スマホの画面上部は、八時三十五分を表示している。
冬休み中などの長期期間中は、午前九時半から部活が始まる。終わるのは日によってまちまちだけれど、大会前を除くと、大体午前中で終わることが多かった。だから、きっと今日も正午くらいには終わるはず。
電車に乗ってすぐ、景色が入り乱れる窓の向こうを見つめた。
昨日のこと、みんなに何と言って謝るべきか、頭の中で、何度もシミュレーションを重ねる。けれど、思いつくのはどれも言い訳や嘘としか思われないような言葉ばかり。
" 審査員席の後ろにいた、全身黒い服の姿の人が不気味に笑ってて、それに気を取られて、歌い忘れました。 " なんてこと、口が裂けても言えない。……いや、むしろ、素直に吐き出したほうがいいのか。
私の目で見たことをそのまま伝えること。それのどこが、何が、言い訳なんだろうと、ぐるぐる悩んでしまう。
私は、時間が戻る前、部活に復帰したあの日の部室でのことが脳裏によぎり、反射的に目を閉じた。
部員たちの冷ややかな目、声、空気、それらすべてが、また繰り返されるんじゃないかと不安になる。
昨日の反省会の時点で、今あるこの不安の半分は答えを出しているも同然だった。
どうか、どうか――。
どうか、歌うことが好きで、穏やかで楽しいと感じられる空間に戻っていますように。
そう願いながら、電車を降りて駅を出て、学校へと急いだ。
* * *
昇降口で上履きに履き替え、最上階まで昇ると、廊下の奥、行きどまりに部室が見えた。
心のざわつきをかき消すように、半ば走り気味で早歩きをしたせいか、酸欠に近い状態でここまで来てしまった。
乱れる息を整えようと、壁に手を伸ばと、この季節らしく、ひんやりとした冷たさだけが伝わってくる。背中を微量の電流が走ったような気がした。
そうだ、この不安はきっと――寒いせいだ。
ドクンと拍動が後頭部を何度も打つ。
今にも口から飛び出てしまいそうな心臓に右手を当てて、そっと強く言い聞かせた。
大丈夫、きっと、うまくやれる。
部室に近づくにつれ、私は口角を上げて、笑顔を作って、明るさを必死に取り繕った。
大会のこと、この明るさで謝ればなんとかなるだろうと思いたい一心で、ドアを横に引いた。
「おはようございます!」
私は、部室全体に聞こえるように、大きな声で挨拶した。
「昨日のこと、ごめんなさい! 実は――」
バチンッ――その音と共に、朋美に襟元を強く引っ張られた。
「あんたが……あんたが……」
朋美から向けられる怒りに満ちた眼差しと、発せられた言葉に、記憶の蓋をこじ開けられた。
大会で勝ったのに、金賞を獲れたのに、どうして。
頬の痛みよりも、頭の中であふれる疑問符のほうが、何倍も、何十倍も気持ち悪くて吐きそうになる。
同じだ。
那月が朋美に駆け寄って背中をさするところも、陸がため息を何度もついて呆れて不満を告げてくるところも。それだけじゃない、ほぼ全て、繰り返されている。ちゃんと" あのとき "、願ったはずなのに……。
朋美は楽譜を持って部室から出て行き、部室には私一人が残された。
やっと、気がついた。
変わっていたのは、変わってしまったのは――――。
この場所で膝から崩れ落ちることも、涙があふれて止まらないことも、一切ない、私のほうだった。
部室に入るまで、ほんの数十分前までは、あんなにざわざわしたものでいっぱいになっていたはずなのに。
まるで、自分が大きな空洞の中心にいるようで。
窓の向こう側から、グラウンドで練習している運動部のかけ声だけが聞こえてくる。
とにかく全体の合わせ練習までは、なんとか頑張らないと。
ゆらゆらと揺れている気持ちを落ち着かせようと、自分に何度も言い聞かせた。
大会には出れた、ダメ金とはいえ、金賞も獲れた。……本来は、それだけで十分じゃないか。十分じゃないのか。
代理申請はルールで認められたもので、不正じゃない。
正しいことしかしていない。
何に怯える必要があるんだろう、私は、何を怖がっているんだろう。
深く考えているうちに、不純物がたくさん混ざった濁流にかんたんに飲み込まれて破片が刺さり、溺れてしまいそうになる。
綺麗な空気を吸おうと、水面に向かって一生懸命に手を伸ばした。でも、なかなか水面の向こうまで手が届かない。
まだ大丈夫……。
大丈夫、まだ大丈夫。これぐらいなら耐えられる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
おまじないのほうが、まだ有効な気がしてくる。
けれど、今の私には「大丈夫」以外の言葉は効力をなさない。だから、楽譜を両手で胸に抱え、必死にそれだけを唱えた。
私も、自分が属するアルトパートの練習に参加するため、既に練習を始めている空き教室に入った。
「夕夏先輩」
一人の後輩が私を見るなり名前を呼び、しまった、と口を小さく開けたまま俯いた。
「ダメだよ、『話しかけるな』って朋美先輩に言われたばっかじゃん」
「馬鹿! 聞こえちゃうって」
また小声で何かを言われている。
あからさまに顔の下半分を楽譜で隠して、ひそひそと話している。肘で互いの脇腹をつついて、私がこの場にいること自体、彼らにとっては都合が悪いことみたいだった。
無駄に私の聴力が優れているせいで、たった二、三センチメートルほどのこの距離では、小声で話されても全て丸聞こえで。
けれども、彼らはおそらく、それどころではないんだろう。
「朋美に何か、" 指示 "されたの?」
私はあえて、彼らが答えやすいように、「指示」だけ語気を強めてたずねた。
嫌味たらしい先輩だと思われているんだろうな、こんな風にしか聞けないから。まあ、でも、反省会のときも後ろでこそこそと話していた子達だから、お互い様か。
私は笑顔のまま、心の中では、鼻で笑った。
音取り――パートの旋律を覚えるため――をする担当部員が、鍵盤に手を置いたままこちらを真っ直ぐ見つめてきて、ついに口を開いた。
「夕夏先輩とは話すなと……" 指示 "されました」
それだけです、と言われて壁をつくられた
返ってきた言葉からは、呆れを通り越して、もはや清々しさまで感じられた。
後輩の誰か一人でも、私の味方をしようとか、思わないんだ……。
お腹の底から、堪えきれない笑いが込み上げてくる。
「あはははははははは」
不安が爆発して、それを悟られないようにするための笑いが弾ける。後輩達の引けた目が、青ざめた顔が、私の視界に入ってくる。
ねぇ、あなた達も笑いなよ。そうすれば、楽しい雰囲気に変えられるんじゃない? なんでそうやって不安げだったり、血の気の引いた顔で震えているの? なんで――――。
ひととおり笑いきったら、込み上げてくるような笑いがやっと冷めた。でも、体温だけは、笑いすぎたせいで、再び上がり始めている。
冷え始めた頭とは反対に、血の巡りを感じる手足を動かして、パートの自分の定位置に立った。
周囲との温度差が、妙に心地良くて、こんな人達なんかもうどうでもいいと、投げやりな気持ちだけ残る。
次の本番は、三月末の定期演奏会。吹奏楽部と箏曲部と三部合同、二日間に分けて行われる、集大成のイベントが待っている。これ以上、小言をいちいち聞いたり、無暗に笑ったりしている場合じゃない。そんな無駄なことをしている時間はない。
私は――時間が戻る前の私は、出られなかった。一曲も練習することなく、責任を取るために退部したから。それが今の私なら、出られる、はず。
また一つ、不安が芽生える。
これからどうなるか、の予測ができない。大会は、ある種の偶然が重なって、なんとか乗り越えたけれど……。
定期演奏会は、高一以来――あの時のような感じ、と思えば、また、なんとかなるだろうか。
曲目はまだ分からない。けれど、まぁ、なんとかなるよね、きっと、大丈夫……。
大丈夫。
その言葉を、また自分に唱えて言い聞かせた。
「じゃ、じゃあ始めます。まず、一曲目通して確認します」
後輩が白鍵を一度弾いて、全員で冒頭一拍分の酸素を鼻からすぅっと吸った。
冬休み中などの長期期間中は、午前九時半から部活が始まる。終わるのは日によってまちまちだけれど、大会前を除くと、大体午前中で終わることが多かった。だから、きっと今日も正午くらいには終わるはず。
電車に乗ってすぐ、景色が入り乱れる窓の向こうを見つめた。
昨日のこと、みんなに何と言って謝るべきか、頭の中で、何度もシミュレーションを重ねる。けれど、思いつくのはどれも言い訳や嘘としか思われないような言葉ばかり。
" 審査員席の後ろにいた、全身黒い服の姿の人が不気味に笑ってて、それに気を取られて、歌い忘れました。 " なんてこと、口が裂けても言えない。……いや、むしろ、素直に吐き出したほうがいいのか。
私の目で見たことをそのまま伝えること。それのどこが、何が、言い訳なんだろうと、ぐるぐる悩んでしまう。
私は、時間が戻る前、部活に復帰したあの日の部室でのことが脳裏によぎり、反射的に目を閉じた。
部員たちの冷ややかな目、声、空気、それらすべてが、また繰り返されるんじゃないかと不安になる。
昨日の反省会の時点で、今あるこの不安の半分は答えを出しているも同然だった。
どうか、どうか――。
どうか、歌うことが好きで、穏やかで楽しいと感じられる空間に戻っていますように。
そう願いながら、電車を降りて駅を出て、学校へと急いだ。
* * *
昇降口で上履きに履き替え、最上階まで昇ると、廊下の奥、行きどまりに部室が見えた。
心のざわつきをかき消すように、半ば走り気味で早歩きをしたせいか、酸欠に近い状態でここまで来てしまった。
乱れる息を整えようと、壁に手を伸ばと、この季節らしく、ひんやりとした冷たさだけが伝わってくる。背中を微量の電流が走ったような気がした。
そうだ、この不安はきっと――寒いせいだ。
ドクンと拍動が後頭部を何度も打つ。
今にも口から飛び出てしまいそうな心臓に右手を当てて、そっと強く言い聞かせた。
大丈夫、きっと、うまくやれる。
部室に近づくにつれ、私は口角を上げて、笑顔を作って、明るさを必死に取り繕った。
大会のこと、この明るさで謝ればなんとかなるだろうと思いたい一心で、ドアを横に引いた。
「おはようございます!」
私は、部室全体に聞こえるように、大きな声で挨拶した。
「昨日のこと、ごめんなさい! 実は――」
バチンッ――その音と共に、朋美に襟元を強く引っ張られた。
「あんたが……あんたが……」
朋美から向けられる怒りに満ちた眼差しと、発せられた言葉に、記憶の蓋をこじ開けられた。
大会で勝ったのに、金賞を獲れたのに、どうして。
頬の痛みよりも、頭の中であふれる疑問符のほうが、何倍も、何十倍も気持ち悪くて吐きそうになる。
同じだ。
那月が朋美に駆け寄って背中をさするところも、陸がため息を何度もついて呆れて不満を告げてくるところも。それだけじゃない、ほぼ全て、繰り返されている。ちゃんと" あのとき "、願ったはずなのに……。
朋美は楽譜を持って部室から出て行き、部室には私一人が残された。
やっと、気がついた。
変わっていたのは、変わってしまったのは――――。
この場所で膝から崩れ落ちることも、涙があふれて止まらないことも、一切ない、私のほうだった。
部室に入るまで、ほんの数十分前までは、あんなにざわざわしたものでいっぱいになっていたはずなのに。
まるで、自分が大きな空洞の中心にいるようで。
窓の向こう側から、グラウンドで練習している運動部のかけ声だけが聞こえてくる。
とにかく全体の合わせ練習までは、なんとか頑張らないと。
ゆらゆらと揺れている気持ちを落ち着かせようと、自分に何度も言い聞かせた。
大会には出れた、ダメ金とはいえ、金賞も獲れた。……本来は、それだけで十分じゃないか。十分じゃないのか。
代理申請はルールで認められたもので、不正じゃない。
正しいことしかしていない。
何に怯える必要があるんだろう、私は、何を怖がっているんだろう。
深く考えているうちに、不純物がたくさん混ざった濁流にかんたんに飲み込まれて破片が刺さり、溺れてしまいそうになる。
綺麗な空気を吸おうと、水面に向かって一生懸命に手を伸ばした。でも、なかなか水面の向こうまで手が届かない。
まだ大丈夫……。
大丈夫、まだ大丈夫。これぐらいなら耐えられる。
大丈夫、大丈夫、大丈夫……。
おまじないのほうが、まだ有効な気がしてくる。
けれど、今の私には「大丈夫」以外の言葉は効力をなさない。だから、楽譜を両手で胸に抱え、必死にそれだけを唱えた。
私も、自分が属するアルトパートの練習に参加するため、既に練習を始めている空き教室に入った。
「夕夏先輩」
一人の後輩が私を見るなり名前を呼び、しまった、と口を小さく開けたまま俯いた。
「ダメだよ、『話しかけるな』って朋美先輩に言われたばっかじゃん」
「馬鹿! 聞こえちゃうって」
また小声で何かを言われている。
あからさまに顔の下半分を楽譜で隠して、ひそひそと話している。肘で互いの脇腹をつついて、私がこの場にいること自体、彼らにとっては都合が悪いことみたいだった。
無駄に私の聴力が優れているせいで、たった二、三センチメートルほどのこの距離では、小声で話されても全て丸聞こえで。
けれども、彼らはおそらく、それどころではないんだろう。
「朋美に何か、" 指示 "されたの?」
私はあえて、彼らが答えやすいように、「指示」だけ語気を強めてたずねた。
嫌味たらしい先輩だと思われているんだろうな、こんな風にしか聞けないから。まあ、でも、反省会のときも後ろでこそこそと話していた子達だから、お互い様か。
私は笑顔のまま、心の中では、鼻で笑った。
音取り――パートの旋律を覚えるため――をする担当部員が、鍵盤に手を置いたままこちらを真っ直ぐ見つめてきて、ついに口を開いた。
「夕夏先輩とは話すなと……" 指示 "されました」
それだけです、と言われて壁をつくられた
返ってきた言葉からは、呆れを通り越して、もはや清々しさまで感じられた。
後輩の誰か一人でも、私の味方をしようとか、思わないんだ……。
お腹の底から、堪えきれない笑いが込み上げてくる。
「あはははははははは」
不安が爆発して、それを悟られないようにするための笑いが弾ける。後輩達の引けた目が、青ざめた顔が、私の視界に入ってくる。
ねぇ、あなた達も笑いなよ。そうすれば、楽しい雰囲気に変えられるんじゃない? なんでそうやって不安げだったり、血の気の引いた顔で震えているの? なんで――――。
ひととおり笑いきったら、込み上げてくるような笑いがやっと冷めた。でも、体温だけは、笑いすぎたせいで、再び上がり始めている。
冷え始めた頭とは反対に、血の巡りを感じる手足を動かして、パートの自分の定位置に立った。
周囲との温度差が、妙に心地良くて、こんな人達なんかもうどうでもいいと、投げやりな気持ちだけ残る。
次の本番は、三月末の定期演奏会。吹奏楽部と箏曲部と三部合同、二日間に分けて行われる、集大成のイベントが待っている。これ以上、小言をいちいち聞いたり、無暗に笑ったりしている場合じゃない。そんな無駄なことをしている時間はない。
私は――時間が戻る前の私は、出られなかった。一曲も練習することなく、責任を取るために退部したから。それが今の私なら、出られる、はず。
また一つ、不安が芽生える。
これからどうなるか、の予測ができない。大会は、ある種の偶然が重なって、なんとか乗り越えたけれど……。
定期演奏会は、高一以来――あの時のような感じ、と思えば、また、なんとかなるだろうか。
曲目はまだ分からない。けれど、まぁ、なんとかなるよね、きっと、大丈夫……。
大丈夫。
その言葉を、また自分に唱えて言い聞かせた。
「じゃ、じゃあ始めます。まず、一曲目通して確認します」
後輩が白鍵を一度弾いて、全員で冒頭一拍分の酸素を鼻からすぅっと吸った。

