玉響恋物語

 阿花里は覚悟を決めて、家の中に入る。

 けれど、急な用事でも出来たのか、父はいなかった。

 阿花里は夕食を作って待つことにした。

「に、義兄さん……っ、帰って……ます、かっ?」

 戸口から声がした。立っていたのは叔父の多津岐だった。走ってきたらしく、呼吸が乱れている。

「多津岐叔父さん! 何かあったの!?」

「阿花……里……ちゃんっ!? よかった……ぶ、無事に……帰ってきて。探したよっ」

 多津岐は阿花里の両肩に手を置いて、安堵(あんど)のため息をついた。大きく肩を上下に動かしながらしていた呼吸が、徐々に整っていく。

「真佐弥さんがうちに来たんだよ、阿花里ちゃんがどこにいるか知らないかって。あんなにうろたえている真佐弥さんを初めて見たから、いったい何ごとかと思って心配したよ」

「父さんは私を探してるからいないの?」

「そうだよ。恵珠山へ行ってみるって言ってた。阿花里ちゃんはどこへ行ってたんだい?」

「叔父さんたちとよく一緒に行った、あの湖に……」

「なんで真佐弥さんに行き先を言わなかったの?」

 阿花里は多津岐から、視線をすっとそらした。

「父さんと喧嘩(けんか)して……」

「喧嘩!? いったい何が原因で?」

 父への苛立(いらだ)ちをぶつけたあげく、多津岐が父親だったらよかったと話してしまったなんて、阿花里は言いたくなかった。

「僕でよかったら、話を聞くよ」

 阿花里と同じ目の高さになるよう、多津岐は膝を曲げた。

 それでも、阿花里は口を開こうとしなかった。

「そうだ、阿花里ちゃん。お腹空いてないかい? まだ何も食べてないんだろう?」

「うん。父さんが帰ってくるのを待ってた」

「今からうちにおいで。志久那が作ったものを一緒に食べよう。今日はそのまま泊まっていくといい。一晩おけば、阿花里ちゃんも真佐弥さんも、落ち着いて話をしやすくなると思うよ」

 多津岐の提案に心を動かされ、阿花里はやっと顔を上げた。

 多津岐は目じりを下げ、優しい顔で阿花里を見ている。

「じゃあ、お言葉に甘えて……よろしくお願いします」

「何をかしこまっているんだい? 前は気軽にちょくちょく遊びに来てたじゃないか」

 阿花里は幼い頃、多津岐夫婦の家をよく訪ねた。最初は真佐弥の言いつけによるものだった。

 真佐弥は集落外の人たちと会うことが多い。そのため、外出する時は阿花里がひとりにならないよう、妹の志久那に預けた。

 阿花里の来訪を志久那はとても喜んだ。だから、前もって真佐弥に伝えていなくても、阿花里がいつでも来やすいように、志久那はある伝達手段を考えた。

 阿花里に麻紐を渡し、多津岐夫婦の家に行く時は、阿花里の家の戸口にその紐を結びつけておくという決まりを作った。

 そうすれば、真佐弥が帰宅した時、阿花里が不在でも心配しなくてすむ。紐が古くなってくると、そのたびに志久那は新しいものを用意してやった。

 めっきり頻度は減ったけれど、今もその決まりごとは続いている。

「叔父さんちに行くの、父さんに伝えておくね」

 阿花里は戸口の右側の茅に、麻紐を括りつけた。

 それから多津岐と一緒に、工房を挟んだ先にある家の中へと入っていった。

「志久那、帰ったよ」

「おかえりな……あっ、阿花里ちゃん!? お父さんが心配してたわよぉ。どこに行ってたの?」

 志久那は山菜を入れた雑穀を鍋でぐつぐつ煮込んでいた。

「散歩から帰るのが、ちょっと遅くなっちゃっただけ……だよね、阿花里ちゃん?」

 阿花里が話す前に、多津岐が志久那に答えた。

 喧嘩したことを父が話さなかったのなら、多津岐の計らいに従ったほうがいい。阿花里は黙って頷いた。

 おおらかで信じやすい性格の志久那は、多津岐の話をまったく疑わなかった。

「義兄さんがいつ帰ってくるかわからないから、今晩はうちで阿花里ちゃんを預かることにしたよ」

「そうだったの。いらっしゃい、阿花里ちゃん。うちに泊まるのは久しぶりねぇ。叔母さん、嬉しいわぁ。ちゃんと紐を結んでおいた?」

「うん。ここにいるって、父さんがわかるようにしてきた。あの……志久那叔母さん、ひと晩お世話になります」

「なあに? 改まっちゃって」

 阿花里はもう幼い少女ではない。突然の訪問で迷惑をかけてしまうかもしれないと、気にしていたのだ。

 そんな気遣いは無用とばかりに、志久那は嬉しそうに切り盛りをする。

「あともう少しで食事が出来るわよぉ」

「志久那叔母さん、私、何か手伝う」

「それじゃあ、鍋敷を置いてもらえる? 鍋敷は――」

「大丈夫。どこにあるかわかるよ」

 阿花里は(かまど)のほうを見た。(わら)の鍋敷が端に立てかけられている。

 阿花里はその鍋敷だけでなく、三人分の椀と匙もてきぱきと置いていった。志久那たちと一緒に食事をする時は、よくこうして手伝っていたのだ。

 鍋を囲み、遅めの夕飯をとる。食べ終わって片付けも済ませると、三人は輪になって座り、団らんのひとときを過ごす。

 目まぐるしい一日を送った阿花里は、お腹が満たされたこともあり、徐々に(まぶた)が重くなっていった。こくりこくりと体が不規則な間隔で前にのめっていく。

 志久那は立ち上がり、寝床用の筵を敷いた。

「阿花里ちゃん、ちゃんと横になって寝なさい」

「は、い……」

 内壁と志久那との間の空間――そこが昔から、阿花里の寝場所だった。

 おやすみの挨拶をして、三人は床につく。

 すぅすぅ……と、すぐに阿花里の寝息がしてきた。

「阿花里ちゃんがいると、家の中がにぎやかになっていいわねぇ」

「ああ。昔みたいに、もっと頻繁に来てくれればいいのに」

 阿花里が目を覚ましてしまわないよう、志久那と多津岐は小声で話す。

「そうねぇ。でも、今はひとりで留守番が出来るし、阿花里ちゃんがしょっちゅう他の家に行ってたら、兄さん寂しがるわ」

 他の家――志久那のこの言葉に、多津岐は埋めることの出来ない隔たりを感じた。

「本当の娘ならいいのに……」

「えっ、何か言った?」

「いや、何でもないよ。おやすみ」

「おやすみなさい」

 志久那もすぐ眠りについた。

 多津岐は眠れないせいか、余計なことを考え始めてしまう。志久那の髪を撫でながら、自分に問いかける。

 義兄(あに)にはなくて、自分にはあるものは? それは……妻という存在。それだけかもしれない。

 自分にはなくて、義兄にはあるものは? たくさんある。

 玉作り集団の長としての権限と敬意。職人としての卓越した技術。有力者である忌部氏からの絶大な信頼。他にももっと――。

 中でも、多津岐が何よりも望んでやまなかったもの。それは……我が子という、かけがえのない存在。

 自分が父親なら、阿花里が家出をするなんて起こらないはずだ。自分が父親なら――。多津岐の中に、(よこしま)な想像と濁った感情がうごめいていった。

 いっぽう、真佐弥は恵珠山で阿花里を見つけられなかったので、いったん家に戻ることにした。

 麻紐が結わえつけられているのに気づくと、真佐弥はすぐさま多津岐の家に向かった。

 声をかけようとしたけれど、思いとどまる。静まり返っている気配から、もう寝てしまっているのだと感じ取ったからだ。

 阿花里が無事でいるなら、それでいい。

 真佐弥は腰紐に挟んでいた阿花里の草履を引き抜いた。それを多津岐の家の戸口にそっと置いて、自宅へ戻る。

 真佐弥が去った後、闇よりも黒い塊に導かれるように、多津岐は家の外へと出て行った。