――高校二年、一月五日。
午前七時すぎ。私は部室で一人、時計と楽譜の両方と睨めっこをしていた。
「ここの小節……」
右手の人差し指でなぞりながら、顧問に「命を吹き込むように」と散々言われてきた箇所を見て、ため息をついた。本番を想像している間に汗が滲んだ人差し指に、楽譜がべたりとはりついてくる。
他の箇所とは違って、蛍光ペンで真っ赤に何度も書き込んだから、本来の内容は塗りつぶされてしまった。
それでも"慣れ"とは恐ろしい。その箇所の音符と歌詞が、浮き上がって見え、語りかけてくるような気がする。
"微かな鼓動を、響かせろ " と。
顔を上げると、時計は既に、八時を指していた。心臓がどくんと打ってくる。
このままでは間に合わない――。
私は焦りをかき消すように、急いで楽譜をバッグに詰め込んで、部室から駈け出した。
会場に向かう途中、四回、交通量の多い交差点を渡らなければならないことを思い出した。
走っているのに、周りの景色がゆっくり流れているように見えて、足がもたつき、嫌な想像が脳内を駆け巡る。
時間が迫ってくる。急ぎ足をあざ笑うかのように、信号はこれでもかと赤色を私につきつけてくる。
雲行きが怪しくなってきた。
青空が広がっているのに、私の場所にだけ、しとしとと雨が降り始めている。
今年は、課題曲で降り止まない雨を、自由曲の太陽で大地を照らす――合唱部全員でそんな素敵な時間を、音楽を聴衆に届けようと懸命に練習してきた。
それを、他の誰でもない私が、壊してしまうかもしれない……。
最後の一つ前の横断歩道を、やっと渡ろうとした時、既に次の信号の点滅が始まっていた。
あと一つ、あの横断歩道を走れば絶対、間に合う。そう思って、私の両足は、さらにスピードを上げた。
その時だった。
ドンッ――――。
自動車のブレーキ音、鈍い音。全てが灰色へ、ゆっくり、静かに染まっていくみたいに見えた。
現実から逃げるように、それなのに、私の中はあいかわらず頭の中は歌うことでいっぱいで、
(みんなと一緒に歌いたい)
(こんなゆっくりじゃ、本番に間に合わない)
(先生に怒られるな……)
(私、なんで宙に浮いてるの?)
そう思いながら、私の全身は地面に強打し、意識をそのまま失った。
目が覚めると、目の前には見慣れない景色が広がっていた。白色をベースにした、たくさんの黒色の斑点模様がたくさんある。
耳をすますと、一定数何かが滴る音、息を吸えばアルコール消毒液の匂い、それと……なんだか頭の中が掻き回されているような、めまいと気持ち悪さを感じた。
「目、覚めた?」
「おか、あ、さ……ん」
顔を覗かせてきたお母さんに対して、余っている力を振り絞り、息を吐くのに合わせて返事した。
意識がだんだんとはっきりしてくる頃に医者が来て、私が車に轢かれて二日ほど意識が無かったことを説明された。
足の骨折以外には全身打撲だから一週間様子観察、その後は入院しながら、リハビリを一ヶ月程度行うということで、既に今後の治療計画が決まっていた。
春休み前の学校復帰は難しいし、頑張って復学できても数日程度、さらには合唱部のエース組がいなくなることだけは避けたいと、特別措置として、進級までは、レポート課題をこなして単位習得になることが既に決められていた。私には納得するための時間すら与えられず、半ば強いられる形で話が終わった。
数時間後、ふとベッドの横にある棚を横目で見つけると、あの日のバッグが血液と黒色の傷だらけになって、ジップロックに入れられた状態で置かれていた。
汚れが、目立って嫌だな……でも大事な楽譜が入っているから、捨てられても困る。
結局、事故に遭ってからは、顧問の先生以外、誰も面会に来なかった。お母さんからそう聞かされたとき、朋美は来てくれなかったんだ、と少し寂しい気持ちになった。
唯一の幼馴染で、ずっと、一緒に音楽をやってきた仲間でもある朋美が、どうして? 未成年だから? 年齢的に、来れなくはないはずなのに。
そう思いながら、私はその時の合唱部に何が起きていたかを何も知らないまま、リハビリを続け、春休み中に退院の日を迎えた。
* * *
私は、大好きな合唱曲のソロパートを軽やかに口ずさみながら、学校の昇降口で白色の上靴に履き替える。
歌い終わっても「やっと、やっと部活に復帰できる」と考えては、つい、にんまりと口角が上がって、うふふと目尻が下がり、はたからみたら気味が悪い人間に見えていてもおかしくないな、と我に返った。
歌える日が、あの事故の日を境に、二ヶ月近くも空いてしまったな、と心の奥に小さく穴があいている。
でも、何はともあれ、合唱部のエースとして、一人の部員として、またステージに立って歌いたい。
入院中はずっとそればかりを考えて、ベッドの上で楽譜を読みながら、退屈な毎日を過ごしていたから。
まだ少し、手足が痛む。けれど、卒業式翌日に行われる定期演奏会に間に合うならば、みんなと一緒に歌いたい。
自分だけ大会に出られなかったからか、今もぎゅっと、何かに首を掴まれたように感じる。……それを消したくもあって。
とにかく、みんなより一足遅れをとってしまっている。きっとそうに違いない。
だから、早く、みんなに追いつかなきゃ。
そうしないと、合唱部のエースとして、酷い赤っ恥をかくことになる。
それに、私がいないときっと――ソロパートを全て他のメンバーに譲らないといけなくなる。
それだけは絶対に、嫌。
退院後「部活に復帰したい」と顧問の先生に相談しに行ったとき、先生からすぐ許可をもらった。同時に「卒業式後からゴールデンウィークにかけて、定期演奏会と依頼演奏が多いから、無理せず頑張ろうな」と、肩をポンと優しく叩かれながら励まされた。
そのときのことが脳裏によぎり、" 本当に戻ってもいいのかな " と別の自分が呟いた気がして身震いした。
階段を昇りきり、校舎の最上階にある部室の目の前で深呼吸を二度した。右手でドアをそっと開けた途端、先にいた後輩部員たちが一斉に私を見つめてくる。
ああ、気まずい。
あれ、でも……待って、今ってコンクールとかはないはずじゃ……。
――いつもの、みんなじゃ、ない。
今までの――私が知っている、大会の時期以外はわりと穏やかなはずの――部室の空気とは思えず、体が固まって身動きが取れない。少しでも動けば、頭から首伝いに冷や汗が垂れていきそうな予感がした。
視界には、まるで大会本番を直前にしたような、冷たくギスギスした空気をまとう部員たちしかいない。
今出演が決まっているステージは、定期演奏会とかの楽しむことが一番になるようなステージだけ。先生もそう言っていたはずなのに。
後輩の一人は、私を見るなりサァーっと血が引いたような顔をして、青ざめていた。そして、手に持っていた楽譜を近くの机に置き、準備室の方へと駆け込んで行った。
私は不思議に思いながらもバッグを床に置き、みんなの方を向いて「おはよう!」と明るく挨拶した。
けれど、誰一人として返事をしてくれなかった。
「きっと、みんな私が復帰した姿に驚いているんだよね! そりゃそうか! もう二ヶ月も顔を合わせていなかったし」
「あぁ! もしかして、幽霊と思われてるとか? でも、両足は物理的に存在しているし――」
と、けらけらと乾いた笑いながら、私は自分の手で足を触って見せる。
「で、でもね! " エースの一人が不在 " って事態にさせてしまった期間は申し訳なかったと思ってて――」
私は視界に映るみんなとの目をうまく合わせられないまま、笑い続けた。自分ではもう何を言っているのか分からない。
口任せに話すほど、みんながお互いの顔を見合わせ、目配せしして、バツが悪そうな表情に変わっていく。
もうダメか。
きっと私は、何かやらかしてしまった。
でも、後戻りするには遅すぎるだろうな……。
私が諦めて、いつもの立ち位置に行こうとバッグに手を伸ばしかけたとき、準備室のドアが音を立てて勢いよく開く音が聞こえてきて、視線を飛ばした。
そこから、さっき入っていった後輩と他のエース組の三人――朋美、陸、那月――が出てくる。
朋美だけ私のもとへとまっすぐ歩いてきて、目の前に大きな壁のように立ちはだかった。
「朋美、あのっ――」
全てを言い終わる前に、朋美は片手で私の頬を強く叩いた。
私は、痛いと感じるよりも、状況を飲み込めずにいた。びくびくした気持ちに気づかれないよう、穏やかに口角を上げて微笑み返した。そうしたら、朋美の顔が鬼のように歪んで、今度はもう片方の頬を叩かれた。
じわじわと痛みを感じ始め、最後に叩かれた右頬を手で抑えて朋美を睨んだ。
午前七時すぎ。私は部室で一人、時計と楽譜の両方と睨めっこをしていた。
「ここの小節……」
右手の人差し指でなぞりながら、顧問に「命を吹き込むように」と散々言われてきた箇所を見て、ため息をついた。本番を想像している間に汗が滲んだ人差し指に、楽譜がべたりとはりついてくる。
他の箇所とは違って、蛍光ペンで真っ赤に何度も書き込んだから、本来の内容は塗りつぶされてしまった。
それでも"慣れ"とは恐ろしい。その箇所の音符と歌詞が、浮き上がって見え、語りかけてくるような気がする。
"微かな鼓動を、響かせろ " と。
顔を上げると、時計は既に、八時を指していた。心臓がどくんと打ってくる。
このままでは間に合わない――。
私は焦りをかき消すように、急いで楽譜をバッグに詰め込んで、部室から駈け出した。
会場に向かう途中、四回、交通量の多い交差点を渡らなければならないことを思い出した。
走っているのに、周りの景色がゆっくり流れているように見えて、足がもたつき、嫌な想像が脳内を駆け巡る。
時間が迫ってくる。急ぎ足をあざ笑うかのように、信号はこれでもかと赤色を私につきつけてくる。
雲行きが怪しくなってきた。
青空が広がっているのに、私の場所にだけ、しとしとと雨が降り始めている。
今年は、課題曲で降り止まない雨を、自由曲の太陽で大地を照らす――合唱部全員でそんな素敵な時間を、音楽を聴衆に届けようと懸命に練習してきた。
それを、他の誰でもない私が、壊してしまうかもしれない……。
最後の一つ前の横断歩道を、やっと渡ろうとした時、既に次の信号の点滅が始まっていた。
あと一つ、あの横断歩道を走れば絶対、間に合う。そう思って、私の両足は、さらにスピードを上げた。
その時だった。
ドンッ――――。
自動車のブレーキ音、鈍い音。全てが灰色へ、ゆっくり、静かに染まっていくみたいに見えた。
現実から逃げるように、それなのに、私の中はあいかわらず頭の中は歌うことでいっぱいで、
(みんなと一緒に歌いたい)
(こんなゆっくりじゃ、本番に間に合わない)
(先生に怒られるな……)
(私、なんで宙に浮いてるの?)
そう思いながら、私の全身は地面に強打し、意識をそのまま失った。
目が覚めると、目の前には見慣れない景色が広がっていた。白色をベースにした、たくさんの黒色の斑点模様がたくさんある。
耳をすますと、一定数何かが滴る音、息を吸えばアルコール消毒液の匂い、それと……なんだか頭の中が掻き回されているような、めまいと気持ち悪さを感じた。
「目、覚めた?」
「おか、あ、さ……ん」
顔を覗かせてきたお母さんに対して、余っている力を振り絞り、息を吐くのに合わせて返事した。
意識がだんだんとはっきりしてくる頃に医者が来て、私が車に轢かれて二日ほど意識が無かったことを説明された。
足の骨折以外には全身打撲だから一週間様子観察、その後は入院しながら、リハビリを一ヶ月程度行うということで、既に今後の治療計画が決まっていた。
春休み前の学校復帰は難しいし、頑張って復学できても数日程度、さらには合唱部のエース組がいなくなることだけは避けたいと、特別措置として、進級までは、レポート課題をこなして単位習得になることが既に決められていた。私には納得するための時間すら与えられず、半ば強いられる形で話が終わった。
数時間後、ふとベッドの横にある棚を横目で見つけると、あの日のバッグが血液と黒色の傷だらけになって、ジップロックに入れられた状態で置かれていた。
汚れが、目立って嫌だな……でも大事な楽譜が入っているから、捨てられても困る。
結局、事故に遭ってからは、顧問の先生以外、誰も面会に来なかった。お母さんからそう聞かされたとき、朋美は来てくれなかったんだ、と少し寂しい気持ちになった。
唯一の幼馴染で、ずっと、一緒に音楽をやってきた仲間でもある朋美が、どうして? 未成年だから? 年齢的に、来れなくはないはずなのに。
そう思いながら、私はその時の合唱部に何が起きていたかを何も知らないまま、リハビリを続け、春休み中に退院の日を迎えた。
* * *
私は、大好きな合唱曲のソロパートを軽やかに口ずさみながら、学校の昇降口で白色の上靴に履き替える。
歌い終わっても「やっと、やっと部活に復帰できる」と考えては、つい、にんまりと口角が上がって、うふふと目尻が下がり、はたからみたら気味が悪い人間に見えていてもおかしくないな、と我に返った。
歌える日が、あの事故の日を境に、二ヶ月近くも空いてしまったな、と心の奥に小さく穴があいている。
でも、何はともあれ、合唱部のエースとして、一人の部員として、またステージに立って歌いたい。
入院中はずっとそればかりを考えて、ベッドの上で楽譜を読みながら、退屈な毎日を過ごしていたから。
まだ少し、手足が痛む。けれど、卒業式翌日に行われる定期演奏会に間に合うならば、みんなと一緒に歌いたい。
自分だけ大会に出られなかったからか、今もぎゅっと、何かに首を掴まれたように感じる。……それを消したくもあって。
とにかく、みんなより一足遅れをとってしまっている。きっとそうに違いない。
だから、早く、みんなに追いつかなきゃ。
そうしないと、合唱部のエースとして、酷い赤っ恥をかくことになる。
それに、私がいないときっと――ソロパートを全て他のメンバーに譲らないといけなくなる。
それだけは絶対に、嫌。
退院後「部活に復帰したい」と顧問の先生に相談しに行ったとき、先生からすぐ許可をもらった。同時に「卒業式後からゴールデンウィークにかけて、定期演奏会と依頼演奏が多いから、無理せず頑張ろうな」と、肩をポンと優しく叩かれながら励まされた。
そのときのことが脳裏によぎり、" 本当に戻ってもいいのかな " と別の自分が呟いた気がして身震いした。
階段を昇りきり、校舎の最上階にある部室の目の前で深呼吸を二度した。右手でドアをそっと開けた途端、先にいた後輩部員たちが一斉に私を見つめてくる。
ああ、気まずい。
あれ、でも……待って、今ってコンクールとかはないはずじゃ……。
――いつもの、みんなじゃ、ない。
今までの――私が知っている、大会の時期以外はわりと穏やかなはずの――部室の空気とは思えず、体が固まって身動きが取れない。少しでも動けば、頭から首伝いに冷や汗が垂れていきそうな予感がした。
視界には、まるで大会本番を直前にしたような、冷たくギスギスした空気をまとう部員たちしかいない。
今出演が決まっているステージは、定期演奏会とかの楽しむことが一番になるようなステージだけ。先生もそう言っていたはずなのに。
後輩の一人は、私を見るなりサァーっと血が引いたような顔をして、青ざめていた。そして、手に持っていた楽譜を近くの机に置き、準備室の方へと駆け込んで行った。
私は不思議に思いながらもバッグを床に置き、みんなの方を向いて「おはよう!」と明るく挨拶した。
けれど、誰一人として返事をしてくれなかった。
「きっと、みんな私が復帰した姿に驚いているんだよね! そりゃそうか! もう二ヶ月も顔を合わせていなかったし」
「あぁ! もしかして、幽霊と思われてるとか? でも、両足は物理的に存在しているし――」
と、けらけらと乾いた笑いながら、私は自分の手で足を触って見せる。
「で、でもね! " エースの一人が不在 " って事態にさせてしまった期間は申し訳なかったと思ってて――」
私は視界に映るみんなとの目をうまく合わせられないまま、笑い続けた。自分ではもう何を言っているのか分からない。
口任せに話すほど、みんながお互いの顔を見合わせ、目配せしして、バツが悪そうな表情に変わっていく。
もうダメか。
きっと私は、何かやらかしてしまった。
でも、後戻りするには遅すぎるだろうな……。
私が諦めて、いつもの立ち位置に行こうとバッグに手を伸ばしかけたとき、準備室のドアが音を立てて勢いよく開く音が聞こえてきて、視線を飛ばした。
そこから、さっき入っていった後輩と他のエース組の三人――朋美、陸、那月――が出てくる。
朋美だけ私のもとへとまっすぐ歩いてきて、目の前に大きな壁のように立ちはだかった。
「朋美、あのっ――」
全てを言い終わる前に、朋美は片手で私の頬を強く叩いた。
私は、痛いと感じるよりも、状況を飲み込めずにいた。びくびくした気持ちに気づかれないよう、穏やかに口角を上げて微笑み返した。そうしたら、朋美の顔が鬼のように歪んで、今度はもう片方の頬を叩かれた。
じわじわと痛みを感じ始め、最後に叩かれた右頬を手で抑えて朋美を睨んだ。

