阿花里は湖に来ていた。
ここは夕陽が綺麗に見えると言って、幼い頃に多津岐夫婦が何度も連れてきてくれた場所だ。阿花里を真ん中にして、多津岐と志久那が左右に分かれ、手をつないで楽しく湖畔を歩いた。
目の前で一面に広がる湖。その先に陸地が続いているとは思えないほど大きい。
そんな雄大な湖が、赤く色づいた太陽からの神々しい輝きを受け、光の波を静かに揺らしている。
壮大な夕景色を見ていると、自分の悩みなんて、ちっぽけなものに思えてしまう。だから、阿花里は落ち込むことがあると、ひとりでここに来て、気持ちを落ち着かせるようになった。
今日もそうだ。家を出た後、あてもなく来たわけではなかった。
ぼーっと湖を見ながら、長いこと立ちつくす。
もしかしたら、阿花里の着丈に合うまで、母の衣を渡さなかっただけかもしれない――。
そんなことを考えながら、阿花里は膝を抱えて座り込んだ。そして、おでこを膝にこつんと乗せ、うずくまる。
絶景でさえも、今日は阿花里を癒せなかった。
それもそのはず。湖を見ていたはずなのに、初めて見た父の悲しそうな顔が、いつの間にか目に浮かんでしまうからだ。
誰かが近づいてくることにまったく気づかず、阿花里は思い悩んでいた。
「どこか具合悪いの?」
頭上で、優しく気遣う男性の声がした。
阿花里は驚いて、ぱっと顔を上げる。
雅びやかな白皙の美青年が、すぐ側にいた。伏し目がちに、阿花里を見ている。
桔梗色の狩衣に裏葉色の指貫を着こなし、男らしさも兼ね備えた美しさを放っていた。
「手がずいぶん傷ついているね。なにか酷い目に遭っているの?」
脛の辺りで組んでいる阿花里の両手を見て、青年は心配そうに尋ねた。
太陽は名残惜しそうに、水平線から半分以上顔を出している。手の傷に気づけるくらい、まだ明るかった。
阿花里は手のひらと甲を交互に見る。複数のまめや傷跡――労働者の手だ。
「私、玉を作っているんです。石を加工するので、こんな手に……」
「ここには玉作り職人がたくさんいると聞いていたけど、君みたいな少女も玉を作っているんだね。ところで……裸足でいるのも、玉作りに関係しているの?」
阿花里はすぐに自分の足元を見た。足の甲にあるのは草履の横緒ではなく、砂の汚れだけだった。
「草履を履かずに、工房を出てしまったんです」
阿花里は恥ずかしそうに、ごにょごにょと話した。
「どうして?」
「えっと、その……と、突然、夕陽を見たくなって」
青年は丸めた手を口にあて、くすっと笑った。
「いてもたってもいられないくらい、早く見たかったんだね」
「……はい」
この状況を考えたら、阿花里はそう答えるしかなかった。
「まだここにいるの?」
「いいえ、そろそろ帰ります」
阿花里は父と顔を合わせる気まずさを拭えていなかったけれど、これ以上、父を心配させたくなかった。
「裸足だと足元が危ないから、僕が送ってあげるよ」
青年はしゃがんで、阿花里の膝下に右手を通した。そして、左手は阿花里の左腕をつかんで立ち上がる。つまり、阿花里は抱っこされた状態になった。
「えっ、あのっ! えぇっ!!」
焦って引きつった顔の阿花里とは対照的に、青年は軽いと言わんばかりに余裕の笑みを浮かべている。
「だっ、大丈夫です! 裸足でも歩いて帰れます! 私、えっと、その……つ、土や草を足で直に感じるのが好きなんです」
「そうなの? どうして?」
「それは……自然と一体になれるかなって」
青年はくすくす笑いながら、小刻みに震えた。
その振動が阿花里にも伝わってきて、体がくっついていることを気づかせる。男性とこんなに密着するなんて、阿花里には初めてだった。恥ずかしくて俯く。
「警戒しているの? 別に、君をさらおうとしているんじゃないよ。ちゃんと送ってあげるから安心して。僕は弓削峯理。忌部殿に用があって、京から来たんだ」
忌部氏は玉の管理をしている一族で、玉作り職人たちと同じく、玉祖命を祖神としている。
阿花里は真佐弥に連れられて、忌部氏の屋敷を何度か訪れたことがある。
「馬に乗せてあげるよ。君、馬に乗ったことある?」
答えようと、阿花里は顔を上げた。だけど、峯正の顔がすぐそこにあることに驚いて、また下を向いた。
身動きの取れない峯理の腕の中。阿花里はどうしたらよいのかわからず縮こまる。
「忌部様のお屋敷で、遠くから馬を見たことはあります。でも、乗ったことは……」
「それなら、僕と乗るのが初めてなんだね」
「はい」
峯理は立ち止まり、阿花里を地面に下ろした。
そこには駒つなぎの幹につながれた、栗毛の裸馬が一頭いた。
駒つなぎは草のように見える低木。幹は細いけれど、馬の手綱をつなげるくらい頑丈だ。
阿花里は初めて、近くで馬を見た。けたたましい嘶きと、想像していたよりも大きな体に身がすくんでしまう。
「この馬は人に慣れているみたいだから、そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。僕と同じように乗れるかな?」
峯理は近くの枝股に足をかけて、馬に乗った。
「どう? 僕の後ろに乗れそう?」
「やってみます」
峯理は阿花里が枝又に足を乗せて体を動かしやすいよう、馬を少し前に移動させた。
袴を履いていることもあり、阿花里は峯理の助けを借りて、意外とすんなり跨って乗ることが出来た。
「馬って、こんなに高いんですね」
「怖くない?」
「大丈夫です」
未体験の高さから見渡す光景に、阿花里の好奇心が恐怖心より上回る。
「今から馬をゆっくり走らせるよ。しっかり捕まって」
「捕まるって、峯理様が握っている紐にですか? 届くかな……」
峯理はふっと息を吐くように笑った。
「君がそこから馬を操ってくれるの?」
「捕まるといえば、紐かなと思ったんですけど、違うんですか?」
「僕に捕まってってことだよ」
阿花里は再び考えた。峯理の腕だと、馬を操るのに邪魔になるはず――。
とことん悩んでいる阿花里を見て、峯理は誘導してやることにした。
「こうすると安全だから」
阿花里の手を取って、峯理のお腹で組むようにさせる。阿花里の顔が峯理の背中に、とんっとぶつかった。
「すみません」
阿花里は慌てて顔を離した。
「僕のことは気にしないで、出来るだけ楽な姿勢で捕まってて。それで、君の家はどこ?」
「あの山の麓です。そこの道なりをずっと進むと、私の住んでいる集落に着きます」
阿花里は組んだばかりの手をそろそろと離し、体勢を整えた。そして、恵珠山と近くの道を指し示す。
道端では、お日様に向かって黄色い花を咲かせていた野芥子が、眠りにつこうと萎み始めていた。
「わかった。それじゃあ行くよ」
阿花里の手が組まれたのを確認すると、峯理は馬を走らせた。
阿花里は少し顔をずらし、横を向く。
峯理の狩衣から漂う芳香に、阿花里は夢心地になる。頬が狩衣にあたると、しなやかな花びらに包まれているような気分になった。
「平気? 怖くない?」
「はい、大丈夫です」
阿花里は普段見慣れている景色が、流れるように速く変わっていくのを不思議な気持ちで眺めていた。
「この先に集落が見えるけど、そこでいいのかな? このまま進んで大丈夫?」
峯理は阿花里に見えるように馬を止めた。
集落で馬に乗ったことのある者は皆無だ。蹄の音を聞き、身分の高そうな青年と一緒にいる阿花里を見たら、騒ぎになるかもしれない。
そう考え、阿花里はここで降ろしてもらうことにした。
「足元に気をつけて帰るんだよ」
「はい。送ってくださって、ありがとうございました。馬に乗せてもらって楽しかったです」
馬上での清々しい風を思い出したら、阿花里は自然と笑顔になった。
「君は最初、元気がないように見えたけど、笑った顔を見ることが出来てよかった」
峯理は微笑みながらそう話すと、優雅に袖をはらりと翻して馬に乗った。そして、立ち去る挨拶をするかのように、阿花里のほうを向いて手綱を引き、馬の前足を上げる。
峯理は来たほうへと向きを変え、馬を疾走させた。
さっきまで起こったことは夢なのかと思ってしまうほど、阿花里の視界から峯理はあっという間に姿を消してしまった。
ここは夕陽が綺麗に見えると言って、幼い頃に多津岐夫婦が何度も連れてきてくれた場所だ。阿花里を真ん中にして、多津岐と志久那が左右に分かれ、手をつないで楽しく湖畔を歩いた。
目の前で一面に広がる湖。その先に陸地が続いているとは思えないほど大きい。
そんな雄大な湖が、赤く色づいた太陽からの神々しい輝きを受け、光の波を静かに揺らしている。
壮大な夕景色を見ていると、自分の悩みなんて、ちっぽけなものに思えてしまう。だから、阿花里は落ち込むことがあると、ひとりでここに来て、気持ちを落ち着かせるようになった。
今日もそうだ。家を出た後、あてもなく来たわけではなかった。
ぼーっと湖を見ながら、長いこと立ちつくす。
もしかしたら、阿花里の着丈に合うまで、母の衣を渡さなかっただけかもしれない――。
そんなことを考えながら、阿花里は膝を抱えて座り込んだ。そして、おでこを膝にこつんと乗せ、うずくまる。
絶景でさえも、今日は阿花里を癒せなかった。
それもそのはず。湖を見ていたはずなのに、初めて見た父の悲しそうな顔が、いつの間にか目に浮かんでしまうからだ。
誰かが近づいてくることにまったく気づかず、阿花里は思い悩んでいた。
「どこか具合悪いの?」
頭上で、優しく気遣う男性の声がした。
阿花里は驚いて、ぱっと顔を上げる。
雅びやかな白皙の美青年が、すぐ側にいた。伏し目がちに、阿花里を見ている。
桔梗色の狩衣に裏葉色の指貫を着こなし、男らしさも兼ね備えた美しさを放っていた。
「手がずいぶん傷ついているね。なにか酷い目に遭っているの?」
脛の辺りで組んでいる阿花里の両手を見て、青年は心配そうに尋ねた。
太陽は名残惜しそうに、水平線から半分以上顔を出している。手の傷に気づけるくらい、まだ明るかった。
阿花里は手のひらと甲を交互に見る。複数のまめや傷跡――労働者の手だ。
「私、玉を作っているんです。石を加工するので、こんな手に……」
「ここには玉作り職人がたくさんいると聞いていたけど、君みたいな少女も玉を作っているんだね。ところで……裸足でいるのも、玉作りに関係しているの?」
阿花里はすぐに自分の足元を見た。足の甲にあるのは草履の横緒ではなく、砂の汚れだけだった。
「草履を履かずに、工房を出てしまったんです」
阿花里は恥ずかしそうに、ごにょごにょと話した。
「どうして?」
「えっと、その……と、突然、夕陽を見たくなって」
青年は丸めた手を口にあて、くすっと笑った。
「いてもたってもいられないくらい、早く見たかったんだね」
「……はい」
この状況を考えたら、阿花里はそう答えるしかなかった。
「まだここにいるの?」
「いいえ、そろそろ帰ります」
阿花里は父と顔を合わせる気まずさを拭えていなかったけれど、これ以上、父を心配させたくなかった。
「裸足だと足元が危ないから、僕が送ってあげるよ」
青年はしゃがんで、阿花里の膝下に右手を通した。そして、左手は阿花里の左腕をつかんで立ち上がる。つまり、阿花里は抱っこされた状態になった。
「えっ、あのっ! えぇっ!!」
焦って引きつった顔の阿花里とは対照的に、青年は軽いと言わんばかりに余裕の笑みを浮かべている。
「だっ、大丈夫です! 裸足でも歩いて帰れます! 私、えっと、その……つ、土や草を足で直に感じるのが好きなんです」
「そうなの? どうして?」
「それは……自然と一体になれるかなって」
青年はくすくす笑いながら、小刻みに震えた。
その振動が阿花里にも伝わってきて、体がくっついていることを気づかせる。男性とこんなに密着するなんて、阿花里には初めてだった。恥ずかしくて俯く。
「警戒しているの? 別に、君をさらおうとしているんじゃないよ。ちゃんと送ってあげるから安心して。僕は弓削峯理。忌部殿に用があって、京から来たんだ」
忌部氏は玉の管理をしている一族で、玉作り職人たちと同じく、玉祖命を祖神としている。
阿花里は真佐弥に連れられて、忌部氏の屋敷を何度か訪れたことがある。
「馬に乗せてあげるよ。君、馬に乗ったことある?」
答えようと、阿花里は顔を上げた。だけど、峯正の顔がすぐそこにあることに驚いて、また下を向いた。
身動きの取れない峯理の腕の中。阿花里はどうしたらよいのかわからず縮こまる。
「忌部様のお屋敷で、遠くから馬を見たことはあります。でも、乗ったことは……」
「それなら、僕と乗るのが初めてなんだね」
「はい」
峯理は立ち止まり、阿花里を地面に下ろした。
そこには駒つなぎの幹につながれた、栗毛の裸馬が一頭いた。
駒つなぎは草のように見える低木。幹は細いけれど、馬の手綱をつなげるくらい頑丈だ。
阿花里は初めて、近くで馬を見た。けたたましい嘶きと、想像していたよりも大きな体に身がすくんでしまう。
「この馬は人に慣れているみたいだから、そんなに怖がらなくて大丈夫だよ。僕と同じように乗れるかな?」
峯理は近くの枝股に足をかけて、馬に乗った。
「どう? 僕の後ろに乗れそう?」
「やってみます」
峯理は阿花里が枝又に足を乗せて体を動かしやすいよう、馬を少し前に移動させた。
袴を履いていることもあり、阿花里は峯理の助けを借りて、意外とすんなり跨って乗ることが出来た。
「馬って、こんなに高いんですね」
「怖くない?」
「大丈夫です」
未体験の高さから見渡す光景に、阿花里の好奇心が恐怖心より上回る。
「今から馬をゆっくり走らせるよ。しっかり捕まって」
「捕まるって、峯理様が握っている紐にですか? 届くかな……」
峯理はふっと息を吐くように笑った。
「君がそこから馬を操ってくれるの?」
「捕まるといえば、紐かなと思ったんですけど、違うんですか?」
「僕に捕まってってことだよ」
阿花里は再び考えた。峯理の腕だと、馬を操るのに邪魔になるはず――。
とことん悩んでいる阿花里を見て、峯理は誘導してやることにした。
「こうすると安全だから」
阿花里の手を取って、峯理のお腹で組むようにさせる。阿花里の顔が峯理の背中に、とんっとぶつかった。
「すみません」
阿花里は慌てて顔を離した。
「僕のことは気にしないで、出来るだけ楽な姿勢で捕まってて。それで、君の家はどこ?」
「あの山の麓です。そこの道なりをずっと進むと、私の住んでいる集落に着きます」
阿花里は組んだばかりの手をそろそろと離し、体勢を整えた。そして、恵珠山と近くの道を指し示す。
道端では、お日様に向かって黄色い花を咲かせていた野芥子が、眠りにつこうと萎み始めていた。
「わかった。それじゃあ行くよ」
阿花里の手が組まれたのを確認すると、峯理は馬を走らせた。
阿花里は少し顔をずらし、横を向く。
峯理の狩衣から漂う芳香に、阿花里は夢心地になる。頬が狩衣にあたると、しなやかな花びらに包まれているような気分になった。
「平気? 怖くない?」
「はい、大丈夫です」
阿花里は普段見慣れている景色が、流れるように速く変わっていくのを不思議な気持ちで眺めていた。
「この先に集落が見えるけど、そこでいいのかな? このまま進んで大丈夫?」
峯理は阿花里に見えるように馬を止めた。
集落で馬に乗ったことのある者は皆無だ。蹄の音を聞き、身分の高そうな青年と一緒にいる阿花里を見たら、騒ぎになるかもしれない。
そう考え、阿花里はここで降ろしてもらうことにした。
「足元に気をつけて帰るんだよ」
「はい。送ってくださって、ありがとうございました。馬に乗せてもらって楽しかったです」
馬上での清々しい風を思い出したら、阿花里は自然と笑顔になった。
「君は最初、元気がないように見えたけど、笑った顔を見ることが出来てよかった」
峯理は微笑みながらそう話すと、優雅に袖をはらりと翻して馬に乗った。そして、立ち去る挨拶をするかのように、阿花里のほうを向いて手綱を引き、馬の前足を上げる。
峯理は来たほうへと向きを変え、馬を疾走させた。
さっきまで起こったことは夢なのかと思ってしまうほど、阿花里の視界から峯理はあっという間に姿を消してしまった。
