スズムシの音を聞きながら、私と祈春さんは揃って縁側に腰かける。
夏といえど山を吹き抜ける夜風は涼しくて、お風呂上りで汗ばんでいた祈春さんも、今ではすっかり汗がひいてスベスベ肌だ。「居間に転がっていた」と持って来たうちわも、今では彼の手に目的なく握られているだけである。
「僕が思い出屋さんと会ったのはね、忘れもしない。どうしようもなく悲しみに暮れた日だった」
なんの前触れもなく祈春さんは話し始めた。いつもの彼とは違う、淡々とした声色だった。
「一人になって孤独で、生きている意味が分からなくなっちゃったんだ。身重の妻が病気で亡くなってしまったから」
「え……」
思っても見ない事実に息を呑む。
いつもにこやかな祈春さんに、そんな過去があったなんて。
祈春さんは少しの間地面を見ていたが、スッと空を見上げる。さすが星浮き町という名前がついているだけあって、夜空一面には「滅多に見ることの出来ない無数の星たち」が、チカチカと聞こえそうなほど強く瞬いている。
「最愛の妻はお腹の子供と共に、一足早くあの世に行ってしまった。これといった薬もなくてね、呆気なかったよ。心の準備ができないままだったから、妻が亡くなった後の『一人きりの家』が耐えられなかった」
「だから抜け出したんだ。子供が家出するみたいに」と言い、祈春さんはうちわを揺らした。たいして暑くもないのに。当時の気持ちを思い出すと、何かせずにはいられなかったのだろう。その日、祈春さんが思わず家を飛び出してしまったように。
「思い出屋さんに会ったのは、その時だよ。僕が死んでしまうと思ったのだろう。『ちょっとそこで待っていて』と、優しく声をかけてくれた。当時の思い出屋さんの店主も男性だった。思い出屋さんが代々受け継がれてきたのであれば、君のご先祖さまにああたる人だね」
「ずっと昔の、私のおじいちゃん……」
顔も名前も知らない私のおじいちゃんと、祈春さんは会ったことがある――そう思うと不思議な感じがした。思い出屋さんを通じて、私と祈春さんが繋がっている気がした。
だけど落ち込む祈春さんを呼び止めて、おじいちゃんは何をしようとしたのだろう。
「店主は二本の団子を持って来てくれた。今でも覚えている。串にささった白い団子だよ。そんな高級なお菓子を、見ず知らずの僕にくれたんだ」
「お団子、明治時代は高級だったんですか?」
「高級だよ。少なくとも僕にとってはね。もっとも、団子を買うお金があるのなら、目利きの良い医者に妻を診てもらっただろうけど。……って、ダメだね。すぐにこんなことを考えてしまう」
そう言って祈春さんは、下げていた顔をもう一度上げた。大きな瞳には、今や満点の星空が反射して写っている。
「もちろん僕は食欲なんて湧かなかったからさ。いらない、って突っぱねたんだ。だけど店主が強情で『食わないならその辺の犬にやる』なんて言うから、慌てて団子を受け取ったんだよ」
「えぇ……」
昔のおじいちゃんは、なかなか気が強かったのかもしれない。この家に住んでいたおじいちゃんは、寡黙だったけど優しかったから、想像がつかないな。
「でも無理やりにでも団子を食べて良かったよ」と。甘い味を思い出したのか、祈春さんの口がへらりと緩む。
「美味しかったんだ、泣けるほどに。
もう死んでもいいなんて思っていたのに、団子を食べて『美味しい』と思うなんてさ。僕はなんて奴だと思ったよ。こんな時でも食欲があって、さらには『美味しい』とまで思ってしまって……。薄情な奴だよね」
「……」
薄情、なのだろうか。私はそうは思わなかった。もちろん祈春さんに団子を渡したおじいちゃんの行動を間違っているとも思わない。隣にいる彼が生きてくれて良かったと、ただそう思った。
「上手くは言えないですけど……。『美味しい』って思ったってことは、その時の祈春さんの心は喜んだってことじゃないですか? あの日の祈春さんには、きっと必要なお団子だったんですよ」
死んだ人の後を追わない人を「薄情だ」なんて、きっと彼の奥さんもお子さんも思わない。だから思い詰めないでほしかった。
祈春さんは「うん」と返事した。僅かに声が震えた気がして、ちらりと彼を盗み見る。その瞳に浮かぶ満点の星はゆらりと揺れ……見ると、大粒の涙が幕を張っていた。
「店主も同じことを言った。団子を食べて良かったんだ、と。色々経験できなかった妻と子のために、代わりに僕が経験しろと。そうしてあの世で再会した時に、思い出話を聞かせてやれと言ってくれた。僕が『もう少し生きてみよう』と思えたのは、その時だ。
この世に一人残されて絶望に暮れていた。僕は自分のことを『ただ死を待つだけの生ける屍』くらいに思っていたんだよ。でも店主と話して、それは違うと分かった。僕には目的があったんだ」
自分自身で噛み締めるように「ちゃんとあったんだよ」と、祈春さんは言葉を反復する。
「僕はね、思い出を集めている。
いつか妻と子に聞かせてやるための、楽しい思い出をね」
彼が目を細めた時、流れ星がスッと頬を滑った。祈春さんの瞳から一つだけ零れたのだ。きらりと光る、美しい星が。ポケットに入っていたハンカチを差し出すと「ありがとう」と、祈春さんは笑みを浮かべる。
「その時の僕は、思い出屋さんの存在を知らなかった。だけど別れ際に『悲しくなったらまた来い』と言ってくれた。それがきっかけで店に通うようになったんだ。
いくら『生きよう』と決意しても、情けないことに悲しい時は多々あってね。店主には、何度もお世話になったよ」
そうして顔からハンカチを離し、また星空を見上げる。祈春さんの「星空を見上げる」行為は、これでもう何度目かになる。どこか縋りつくようなその眼差しは、ただ星を見ているだけには思えない。
「祈春さんが星空を見ることには、その……」
何か意味があるんですか? ――とは単刀直入には聞けなかった。おじいちゃんのように物事をハッキリ言うには勇気がいる。相手を傷つけるかもしれない、と不安になるからだ。
私は「おじいちゃんみたいに思い出屋さんをしていた」わけじゃないから、悲しむ人を慰める方法を知らない。ズカズカ相手の心に踏み込んで、悲しませるだけ悲しませておいて、そのまま――なんてことはしたくなかった。
……なんて。いかにも殊勝なことを言っているように聞こえるが、その実はきっと逃げているだけなのだ。母に「行きたい大学が見つからない」「勉強する意味がわからない」と言えないのと同じ。やっぱり私には根っから勇気がない。
モゴモゴと口ごもる私に対して、祈春さんは寛容だった。「星空は、僕にとってお守りなんだよ」と話してくれる。
「お守り?」
「そう。僕が住んでいた町もね、こんな風に、幾千もの星が浮いていた。妻と二人して『あの星が僕で、こっちの星が私で』なんて言い合った。星と星を繋げて、物に例えた時もあった。ひらがなも、そうだな。子供の名前も、そうやって冗談交じりに考えていたんだよ」
「何ていう……?」
聞いちゃダメかな?と思いつつ、勇気を出して聞いてみる(といっても、やはり全てを言葉にすることはできなかったけど)。すると祈春さんは、意外にも嬉しそうに頷いた。
「あや、って名前にしようと思っていたんだ。男の子なら『あやふみ』、女の子なら『あやこ』。どうかな?」
「ステキな名前ですね。……きっとお腹の中で、赤ちゃんも聞いていただろうな」
祈春さんは「そうかな」と、持っていたハンカチにシワが寄るほど力をこめる。背後から当たる部屋の光により見えた彼の顔には、「そうであってほしい」という希望が映っていた。
スズムシが、夜の町を少しだけ賑やかにする。どことなく優しく聞こえる鳴き声は、不思議と焚火のように、心にじんわり温もりを与えてくれる。
そういえば布団を敷く前、祈春さんは不思議なことを言った。
――夏は虫が騒がしくていい。『なき声』をかき消してくれるし、蘇らせてくれるから
あの「なき声」はどういう意味だろうと不思議だった。今思うと、二つの意味が込められている気がする。
二人で星を見上げた時。今のように虫も鳴いていただろう。だから虫の声を聞くと思い出すのだ。自分と楽しく話した、奥さんの「亡き声」を。
そうして思い出した祈春さんは、悲しくて泣いてしまう。だけど虫の声がかき消してくれるのだ。祈春さんの「泣き声」を。
きっと彼は、この二つの意味を掛けていたのだろう。悲しいほどにリンクする言葉に、胸が締め付けられる思いがした。
居間で掘りごたつに座る時、おばあちゃんは自分の隣の席を必ず開ける。もうおじいちゃんはいないのに、どうして?って思ったけど……。大切な人がいる時と同じ行動をとると、自然と思い出すからだろう。大切な人と過ごした何気ない、だけども何事にも変え難い、幸せだった日常を。
「店主が教えてくれた。『悲しい時は記憶を辿ればいい』と。僕の場合は、それが星空なんだ。僕にとっての『お守り』だ。夜になって星空を見ると、少しだけ自分が強くなれた気がするんだよ」
照れたように頭をかいた後、祈春さんは笑った。暗闇の中に、白い歯がぽっかりと浮かんでいる。
星空は、祈春さんにとってのお守り。……そうか。だから彼は、何度も天を仰いだんだ。
「だけど、このお守りは少し大きすぎるかな。僕の手に収まりきらないよ」
「……」
夜空を見つめながら、祈春さんは困ったように笑った。その笑顔を見て、私はポケットに入れていたスマホに手を伸ばす。写真を撮ろうと思ったんだ。星空の写真を。だって寂しくなる時は、何も夜だけじゃないから。
朝起きた時にふと寂しさを感じる時もあれば、お昼ご飯を食べてる時に急に味がしなくなることもある。寂しさの波というのは、いつ満ちていつ引くのか。その法則性は誰にも分からない。
だからこそ四六時中身につけられる「お守り」があれば、祈春さんはもっと強くなれるだろうと思った。いつでもどんな時でも、星空を見ることができれば、きっと――
私はスマホを空へ向ける。レンズ越しに見える景色は、どこまでも続く広い空。その中に散りばめられた、希望のように灯る星たち。……だけど小さい。肉眼で見れば宝石のようにきれいな星たちは、レンズに収めると小さすぎて闇も同然だ。
「何してるの?」
「おじいちゃんの真似事を……。だけど失敗です」
思い出屋さんの店主だったおじいちゃんは、いつどんな時も、最後には祈春さんを笑顔にしたのだろう。私の目の前にいる彼が何度も朗らかに笑っているのは、おじいちゃんのおかげなのだ。
だから、ちょっとだけ思ってしまった。ひょっとしたら私にも祈春さんを笑顔にすることができるんじゃないかって。思い出屋さんをしたおじいちゃんたちの血を継ぐ私ならばって。
だけど失敗してしまった。稚拙な考えを抱いたことに恥ずかしくなって、カッと全身が熱くなる。私には、何の力もなかった。
その後、祈春さんは自分がいた時代のことを話してくれた。奥さんは「小夜さん」という名前であること、そそっかしい祈春さんに対してしっかりした人だということ。ご飯中、頬についた米をよくとってくれたこと。
そうして思い出屋さんについても、彼は教えてくれた。
「思い出屋さんに入って行く人は、みんな心に傷を負った人たちだ。そんな人たちが思い出屋さんで店主と話して笑顔を取り戻す。何気ない時間だが、僕たちにとっては必要な時間だ。だから金を出してでも買う。そうして笑顔で店を出るんだよ」
つまりなくなってはいけないものなんだ――と。そう言った時、彼の瞳が私を映した。次に見たのは、私が自身の隣に置いた、思い出屋さんの出納長。
そんな彼の視線の意味に気づいた私は、ポケットに戻したスマホを服の上からキュッと握る。星空を撮ろうとして失敗した過去を思い出してしまったのだ。
人の心を癒すどころか、寄り添うことさえこんなに難しいとは。きっと私には、思い出屋さんの素質はない。
だけど勇気のない私は「思い出屋さんをやりません」ともきっぱり言えなくて。どっちの態度も示せないまま暗闇へ逃げるように、彼の視線に気づかないふりをした。
夏といえど山を吹き抜ける夜風は涼しくて、お風呂上りで汗ばんでいた祈春さんも、今ではすっかり汗がひいてスベスベ肌だ。「居間に転がっていた」と持って来たうちわも、今では彼の手に目的なく握られているだけである。
「僕が思い出屋さんと会ったのはね、忘れもしない。どうしようもなく悲しみに暮れた日だった」
なんの前触れもなく祈春さんは話し始めた。いつもの彼とは違う、淡々とした声色だった。
「一人になって孤独で、生きている意味が分からなくなっちゃったんだ。身重の妻が病気で亡くなってしまったから」
「え……」
思っても見ない事実に息を呑む。
いつもにこやかな祈春さんに、そんな過去があったなんて。
祈春さんは少しの間地面を見ていたが、スッと空を見上げる。さすが星浮き町という名前がついているだけあって、夜空一面には「滅多に見ることの出来ない無数の星たち」が、チカチカと聞こえそうなほど強く瞬いている。
「最愛の妻はお腹の子供と共に、一足早くあの世に行ってしまった。これといった薬もなくてね、呆気なかったよ。心の準備ができないままだったから、妻が亡くなった後の『一人きりの家』が耐えられなかった」
「だから抜け出したんだ。子供が家出するみたいに」と言い、祈春さんはうちわを揺らした。たいして暑くもないのに。当時の気持ちを思い出すと、何かせずにはいられなかったのだろう。その日、祈春さんが思わず家を飛び出してしまったように。
「思い出屋さんに会ったのは、その時だよ。僕が死んでしまうと思ったのだろう。『ちょっとそこで待っていて』と、優しく声をかけてくれた。当時の思い出屋さんの店主も男性だった。思い出屋さんが代々受け継がれてきたのであれば、君のご先祖さまにああたる人だね」
「ずっと昔の、私のおじいちゃん……」
顔も名前も知らない私のおじいちゃんと、祈春さんは会ったことがある――そう思うと不思議な感じがした。思い出屋さんを通じて、私と祈春さんが繋がっている気がした。
だけど落ち込む祈春さんを呼び止めて、おじいちゃんは何をしようとしたのだろう。
「店主は二本の団子を持って来てくれた。今でも覚えている。串にささった白い団子だよ。そんな高級なお菓子を、見ず知らずの僕にくれたんだ」
「お団子、明治時代は高級だったんですか?」
「高級だよ。少なくとも僕にとってはね。もっとも、団子を買うお金があるのなら、目利きの良い医者に妻を診てもらっただろうけど。……って、ダメだね。すぐにこんなことを考えてしまう」
そう言って祈春さんは、下げていた顔をもう一度上げた。大きな瞳には、今や満点の星空が反射して写っている。
「もちろん僕は食欲なんて湧かなかったからさ。いらない、って突っぱねたんだ。だけど店主が強情で『食わないならその辺の犬にやる』なんて言うから、慌てて団子を受け取ったんだよ」
「えぇ……」
昔のおじいちゃんは、なかなか気が強かったのかもしれない。この家に住んでいたおじいちゃんは、寡黙だったけど優しかったから、想像がつかないな。
「でも無理やりにでも団子を食べて良かったよ」と。甘い味を思い出したのか、祈春さんの口がへらりと緩む。
「美味しかったんだ、泣けるほどに。
もう死んでもいいなんて思っていたのに、団子を食べて『美味しい』と思うなんてさ。僕はなんて奴だと思ったよ。こんな時でも食欲があって、さらには『美味しい』とまで思ってしまって……。薄情な奴だよね」
「……」
薄情、なのだろうか。私はそうは思わなかった。もちろん祈春さんに団子を渡したおじいちゃんの行動を間違っているとも思わない。隣にいる彼が生きてくれて良かったと、ただそう思った。
「上手くは言えないですけど……。『美味しい』って思ったってことは、その時の祈春さんの心は喜んだってことじゃないですか? あの日の祈春さんには、きっと必要なお団子だったんですよ」
死んだ人の後を追わない人を「薄情だ」なんて、きっと彼の奥さんもお子さんも思わない。だから思い詰めないでほしかった。
祈春さんは「うん」と返事した。僅かに声が震えた気がして、ちらりと彼を盗み見る。その瞳に浮かぶ満点の星はゆらりと揺れ……見ると、大粒の涙が幕を張っていた。
「店主も同じことを言った。団子を食べて良かったんだ、と。色々経験できなかった妻と子のために、代わりに僕が経験しろと。そうしてあの世で再会した時に、思い出話を聞かせてやれと言ってくれた。僕が『もう少し生きてみよう』と思えたのは、その時だ。
この世に一人残されて絶望に暮れていた。僕は自分のことを『ただ死を待つだけの生ける屍』くらいに思っていたんだよ。でも店主と話して、それは違うと分かった。僕には目的があったんだ」
自分自身で噛み締めるように「ちゃんとあったんだよ」と、祈春さんは言葉を反復する。
「僕はね、思い出を集めている。
いつか妻と子に聞かせてやるための、楽しい思い出をね」
彼が目を細めた時、流れ星がスッと頬を滑った。祈春さんの瞳から一つだけ零れたのだ。きらりと光る、美しい星が。ポケットに入っていたハンカチを差し出すと「ありがとう」と、祈春さんは笑みを浮かべる。
「その時の僕は、思い出屋さんの存在を知らなかった。だけど別れ際に『悲しくなったらまた来い』と言ってくれた。それがきっかけで店に通うようになったんだ。
いくら『生きよう』と決意しても、情けないことに悲しい時は多々あってね。店主には、何度もお世話になったよ」
そうして顔からハンカチを離し、また星空を見上げる。祈春さんの「星空を見上げる」行為は、これでもう何度目かになる。どこか縋りつくようなその眼差しは、ただ星を見ているだけには思えない。
「祈春さんが星空を見ることには、その……」
何か意味があるんですか? ――とは単刀直入には聞けなかった。おじいちゃんのように物事をハッキリ言うには勇気がいる。相手を傷つけるかもしれない、と不安になるからだ。
私は「おじいちゃんみたいに思い出屋さんをしていた」わけじゃないから、悲しむ人を慰める方法を知らない。ズカズカ相手の心に踏み込んで、悲しませるだけ悲しませておいて、そのまま――なんてことはしたくなかった。
……なんて。いかにも殊勝なことを言っているように聞こえるが、その実はきっと逃げているだけなのだ。母に「行きたい大学が見つからない」「勉強する意味がわからない」と言えないのと同じ。やっぱり私には根っから勇気がない。
モゴモゴと口ごもる私に対して、祈春さんは寛容だった。「星空は、僕にとってお守りなんだよ」と話してくれる。
「お守り?」
「そう。僕が住んでいた町もね、こんな風に、幾千もの星が浮いていた。妻と二人して『あの星が僕で、こっちの星が私で』なんて言い合った。星と星を繋げて、物に例えた時もあった。ひらがなも、そうだな。子供の名前も、そうやって冗談交じりに考えていたんだよ」
「何ていう……?」
聞いちゃダメかな?と思いつつ、勇気を出して聞いてみる(といっても、やはり全てを言葉にすることはできなかったけど)。すると祈春さんは、意外にも嬉しそうに頷いた。
「あや、って名前にしようと思っていたんだ。男の子なら『あやふみ』、女の子なら『あやこ』。どうかな?」
「ステキな名前ですね。……きっとお腹の中で、赤ちゃんも聞いていただろうな」
祈春さんは「そうかな」と、持っていたハンカチにシワが寄るほど力をこめる。背後から当たる部屋の光により見えた彼の顔には、「そうであってほしい」という希望が映っていた。
スズムシが、夜の町を少しだけ賑やかにする。どことなく優しく聞こえる鳴き声は、不思議と焚火のように、心にじんわり温もりを与えてくれる。
そういえば布団を敷く前、祈春さんは不思議なことを言った。
――夏は虫が騒がしくていい。『なき声』をかき消してくれるし、蘇らせてくれるから
あの「なき声」はどういう意味だろうと不思議だった。今思うと、二つの意味が込められている気がする。
二人で星を見上げた時。今のように虫も鳴いていただろう。だから虫の声を聞くと思い出すのだ。自分と楽しく話した、奥さんの「亡き声」を。
そうして思い出した祈春さんは、悲しくて泣いてしまう。だけど虫の声がかき消してくれるのだ。祈春さんの「泣き声」を。
きっと彼は、この二つの意味を掛けていたのだろう。悲しいほどにリンクする言葉に、胸が締め付けられる思いがした。
居間で掘りごたつに座る時、おばあちゃんは自分の隣の席を必ず開ける。もうおじいちゃんはいないのに、どうして?って思ったけど……。大切な人がいる時と同じ行動をとると、自然と思い出すからだろう。大切な人と過ごした何気ない、だけども何事にも変え難い、幸せだった日常を。
「店主が教えてくれた。『悲しい時は記憶を辿ればいい』と。僕の場合は、それが星空なんだ。僕にとっての『お守り』だ。夜になって星空を見ると、少しだけ自分が強くなれた気がするんだよ」
照れたように頭をかいた後、祈春さんは笑った。暗闇の中に、白い歯がぽっかりと浮かんでいる。
星空は、祈春さんにとってのお守り。……そうか。だから彼は、何度も天を仰いだんだ。
「だけど、このお守りは少し大きすぎるかな。僕の手に収まりきらないよ」
「……」
夜空を見つめながら、祈春さんは困ったように笑った。その笑顔を見て、私はポケットに入れていたスマホに手を伸ばす。写真を撮ろうと思ったんだ。星空の写真を。だって寂しくなる時は、何も夜だけじゃないから。
朝起きた時にふと寂しさを感じる時もあれば、お昼ご飯を食べてる時に急に味がしなくなることもある。寂しさの波というのは、いつ満ちていつ引くのか。その法則性は誰にも分からない。
だからこそ四六時中身につけられる「お守り」があれば、祈春さんはもっと強くなれるだろうと思った。いつでもどんな時でも、星空を見ることができれば、きっと――
私はスマホを空へ向ける。レンズ越しに見える景色は、どこまでも続く広い空。その中に散りばめられた、希望のように灯る星たち。……だけど小さい。肉眼で見れば宝石のようにきれいな星たちは、レンズに収めると小さすぎて闇も同然だ。
「何してるの?」
「おじいちゃんの真似事を……。だけど失敗です」
思い出屋さんの店主だったおじいちゃんは、いつどんな時も、最後には祈春さんを笑顔にしたのだろう。私の目の前にいる彼が何度も朗らかに笑っているのは、おじいちゃんのおかげなのだ。
だから、ちょっとだけ思ってしまった。ひょっとしたら私にも祈春さんを笑顔にすることができるんじゃないかって。思い出屋さんをしたおじいちゃんたちの血を継ぐ私ならばって。
だけど失敗してしまった。稚拙な考えを抱いたことに恥ずかしくなって、カッと全身が熱くなる。私には、何の力もなかった。
その後、祈春さんは自分がいた時代のことを話してくれた。奥さんは「小夜さん」という名前であること、そそっかしい祈春さんに対してしっかりした人だということ。ご飯中、頬についた米をよくとってくれたこと。
そうして思い出屋さんについても、彼は教えてくれた。
「思い出屋さんに入って行く人は、みんな心に傷を負った人たちだ。そんな人たちが思い出屋さんで店主と話して笑顔を取り戻す。何気ない時間だが、僕たちにとっては必要な時間だ。だから金を出してでも買う。そうして笑顔で店を出るんだよ」
つまりなくなってはいけないものなんだ――と。そう言った時、彼の瞳が私を映した。次に見たのは、私が自身の隣に置いた、思い出屋さんの出納長。
そんな彼の視線の意味に気づいた私は、ポケットに戻したスマホを服の上からキュッと握る。星空を撮ろうとして失敗した過去を思い出してしまったのだ。
人の心を癒すどころか、寄り添うことさえこんなに難しいとは。きっと私には、思い出屋さんの素質はない。
だけど勇気のない私は「思い出屋さんをやりません」ともきっぱり言えなくて。どっちの態度も示せないまま暗闇へ逃げるように、彼の視線に気づかないふりをした。



