それから二週間後。私は学校の夏期講習……ではなく。岡山県にある、おばあちゃんの家に来ていた。
その名も、星浮き町(ほしうきちょう)。
夜空に満点の星が輝くことで有名な町だ。
「おばあちゃーん。私、千宙だよ」
返事はない。おばあちゃんは今年で八十六歳、畑で野菜も作るスーパー元気なおばあちゃんだ。だけど、ちょっと物忘れが激しい。半年前に来た時は、私の名前を思い出せなかった。
一緒に暮らした方がいいのでは? といつか両親が話していたけど、「畑の野菜を作ることは適度な運動になっているし、本人のやりがいを無理に奪うのは違うだろう」ということで、おじいちゃんが亡くなった今も、家に一人で暮らしている。
「裏の畑に行ってるのかな?」
たくさんの勉強道具が入ったボストンバッグを、縁側にドスンと置く。
どうして私が一人でおばあちゃんの家に来ているかというと、話は一週間前に遡る。
『千宙、お姉ちゃんが帰ってくるわよ』
『あ、夏休みか……』
リビングで、母と向かい合って座っていた時のこと。
私は高校生、姉は大学生。互いに学生ならば、夏休みの期間も大体同じ。これを機に、姉は羽を伸ばしに帰省するらしい。だけど私は……。
『千宙は? 夏休み、これどうするの?』
姉より一足早く夏休みに入ろうとしている私――雪沢千宙(ゆきさわちひろ)は、テーブルに置かれた一枚の紙に視線を落とす。これは夏期講習の紙だ。「母に見せなくては」と思っていた所に、母から「申込書は?」と催促された。私の学力向上を願ってやまない母は「どうするの?」と言いつつ、私に「受けるわよね?」と目で訴えている。
『……』
そもそも勉強に身が入らないのだから、受けようが受けまいが同じこと――そう思いつつも母の圧力を前に「行きたくない」と言えない。なかなか答えない私を見て呆れた母が、「そういえば」と。また姉の話に戻る。
『長く帰ってこられるみたいよ。一週間はいられるって』
つまり一週間も、「人生勝ち組のような姉」の姿を見ないといけないのか。両親が姉の帰省を喜ぶ一方で、私は「はぁ」とバレないようにため息を零す。
正直言って、気が重い。姉のキラキラした姿を見るのも、念願の医学部での私生活を聞くのも。夢を叶えた人の話は、夢を持たない人が聞くには、絶え間なくジュースを飲む行為と一緒だ。すぐお腹いっぱいになる。苦しいほど。
『お姉ちゃんが、おばあちゃんの家に行きたいと言っていたから、また連絡とらなきゃね』
おばあちゃんというのは、お母さんのお母さん。私からすれば、母方の祖母である。
岡山県の星浮き町に住んでいて、去年におじいちゃんを亡くして一人で住んでいる。……そうだ。
一人きりのおばあちゃん、夏期講習、姉の帰省――もしかしたら、全て上手くかわせる画期的な方法が、一つだけあるかもしれない。
カレンダーへ目を向けた母が「星来(せいら)が帰るまで、あと何日かしらね」と口角を上げている。そこには、もう「星来帰省!」と書き込みがしてあり、数えると残り一週間ほどだった。もう時間がない。早急に話を進めなければ。
私はおずおずと、母へ提案する。
『一人の方が勉強に集中できるし、二週間ほどおばあちゃんの家に行っていい? お姉ちゃんが星浮き町に来たその時に、私も一緒に家へ帰るから』
最初こそ目を丸くした母だが「その方が、勉強がはかどるの?」と鷹のような鋭い目で私を見る。もちろんその証拠はないけど、余計な気を遣わなくて済むという点においては、祖母の家が一番安泰だ。総合的に、勉強しやすい環境であることは確かだろう。
一か八かの賭けで頷くと、母が「分かったわ」と許可を出す。
そうして私の星浮き町への一人旅は決まったのだ。
――という経緯があって、私は祖母の家を訪れている。
新幹線で三時間。バスを使って四十分。このバスというのが一時間に一本しかなくて大変だった。バス停からおばあちゃんの家が近かったのが、唯一の僥倖だ。
四苦八苦の経験をして、なんとかおばあちゃんの家まで来た……は、いいが。おばあちゃんの姿が見当たらない。裏の畑へ行くと、やっと目当ての人と再会できた。
「おばあちゃん、久しぶり!」
林 卯木江(はやし うきえ)。これがおばあちゃんの名前だ。林は、お母さんの結婚前の苗字。
「おぉ、よぉきたなぁ」
いわゆる田舎に住むおばあちゃんは方言が入っている。でも聞きづらいことはない。むしろ癒される。女性なのに妙に男性っぽい言葉遣いも、おばあちゃんらしくて好きだ。
それに私が好きなのは、おばあちゃんの顔。両頬はおばんじゅうを詰めたようにふっくらしていて、張りと弾力がある。少し曲がった背中をものともしないしゃっきりした歩き方は、サイズの合っていない長靴を履いても変わらず、力強い足取りをしている。白髪の混じった短い髪は彼女に寄り沿うように生えていて、少しウェーブがかかっている。これがまた可愛らしいのだ。
「ここまで大変だったろ、入り入り」
重そうな大根を物ともせず片手で掴む様は、本当に八十六歳かと思うほどで。私が持つよと言っても「なんだ、大根が好きなんけ?」と嬉しそうに笑うだけ。その笑顔が私を心から出迎えてくれていることが分かって、ホッとする。
「にしても一人で来るとはなぁ、あの『泣き虫ひろちゃん』が」
「その呼び方はやめてよ……」
畑から戻って、少しして。私たちは居間でお茶を飲んでいる。目の前には、茶菓子入れに入れられたお菓子たち。まるで背の順のように行儀よく並んでいる。
メインは、チョコにお饅頭、芋けんぴ。芋けんぴを野ざらしに置いておくから、いつもちょっと湿気ている。だけどおばあちゃんは、私が芋えんぴを好きだと知っているから、いつもこうやって用意してくれるのだ。
「美味しいか?」
「うん、美味しいっ」
私の片手には人差し指ほどの高さをした乳酸菌飲料がある。これもおばあちゃんがいつも用意してくれ、尚且つおばあちゃんの好物でもある。そのため冷蔵庫にいつも二パック揃っている。キンキンに冷えているから、暑い中移動してきた私にとっては恵みの水だ。
「ひろちゃん、お菓子のおかわりいるか?」
「もうお腹いっぱいだよ、ありがとう」
私はおばあちゃんから「ひろちゃん」と呼ばれている。最初こそ千宙と呼んでくれたけど、どうにも三文字は「呼びにくい」らしい。
『ちひろは、いけん……。そうそう、ひろにしよう。ひろちゃんひろちゃん』
他人が聞くと「え」と思うような事も、おばあちゃんはズバズバ言う性格だ。言い換えれば裏表がないので、母のように気を遣わなくていいからとても楽だ。「ひろちゃん」と呼ばれても、私は気にならないしね。
「それで? 母さんから逃げてきたんけ?」
「う……」
おばあちゃんは、さすが母のお母さんというだけあって、母の気難しさをよく分かっている。私が母を「変わった」と思ったのは母が出世してからだが、昔からその片鱗はあったのだろう。おばあちゃんは「たまに息苦しくなるわなぁ」と、自分の娘であるにも関わらず、事も無げに笑った。
「ほんでひろちゃんの部屋は、書斎でいいんけ?」
「でも、あそこはおじいちゃんの部屋じゃ」
そこを勝手に使うのは、いくら何でも罰当たりでは? なんて心配する私の気も知らず、おばあちゃんはカッカッカと高らかに笑った。
「死んだじいさんの部屋をいつまで残しておいて何になるんよ」
「そ、そんな言い方……」
「でも本当じゃけねぇ」
おばあちゃんは自分の隣をツイと見る。
いつもおばあちゃんは、机の半分だけのスペースを使って座る。その理由は、もう半分はいつもおじいちゃんが座っていたからだ。おじいちゃんが亡くなった後もその名残が抜けないのか、それとも……まだ一緒に座っている感覚なのか。おばあちゃんは、今日も半分空けて座っていた。
「奥の部屋に仏壇が置いてあるじゃろ?」
「うん、先祖代々の顔写真も一緒にね……」
写真だけじゃない。鬼の面が三種類ほど、壁に飾ってあるのだ。しかも、どれも怒った般若のような顔だから、小さい頃は姉共々「怖い」と怯え、なかなかあの部屋に入れなかった。だけど「仏壇に挨拶するのは遊びに来た時の決まり」なので、お母さんと一緒に仏壇の前に三人(うち二人は怯えながら)並んで、手を合わせていた。さすがに今では、もう一人で入ることもできるけど。あの頃は、怖かったのだ。
「あの仏壇にじいさんは入った。死んだ人は、みんなあそこにおる。じゃけ書斎は好きに使ってえぇ。もうじいちゃんは、書斎にはおらん」
シワで重くなった瞼の奥から、おばあちゃんのつぶらな瞳がキラリと光る。そこには寂しさが見え隠れしていて、「書斎を使わないことは逆におばあちゃんを悲しませてしまうかも」と、そんなことを思った。
おじいちゃんがいた頃のように書斎から音が響く方が、きっとおばあちゃんは喜ぶのだ。
「……分かった。書斎、使わせてもらうね」
返事を聞いたおばあちゃんは、大福様みたいににっこり笑った。
◇
「キレイに整理されているなぁ……。いや、隅におじいちゃんの物が追いやられているだけか」
書斎はキレイだった。キレイというのは「散らかっていない」ということもあるが、古民家にしては畳も割と新しく、壁もさほど黄ばんでいない。しかし部屋の隅に、所狭しとおじいちゃんの物が積まれている。あれは書類だろうか?
「書類のタワーが崩れないように、あそこだけは近寄らないようにしよう」
さっき仏壇に挨拶を済ませた私は、持って来た荷物をさっそく机に広げる。昔ながらの分厚い木の机だ。表面がコーティングされていないから書くとガタガタしちゃうけど、そんな時こそ下敷きが役に立つ。
「とりあえず、私が嫌いな数学から……ん?」
教科書、ノート、夏休みで済ませるよう母が用意したテキスト、そして筆箱。これら勉強セットを広げて、ややげんなりした時だった。「ごめんください」と外から……いや、中庭から声がする。
玄関のすぐ隣が中庭に通じているので、仲のいい地域の人達は中庭に来る癖がある。実際いつもおばあちゃんがいる部屋から玄関は、若干の距離があって声が通りづらい。インターホンを鳴らせば、そりゃ聞こえる……と言いたいけど、おばあちゃんの耳は最近遠くなったから、やはり中庭から叫んだ方が、家主を呼ぶには効率がいいのだ。
だけどその中庭のすぐ隣が書斎――私がいるこの部屋だったりする。つまり来客対応は私の仕事になる、というわけだ。
「うぅん、集中力が切れるなぁ……」
なんて独り言ちていたら、もう一度「ごめんください」と、障子の向こうから声がした。声からして、中年の男性だ。優しそうな、それでいて穏やかな声だ。
「……はーい、今でます」
重たい腰を上げて、襖を開ける。その瞬間、立っていた人物を見て、ひっくり返りそうになった。
なぜなら中年男性が和服を着ているから。ちょっと年季が入っているそれは、ほつれもほころびも見受けられる。だけど色だけはパッと目を引くほど鮮やで、和服の紺色が優しそうな男性の顔と合っていた。
なんだか、この男性を見ていると、勝手に警戒心が緩んでくるなぁ。
「こんにちは、ちょっと縁側に腰をかけてもいいですか?」
「ま、待ってください!」
男性が手をひらひらさせた時、その汚さを見てギョッとした。すごい汚れている。茶色の手だ。足もそう。草履の隙間から見える足の裏は、まるで炭を踏んだかのようにまっ黒だ。
「まずは手と足を洗い、着物をはたいてください。座るのは、それからでお願いします」
ほどきかけた警戒心を、再び強める。
薄茶色の髪を肩まで伸ばした男性は「あ~」と、眉を下げて笑った。
男性は「それじゃあ失礼して」と、中庭備え付けの蛇口をひねる。この人はおばあちゃんの知り合いだろうか? でもタイミングが悪い。彼女は「出てくるなぁ」と言ったきり、まだ帰っていない。
「生憎おばあちゃんは不在で」と言うも、返って来た言葉は、かなりトンチンカンなものだった。
「いえいえ、店主に用があって来ましたから。
今日もね、売ってほしいんですよ。――笑顔を」
「は……?」
寝耳に水の話だ。店主なんて言葉も、笑顔を売ってほしいという願いも。
「あの、ウチはお店じゃないので……」
第一「笑顔」は売り物ではないし――と言いかけたところで、しかしとあるファーストフードで「スマイルフリー」と謳っていた事例を思い出す。確かに、無いことは、ない。
ただ、我が家でそれを売ることは不可能だ。だってここは店じゃない。
見た目三十代のお兄さんには悪いが、面倒ごとはごめんだ。さっさとお引き取り願おう。
「店主もいないし、笑顔も売っていません」
「えぇ? だってここは『思い出屋さん』でしょう?」
思い出屋さん? 初めて聞く名前だ。そこで笑顔を売っている、なんて……。もしかして私は、からかわれているのだろうか?
「そんなみょうちきりんな店はありません。ここは普通の家です。笑顔も売っていないので、お帰りください!」
ムッとしたため強く反論する。
すると目の前の男性の眉根がキュッと寄り、
「そうですか……」
悲しみの色が、目に深く宿った。
その名も、星浮き町(ほしうきちょう)。
夜空に満点の星が輝くことで有名な町だ。
「おばあちゃーん。私、千宙だよ」
返事はない。おばあちゃんは今年で八十六歳、畑で野菜も作るスーパー元気なおばあちゃんだ。だけど、ちょっと物忘れが激しい。半年前に来た時は、私の名前を思い出せなかった。
一緒に暮らした方がいいのでは? といつか両親が話していたけど、「畑の野菜を作ることは適度な運動になっているし、本人のやりがいを無理に奪うのは違うだろう」ということで、おじいちゃんが亡くなった今も、家に一人で暮らしている。
「裏の畑に行ってるのかな?」
たくさんの勉強道具が入ったボストンバッグを、縁側にドスンと置く。
どうして私が一人でおばあちゃんの家に来ているかというと、話は一週間前に遡る。
『千宙、お姉ちゃんが帰ってくるわよ』
『あ、夏休みか……』
リビングで、母と向かい合って座っていた時のこと。
私は高校生、姉は大学生。互いに学生ならば、夏休みの期間も大体同じ。これを機に、姉は羽を伸ばしに帰省するらしい。だけど私は……。
『千宙は? 夏休み、これどうするの?』
姉より一足早く夏休みに入ろうとしている私――雪沢千宙(ゆきさわちひろ)は、テーブルに置かれた一枚の紙に視線を落とす。これは夏期講習の紙だ。「母に見せなくては」と思っていた所に、母から「申込書は?」と催促された。私の学力向上を願ってやまない母は「どうするの?」と言いつつ、私に「受けるわよね?」と目で訴えている。
『……』
そもそも勉強に身が入らないのだから、受けようが受けまいが同じこと――そう思いつつも母の圧力を前に「行きたくない」と言えない。なかなか答えない私を見て呆れた母が、「そういえば」と。また姉の話に戻る。
『長く帰ってこられるみたいよ。一週間はいられるって』
つまり一週間も、「人生勝ち組のような姉」の姿を見ないといけないのか。両親が姉の帰省を喜ぶ一方で、私は「はぁ」とバレないようにため息を零す。
正直言って、気が重い。姉のキラキラした姿を見るのも、念願の医学部での私生活を聞くのも。夢を叶えた人の話は、夢を持たない人が聞くには、絶え間なくジュースを飲む行為と一緒だ。すぐお腹いっぱいになる。苦しいほど。
『お姉ちゃんが、おばあちゃんの家に行きたいと言っていたから、また連絡とらなきゃね』
おばあちゃんというのは、お母さんのお母さん。私からすれば、母方の祖母である。
岡山県の星浮き町に住んでいて、去年におじいちゃんを亡くして一人で住んでいる。……そうだ。
一人きりのおばあちゃん、夏期講習、姉の帰省――もしかしたら、全て上手くかわせる画期的な方法が、一つだけあるかもしれない。
カレンダーへ目を向けた母が「星来(せいら)が帰るまで、あと何日かしらね」と口角を上げている。そこには、もう「星来帰省!」と書き込みがしてあり、数えると残り一週間ほどだった。もう時間がない。早急に話を進めなければ。
私はおずおずと、母へ提案する。
『一人の方が勉強に集中できるし、二週間ほどおばあちゃんの家に行っていい? お姉ちゃんが星浮き町に来たその時に、私も一緒に家へ帰るから』
最初こそ目を丸くした母だが「その方が、勉強がはかどるの?」と鷹のような鋭い目で私を見る。もちろんその証拠はないけど、余計な気を遣わなくて済むという点においては、祖母の家が一番安泰だ。総合的に、勉強しやすい環境であることは確かだろう。
一か八かの賭けで頷くと、母が「分かったわ」と許可を出す。
そうして私の星浮き町への一人旅は決まったのだ。
――という経緯があって、私は祖母の家を訪れている。
新幹線で三時間。バスを使って四十分。このバスというのが一時間に一本しかなくて大変だった。バス停からおばあちゃんの家が近かったのが、唯一の僥倖だ。
四苦八苦の経験をして、なんとかおばあちゃんの家まで来た……は、いいが。おばあちゃんの姿が見当たらない。裏の畑へ行くと、やっと目当ての人と再会できた。
「おばあちゃん、久しぶり!」
林 卯木江(はやし うきえ)。これがおばあちゃんの名前だ。林は、お母さんの結婚前の苗字。
「おぉ、よぉきたなぁ」
いわゆる田舎に住むおばあちゃんは方言が入っている。でも聞きづらいことはない。むしろ癒される。女性なのに妙に男性っぽい言葉遣いも、おばあちゃんらしくて好きだ。
それに私が好きなのは、おばあちゃんの顔。両頬はおばんじゅうを詰めたようにふっくらしていて、張りと弾力がある。少し曲がった背中をものともしないしゃっきりした歩き方は、サイズの合っていない長靴を履いても変わらず、力強い足取りをしている。白髪の混じった短い髪は彼女に寄り沿うように生えていて、少しウェーブがかかっている。これがまた可愛らしいのだ。
「ここまで大変だったろ、入り入り」
重そうな大根を物ともせず片手で掴む様は、本当に八十六歳かと思うほどで。私が持つよと言っても「なんだ、大根が好きなんけ?」と嬉しそうに笑うだけ。その笑顔が私を心から出迎えてくれていることが分かって、ホッとする。
「にしても一人で来るとはなぁ、あの『泣き虫ひろちゃん』が」
「その呼び方はやめてよ……」
畑から戻って、少しして。私たちは居間でお茶を飲んでいる。目の前には、茶菓子入れに入れられたお菓子たち。まるで背の順のように行儀よく並んでいる。
メインは、チョコにお饅頭、芋けんぴ。芋けんぴを野ざらしに置いておくから、いつもちょっと湿気ている。だけどおばあちゃんは、私が芋えんぴを好きだと知っているから、いつもこうやって用意してくれるのだ。
「美味しいか?」
「うん、美味しいっ」
私の片手には人差し指ほどの高さをした乳酸菌飲料がある。これもおばあちゃんがいつも用意してくれ、尚且つおばあちゃんの好物でもある。そのため冷蔵庫にいつも二パック揃っている。キンキンに冷えているから、暑い中移動してきた私にとっては恵みの水だ。
「ひろちゃん、お菓子のおかわりいるか?」
「もうお腹いっぱいだよ、ありがとう」
私はおばあちゃんから「ひろちゃん」と呼ばれている。最初こそ千宙と呼んでくれたけど、どうにも三文字は「呼びにくい」らしい。
『ちひろは、いけん……。そうそう、ひろにしよう。ひろちゃんひろちゃん』
他人が聞くと「え」と思うような事も、おばあちゃんはズバズバ言う性格だ。言い換えれば裏表がないので、母のように気を遣わなくていいからとても楽だ。「ひろちゃん」と呼ばれても、私は気にならないしね。
「それで? 母さんから逃げてきたんけ?」
「う……」
おばあちゃんは、さすが母のお母さんというだけあって、母の気難しさをよく分かっている。私が母を「変わった」と思ったのは母が出世してからだが、昔からその片鱗はあったのだろう。おばあちゃんは「たまに息苦しくなるわなぁ」と、自分の娘であるにも関わらず、事も無げに笑った。
「ほんでひろちゃんの部屋は、書斎でいいんけ?」
「でも、あそこはおじいちゃんの部屋じゃ」
そこを勝手に使うのは、いくら何でも罰当たりでは? なんて心配する私の気も知らず、おばあちゃんはカッカッカと高らかに笑った。
「死んだじいさんの部屋をいつまで残しておいて何になるんよ」
「そ、そんな言い方……」
「でも本当じゃけねぇ」
おばあちゃんは自分の隣をツイと見る。
いつもおばあちゃんは、机の半分だけのスペースを使って座る。その理由は、もう半分はいつもおじいちゃんが座っていたからだ。おじいちゃんが亡くなった後もその名残が抜けないのか、それとも……まだ一緒に座っている感覚なのか。おばあちゃんは、今日も半分空けて座っていた。
「奥の部屋に仏壇が置いてあるじゃろ?」
「うん、先祖代々の顔写真も一緒にね……」
写真だけじゃない。鬼の面が三種類ほど、壁に飾ってあるのだ。しかも、どれも怒った般若のような顔だから、小さい頃は姉共々「怖い」と怯え、なかなかあの部屋に入れなかった。だけど「仏壇に挨拶するのは遊びに来た時の決まり」なので、お母さんと一緒に仏壇の前に三人(うち二人は怯えながら)並んで、手を合わせていた。さすがに今では、もう一人で入ることもできるけど。あの頃は、怖かったのだ。
「あの仏壇にじいさんは入った。死んだ人は、みんなあそこにおる。じゃけ書斎は好きに使ってえぇ。もうじいちゃんは、書斎にはおらん」
シワで重くなった瞼の奥から、おばあちゃんのつぶらな瞳がキラリと光る。そこには寂しさが見え隠れしていて、「書斎を使わないことは逆におばあちゃんを悲しませてしまうかも」と、そんなことを思った。
おじいちゃんがいた頃のように書斎から音が響く方が、きっとおばあちゃんは喜ぶのだ。
「……分かった。書斎、使わせてもらうね」
返事を聞いたおばあちゃんは、大福様みたいににっこり笑った。
◇
「キレイに整理されているなぁ……。いや、隅におじいちゃんの物が追いやられているだけか」
書斎はキレイだった。キレイというのは「散らかっていない」ということもあるが、古民家にしては畳も割と新しく、壁もさほど黄ばんでいない。しかし部屋の隅に、所狭しとおじいちゃんの物が積まれている。あれは書類だろうか?
「書類のタワーが崩れないように、あそこだけは近寄らないようにしよう」
さっき仏壇に挨拶を済ませた私は、持って来た荷物をさっそく机に広げる。昔ながらの分厚い木の机だ。表面がコーティングされていないから書くとガタガタしちゃうけど、そんな時こそ下敷きが役に立つ。
「とりあえず、私が嫌いな数学から……ん?」
教科書、ノート、夏休みで済ませるよう母が用意したテキスト、そして筆箱。これら勉強セットを広げて、ややげんなりした時だった。「ごめんください」と外から……いや、中庭から声がする。
玄関のすぐ隣が中庭に通じているので、仲のいい地域の人達は中庭に来る癖がある。実際いつもおばあちゃんがいる部屋から玄関は、若干の距離があって声が通りづらい。インターホンを鳴らせば、そりゃ聞こえる……と言いたいけど、おばあちゃんの耳は最近遠くなったから、やはり中庭から叫んだ方が、家主を呼ぶには効率がいいのだ。
だけどその中庭のすぐ隣が書斎――私がいるこの部屋だったりする。つまり来客対応は私の仕事になる、というわけだ。
「うぅん、集中力が切れるなぁ……」
なんて独り言ちていたら、もう一度「ごめんください」と、障子の向こうから声がした。声からして、中年の男性だ。優しそうな、それでいて穏やかな声だ。
「……はーい、今でます」
重たい腰を上げて、襖を開ける。その瞬間、立っていた人物を見て、ひっくり返りそうになった。
なぜなら中年男性が和服を着ているから。ちょっと年季が入っているそれは、ほつれもほころびも見受けられる。だけど色だけはパッと目を引くほど鮮やで、和服の紺色が優しそうな男性の顔と合っていた。
なんだか、この男性を見ていると、勝手に警戒心が緩んでくるなぁ。
「こんにちは、ちょっと縁側に腰をかけてもいいですか?」
「ま、待ってください!」
男性が手をひらひらさせた時、その汚さを見てギョッとした。すごい汚れている。茶色の手だ。足もそう。草履の隙間から見える足の裏は、まるで炭を踏んだかのようにまっ黒だ。
「まずは手と足を洗い、着物をはたいてください。座るのは、それからでお願いします」
ほどきかけた警戒心を、再び強める。
薄茶色の髪を肩まで伸ばした男性は「あ~」と、眉を下げて笑った。
男性は「それじゃあ失礼して」と、中庭備え付けの蛇口をひねる。この人はおばあちゃんの知り合いだろうか? でもタイミングが悪い。彼女は「出てくるなぁ」と言ったきり、まだ帰っていない。
「生憎おばあちゃんは不在で」と言うも、返って来た言葉は、かなりトンチンカンなものだった。
「いえいえ、店主に用があって来ましたから。
今日もね、売ってほしいんですよ。――笑顔を」
「は……?」
寝耳に水の話だ。店主なんて言葉も、笑顔を売ってほしいという願いも。
「あの、ウチはお店じゃないので……」
第一「笑顔」は売り物ではないし――と言いかけたところで、しかしとあるファーストフードで「スマイルフリー」と謳っていた事例を思い出す。確かに、無いことは、ない。
ただ、我が家でそれを売ることは不可能だ。だってここは店じゃない。
見た目三十代のお兄さんには悪いが、面倒ごとはごめんだ。さっさとお引き取り願おう。
「店主もいないし、笑顔も売っていません」
「えぇ? だってここは『思い出屋さん』でしょう?」
思い出屋さん? 初めて聞く名前だ。そこで笑顔を売っている、なんて……。もしかして私は、からかわれているのだろうか?
「そんなみょうちきりんな店はありません。ここは普通の家です。笑顔も売っていないので、お帰りください!」
ムッとしたため強く反論する。
すると目の前の男性の眉根がキュッと寄り、
「そうですか……」
悲しみの色が、目に深く宿った。



