれになってしまっているし、リボンだって曲がってしまっている。
そんな不格好な包みを差し出さねばならず、顔が羞恥で赤く染まっていることは自分でも自覚している。
フレッドの顔が直視できずにクロエは早口でさらに言葉を続けた。
「あの、は、初めて作ったから上手く焼けなかったの。ちょっと焦げてしまって……だから、無理に食べなくても大丈夫よ。要らないならそう言って下さっても結構ですから」
「俺のために焼いてくれたのかい?」
「ええ。でも、本当に見た目が悪くて。ラッピングも上手くできなくてごめんなさい」
少し沈黙が車内に訪れる。
ドキドキと鼓動の音が自分の耳に響き、緊張で身が硬くなってしまう。
だが、フレッドは優しい笑みを浮かべたかと思うと、リボンが曲がって結ばれた薄桃色の包みを受け取った。
そして、慈愛に満ちた目を向けて、ゆっくりとラッピングを解いていく。
フレッドの長く美しい指が、少し焦げたクッキーを摘まむと、そのまま口に運んだ。
「どう……かしら?」
クロエはフレッドの顔色を窺いながら、恐る恐る尋ねた。
「うん、すごく美味しいよ」
「お世辞なんて言わなくても平気よ?」
「お世辞なんかじゃない。それにどんな物でもクロエからの贈り物は嬉しいけど、こうやって俺のために手作りしてくれたことが何よりも嬉しいよ」
そう言ってフレッドはもう一枚クッキーを摘まんで食べると、幸せそうに微笑んだ。
フレッドは優しい。
焦げたクッキーが美味しいわけはないのに、こんなものでも喜んでくれて笑みを返してくれる。
その笑みは昔見た気がする。
(そう言えば、以前もこうやってクッキーを渡したら喜んで食べてくれたわ)
あまりに嬉しそうに食べるフレッドの姿を見たクロエは、ほっと安堵の息を吐いた。
「ありがとう。本当、お兄様は優しいわね。この間も焦げたクッキーを美味しいと言って食べてくれたでしょ?」
クロエは記憶を辿り、懐かしい思い出を語ったつもりだった。
だが、その言葉を聞いたフレッドは柔らかい笑顔を一転させ、クッキーを摘まんでいた手を止めると、怪訝な表情を浮かべた。
「覚えはないが」
「え? あれ? そう……だったかしら?」
意外な反応にクロエは困惑してしまう。
だが、確かに昔この光景を見た覚えがあるのだ。
(記憶が混乱してる?)
クロエもまた覚えのない記憶に戸惑った。
これがデジャヴというものなのだろうか?
そんなことを考えて口をつぐんでいるクロエに、フレッドは心なし低い声で尋ねた。
「以前? その時のクッキーは誰のために焼いたんだ?」
フレッドの剣呑な瞳に見つめられて、クロエは焦って弁解した。
「いいえ、お兄様が初めてよ!」
「本当に?」
「ええ。もちろん! 信じられないなら、料理長のテムズに聞いてみてちょうだい」
このクッキーはテムズに手伝ってもらって一緒に焼いたものだ。
クロエの言葉にまだ疑惑の目を向けてきたフレッドだったが、ふと何かを思いついたようだ。
そして冗談のようにも期待にも満ちた顔で、フレッドは予想外のことを言ってきた。
「じゃあ、食べさせてくれたらお前の言うことを信じるよ」
「えっ?」
フレッドの言葉に、クロエは硬直してしまった。
食べさせるというのは、「あーん」というものをしてほしいと言うことだろうか?
それはさすがに恥ずかしい。
クロエが躊躇っていると、フレッドはまた剣呑な目で言葉を続ける。
「やっぱりお前が言うことは嘘だったんだね」
「ううん、本当よ!」
どうやら食べさせない限り、クロエの言い分は信じてもらえなさそうだ。
クロエは一つ息をついて呼吸を整えると、クッキーを摘まむとそっとフレッドの口元へ運んだ。
(は、恥ずかしい!)
顔を赤らめているクロエの様子を見たフレッドは、クッキーをぱくりと食べた。
だが、更にフレッドはクロエにとって予想外の行動をした。
クッキーと共にクロエの指まで口に含んだのだ。
「!?」
今度こそ頭が真っ白になり、クロエは口をパクパクさせるので精一杯だった。
クロエが言葉を出せないでいるのをよそに、当のフレッドは悪びれもなくにっこりと笑った。
「じゃあクロエの言葉を信じるよ」
「お、お兄様! 今……わ、私の手を……!」
「うん、美味しかった」
「~!!」
「でも、クロエ。でもこうやってお前の手作りを食べるのは俺だけにしてほしい。じゃないと、またこういうことをしてしまうよ」
「わ、分かりました! お兄様にしか作りません!」
フレッドがくつくつと喉を鳴らして笑いを堪えているが、クロエはそれを言うだけで精いっぱいだった。
もしクロエがフレッド以外にクッキーを焼いた日には、絶対に同じことを実行させられる。
伊達に10年も一緒に過ごしているわけではないので、これは冗談で言っているわけではないことを、クロエは確信した。
その時、カタリという音と共に、馬車が止まった。
「あぁ、もう着いたようだね」
どうやらクロエの屋敷に到着したようだ。
フレッドは馬車のドアを開けると、まだ羞恥で顔を上げられないでいるクロエを促すように、手を差し出した。
正直、この状況でフレッドに触れるのはあまりにも恥ずかしい。
だがこのまま馬車に乗っているわけにもいかず、仕方なくフレッドの手を取って馬車を降りた。
真っ直ぐにフレッドの顔を見ることができない。
「揶揄いすぎたね」
頭上から忍び笑いが聞こえるのを恨めしく思っていると、自分の手を掴むフレッドの手首にふと目がいった。
手首に痣が出来て、紫色に変色している。
「お兄様、この痣、どうされたの?」
「ん? あぁ、どこかにぶつけたみたいだね。無意識だったみたいで気づかなかったけど」
「そうなの。打撲だとあとで痛みが出るかもしれないわ。何かあったら言ってくださいね、手当をするから」
「あぁ、ありがとう。じゃあ、おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」
クロエに背を向け馬車に乗り込もうとしたフレッドが、突然踵を返してクロエの耳に口を寄せた。
「次に会うのは夜会だね。夜会で僕の色を纏ったお前が見れるのが楽しみだ」
そう告げたと思った瞬間、フレッドはクロエの頬に軽く口づけた。
フレッドの柔らかい唇の熱を頬に感じたと思った時には、すでにフレッドは馬車に乗り込んでしまっていた。
「え?」
何が起こったか分からず、呆然としたままフレッドの馬車を見送り、その姿が見えなくなったところで我に返ったクロエはその場に崩れ落ちるようにしゃがんでいた。
「い、今のは、何?」
今になって頬に触れたフレッドの唇の柔らかい感触が思い出され、じわじわと顔が赤くなっていった。
(今の、キスされた? それにあの言葉って……)
フレッドは別れ際に「僕の色を纏ったお前」と言った。
それは先ほど贈ってくれたオートクチュールのドレスの事を意味するのだろう。
つまり、フレッドは意味を持ってあの色を選んだということになる。
エスコート相手の色を身に着けるというのは、二人が特別な関係であることを示唆するものだ。
ならば、フレッドがクロエに青に金糸の入ったドレスを贈ったということは、クロエを「特別な関係」と思ってくれているということだろうか?
(今日はもう何が何だかよく分からないわ)
混乱した頭のまま、クロエはフレッドの消えた方角を見つめ続けた。
※
翌朝、クロエはぼんやりとした面持ちで食堂へ向かった。
まだフレッドの唇の感触を思い出し、クロエは無意識に自らの頬に触れていた。
(私ったら!)
自分の行動が妙に恥ずかしく思え、クロエは頭を軽く振り、顔を引き締めて食堂に入った。
「おや、クロエ、おはよう」
「あら、お父様。朝に会うのは久しぶりですね」
クロエと同じように国家魔術研究所で研究員をしている父ジェレミーは、最近研究が忙しいようで、毎日帰宅が遅い。
そのためクロエとはすれ違いの日々を送っており、こうやって朝に顔を合わせるのは1週間ぶりだ。
「毎日遅くまでお仕事なさっているようですけど、あまり無理なさらないでね」
「ははは、その台詞はそっくりそのままお返しするよ」
ジェレミーはおどけてそう言ったが、あまり冴えない顔つきだった。
その様子から、研究で何か問題が起こったのだと察した。
「お父様、何かあったのですか?」
「実はな、新しい奇病が確認されたんだ。その治療魔術を開発しようという話なのだが、何が原因でそれが発病するのか、全く分からないんだ」
「奇病……」
クロエの頭の中で、ふと一つの症状が浮かび上がった。
「もしかして、全身に痣が浮かび上がって、その部分が壊死し、最終的には死亡するという症状ではありませんか?」
「あ、あぁそうだが……」
その奇病ならば「クレープス病」と呼ばれる病気で、原因は細胞の変異によるものだと特定されているはずだ。
確かに、どうして細胞の変異が起こるのか、どうやったらそれが治るのかがまだ分かっていないのは事実だが。
だから父ジェレミーがクレープス病の事を「新しい奇病」と言っていることも、「何が原因でそれが発病するのか」と言っていることも不思議に思い、クロエは首を傾げた。
「それってクレープス病の事ですよね?あの病気は細胞変異が原因だって分かってるはずですよ。ただ、細胞変異の発現原因が特定できてないだけで……」
クロエの言葉を聞いたジェレミーは驚愕の表情を浮かべた。
「クレープス病? なんだそれは?」
「え? だから先ほどお父様が話してくださった症状が出る病気ですけど。違ったかしら?」
クレープス病は近年発見されたものだが、現在急ピッチで研究が進められている病気でもある。
だから、博識な父がクレープス病を知らないはずはないと思うのだが、父の反応を見る限り病気の事を知らないようだった。
クロエの発言に対し、ジェレミーは驚愕の表情を浮かべた後、困惑気味にクロエに尋ねた。
「クロエ、この奇病は最近発症が確認されるようになった病気なんだ。だから、一部の研究者しか知らない病気なのに……」
「え? どうしてって……あれ? なんで知っているのかしら?」
だが、ジェレミーに問われたクロエも、自分自身でその答えがないことに気が付いた。
ジェレミーが言う通り、確かにクロエはその症状に関する病気の話を聞いたことがないように思える。
だが、クロエはそのことを知っている。
まるで以前からその奇病の事を知っていたかのように、クロエの中で当然のように症状が浮かんだ。
矛盾した二つの記憶に、クロエ自身も戸惑い、ジェレミーに答えを返すことができずに口籠った。
(どうして、私は奇病の症状を知っているの? 以前聞いたことがある? いいえ、そんな話知らないはずだわ)
不思議そうな顔でクロエを見るジェレミーの視線に気づき、クロエは曖昧に笑った。
「ええと、何か別の病気と混同してしまったみたい。変なことを言ってごめんなさい」
「いや、お前は昔から医療魔術の発想が優れている。なるほど、細胞変異か。その視点はなかったな」
そう言ってジェレミーは何やら考えているようである。
どうやら研究者モードになり、これからの実験について考えているのだろう。
その時、食堂に執事が入ってきてジェレミーに出勤の時間を告げた。
「旦那様、そろそろ出立のお時間でございます」
「ああ、そんな時間か! じゃあクロエ、行ってくるよ。さっきの助言、ありがとう」
「いいえ。行ってらっしゃいませ、お父様」
バタバタと慌ただしく食堂を出て行く父親の後ろ姿を見送ったクロエは、テーブルに並べられた朝食をなんとなく見つめながら考えていた。
昨日もフレッドに「どうして医療魔術が好きなのか」と問われ、即答できなかった。
その時と同じように、上手く言語化できないが、何かを思い出そうとして思い出せないもやもやとした気持ちになる。
記憶にはないはずの記憶。
手繰ろうとすると砂が崩れ落ちるように無くなっていく『誰か』。
(昨日から何なのかしら。もしかして、疲れているのかしら?)
昨日はフレッドの言葉に翻弄されて、よく眠れなかったせいかもしれない。
ただ、先ほど父が言っていた奇病について、どうしても気になってしまう。
(あとで、少し論文を調べてみようかしら)
クロエはそう考えつつ、目の前のスクランブルエッグを口に運ぶことにした。


