玉響恋物語

 守彦は麗瑞から実嗣の教育係を要請された時、実嗣の身の上話を聞かされた。

 麗瑞と実嗣の父――三善有実(みよしありざね)が、陰陽寮で将来有望な若手として活躍していた頃のこと。

 仲の良かったふたりは、暇つぶしに市場を散策していた。

 その時、場内を行ったり来たりと、うろうろしている少女がいた。

 山吹色の小袖と腰に(しびら)を巻き、涼やかな目元が印象的な美少女で、すれ違いざまに振り返る人は少なくなかった。

 何か困ったことでもあるのかと心配になった麗瑞が、少女に声をかけた。

 道に迷ったのではなく、少女は初めて訪れた市場に目を引かれ、同じ商品を何度見ても楽しくて歩き回っていたと言う。

 ふたりが安心して少女と別れて少し経った頃、女性の叫び声が聞こえてきた。

 麗瑞と有実が声のするほうへ走っていくと、さっきの少女が中年の男に腕をつかまれていた。

 周りにいる者はその男を怖がって、誰ひとり助けようとしなかった。

 麗瑞は男に向かって、少女を放すように言う。

 被支配者層のその中年男は、明らかに自分より身分の高そうな若者に歯向かおうとはせず、すぐに逃げていった。

 麗瑞と有実は少女を家まで送ってあげることにした。

 民家を通り越して辿り着いたのは、涼しい風の吹く山の麓だった。

 家はすぐそこだからここで大丈夫だと少女に言われ、ふたりは帰ろうとした。けれど、家らしい建物が見当たらないので不思議に思い、ふたりは少女の後をつけていった。

 山道をしばらく歩いて行くと、一軒家が見えてきた。茅葺き屋根の小さな掘立柱建物だった。

 少女は家の中に入ろうとした時、突然足を止めてしゃがんだ。

 市場で男に腕を引っ張られ、腕にはめていた貝輪の紐が切れかかっていたらしく、通していた貝殻が地面に落ちてしまった。

 少女は落ちた貝殻をすべて拾って立ち上がると、麗瑞と有実がいるのに気づいた。とっさに両手を頭の上に乗せたので、せっかく拾った貝殻を再び落としてしまう。

 手を頭の上に乗せたのは、自分の体の異変を隠そうとしたからだった。

 けれど、麗瑞と有実はしっかり見ていた。鋭利な刃物のように尖って伸びた爪だけでなく、手で隠された二本の白い角を。

 ふたりの陰陽師は少女を人ならざるものと判断し、刀印を結んで用心しながら近づく。

 すると、少女は殺さないでと泣き出してしまった。

 泣いた理由を尋ねられると、母鬼が少し前に、同じ動きをした人間に殺されたからだと説明した。

 その時、少女は母鬼の近くにいた。けれど、恐ろしくて声が出なかったのと、死角にいたために気づかれなかったらしい。

 それから孤独な生活が始まった。

 少女は幼い頃、成長するまで人里へ行くなと、母鬼に言われていた。だけど、ひとりぼっちの寂しさが、少女を山の外へと誘う。

 母鬼がやっていたように貝輪をはめてみると、少女も人間の姿に変わった。

 二枚貝をつなげて作られたこの貝輪は、代々受け継がれているもの。(はる)か昔、人間の姿になりたいと願った鬼に陰陽師が与えたものだと、少女は母鬼から聞いていた。そして、この貝輪と引き換えに、人間を襲わないことを約束したそうだ。

 この貝輪を与えた陰陽師は、血の臭いに誘われて鬼の本性が顔を出さないよう、その貝輪に血が付くと、はめている鬼の活力を吸い上げるよう、念のために術をかけていた。

 すぐに血を拭き取れば、はめている鬼の活力も次第に元に戻るそうだ。

 貝輪が壊れてしまったので、少女はずっとこの山の中で、ひとりで過ごさなければならなくなったと嘆く。

 有実は自分の首にぶら下がっている白瑪瑙の勾玉を外した。勾玉を袂に入れると、地面に落ちている貝殻をひとつずつ拾って、手に持っている紐に通していった。

 この紐に呪物を通していると、その力を促すことが出来るのだと、有実は少女に伝える。そして、落ちていた貝殻をすべて拾い終えると、少女の腕の太さに合わせて紐を結んだ。

 少女は嬉しそうに、何度も何度も有実にお礼を言った。

 麗瑞と有実はこの少女が人に害を与えることはないだろうと確信し、下山することにした。

 それから二週間後、麗瑞は借りていた書物を返しに、有実の屋敷を訪れた。

 渡り廊下を歩いていると、ぱたぱたと駆けてくる少女がいた。山で別れた鬼の少女だった。

 少女は隠してと言って、麗瑞の背後に回る。そして、黙っていてねとお願いした。

 麗瑞は訳がわからず、その場に立ちつくす。

 すると、有実が現れた。麗瑞や他の女性にも向けたことがないくらい、有実は優しい眼差しで近づいてきた。涼風(すずかぜ)、そこだね、出ておいで……と声をかける。

 少女――涼風がひょこっと顔を出すと、有実は慈しむように頭を撫でた。

 見つけられた涼風は悔しそうな顔を見せたけれど、すぐに笑顔になった。

 有実の部屋に菓子を持ってくるよう頼まれると、涼風はぱたぱたとどこかへ走っていった。

 有実は麗瑞が尋ねる前に、あの少女を引き取ったと話した。不憫に思えて、面倒をみることにしたのだそうだ。

 ここで暮らすために、涼風が鬼だという記憶を消し、遠縁の有実に引き取られたという過去を埋め込む。

 そして、亡くなった母親の形見だから、絶対に貝輪を外さないようにと伝えた。

 有実は口裏を合わせてほしいと、麗瑞に頼んだ。

 涼風は有実に懐いていて、居心地も良さそうに思えたので、麗瑞は承諾した。

 以後、麗瑞が有実の屋敷へ行くと、涼風も顔を出して会話を楽しんだ。

 しばらくして、涼風は几帳越しで麗瑞と接した。裳着(もぎ)の儀を行い、有実の妻になったからだ。

 麗瑞は驚いて、後からやってきた有実に真偽を確かめる。

 涼風を手放したくないのだと、有実ははっきりと言った。

 それから、有実と涼風との間に、実嗣が生まれる。

 その頃から、麗瑞は有実の体の変化に気づく。

 走るのは麗瑞のほうが速かったのに、有実のほうが圧倒的に速くなった。しかも、疲れた様子がまったく見られない。

 それだけではなかった。有実は怪我をしても、回復が異様に早くなった。

 不思議に思った麗瑞は、涼風と結婚したことが関係しているのかもしれないと、鬼について綿密に調べることにした。

 そこで、気になる記述に目を止めた。それは、しばらくの間、鬼と情を交わすと、人外の力を得るという言い伝えがあることを知る。

 麗瑞は本当なのか尋ねようと、有実の屋敷へ行った。

 まだ帰宅していなかったので、待たせてもらうことにした。けれど、帰ってくる気配がまったくなかったので、日を改めようと家に帰った。

 すると、麗瑞の屋敷に、検非違使庁の役人たちがやって来た。

 有実をかくまっていないかと尋ねる。有実が八尺瓊勾玉を盗もうとして失敗し、瀕死の状態で逃げたので探していたのだ。

 以前、有実は三種の神器を見てみたいと話したことがあった。

 世を()べる証として受け継がれているならば、神器を手にした者は誰でも天皇になれるのか。

 妖や鬼を退治し、命がけで世を平安に保つ働きをしている陰陽師が三種の神器をそろえれば、天皇になる資格があるのではないか。

 有実が冗談っぽくそう言っていたことを麗瑞が思い出していると、涼風から文が届いた。夫の罪は自分が償うということと、実嗣のことを気にかけてほしいという想いが綴られていた。

 嫌な予感がして、麗瑞はふたたび有実の屋敷へ行く。

 すると、涼風は手首から血を流して倒れていた。白かった貝輪が真っ赤に染まっている。

 貝輪に血が付くと、はめている鬼の活力を吸い上げる――。初めて涼風に会った時、そう話していた。

 麗瑞は貝輪についている血を急いで拭いた。けれど、拭き取っても、なぜか貝輪は赤く染まったままだ。

 涼風が息を引き取り、麗瑞が貝輪を外すと、次第に貝輪は白い色に戻っていった。

 涙を懸命に堪えながら母の死と直面した実嗣を見て、麗瑞は息子として育てることを決意する。

 実嗣に鬼の血が混ざっている様子は、傷の治りが早いこと以外に見当たらなかった。だけど、念のために母親がしていた貝輪をはめさせる。

 そして、父親と同じ俊足の能力が出ないよう、迅速に移動したい時は、創造の鳥に乗って空を飛べるよう貝輪に呪文をかけた。

 さらに、実嗣が鬼として覚醒し、麗瑞ひとりでは手に負えなくなった場合を想定して、屋敷神の守彦に協力してもらうよう頼んだ。

 実嗣がこのまま人間として暮らしてほしいと思い、麗瑞と守彦は血筋のことを実嗣には話さないことを決めた。

 だから、麗瑞は実嗣に事実を曲げて伝えていた。貝輪に血が付くといけない理由――。貝輪の効力が失われるからではなく、本当は血の臭いに誘われて鬼の本性が顔を出さないようにということを。

「――様? 守彦様? どうかされたましたか?」

 あまりにも長い時間、守彦が黙ったままなので、実嗣は声をかけた。普段なら、こちらが話す間を与えないくらい話してくることもあるのに。

「いや、何でもない。ところで実嗣、おまえはまだ若い。これから先も幾多の縁が、波のように次々と押し寄せるであろう。荒波にもまれたかと思えば、さざ波に癒されることもある。その波がなぜおまえに訪れたのか、どう乗り越えればよいのか、篤と考えよ。そして、乗り越えたら前を向いて進め」

 守彦はそう告げると、握っていた茎を前方に傾け、再び飛翔葉を前進させた。

 祓殿に着くと、実嗣は阿花里を床に寝かせる。

 すると、宮司が目を覚ました。半妖になっていたことを実嗣から聞かされる。妻のことを考えると、闇に堕ちてもいいという気持ちに(あらが)うことが出来なかったと打ち明けた。

 宮司は妖に会った時のことを話し始めた。

 妻の服の切れ端を見つけた翌朝、宮司は再び川べりを歩いていた。その時、一本足とひとつ目の妖に黒い靄のようなものを吹きかけられた。

 妻の仇を討つためには、普通の人間の力では絶対に無理だろう。妻をさらった相手は、おそらく陰陽師。そう思い、宮司は闇に足を踏み入れることにしたのだ。

 復讐を遂げるまでは、祓われたくない。だから、呪いを無効化する能力を宮司は望んだ。

 宮司は社に戻ると、祓殿へ向かう実嗣の姿を目にした。妻の失踪について問い詰めようと、急いで実嗣を追う。

 実嗣は人形代に向かって、何か唱え始めていた。

 その人形代を使い、今まさに悪事を働こうとしているのではないか。宮司はそう思い込み、実嗣の手から人形代を奪い取った。けれど、実嗣に紐で縛られてしまい、動けなくなってしまった。

「実嗣さまに常闇の勾玉を向けられても無反応だったのに、なぜ私は浄化されたのでしょうか」

「作りたる者が祓ったのです」

「阿花里さんが!?」

 実嗣は宮司に阿花里から聞いたことを話した。

 そして、宮司の妻の失踪に、自分は関係がないことを説明する。

 実嗣が祓殿で呪文を唱えていたのは、尋常ではない禍々しい気を感じたので、悪気のもとを探すよう、人形代に命じていたこと。

 その悪気の元は、川の淵に住む怪物で、実嗣ではない別の陰陽師を操り、陰陽師の仕業と思わせるために人形代を置いたり、怪物に代わって人をさらってきたりしていたこと。

 それから、最後にいちばん話しづらいこと――宮司の妻が、その怪物の犠牲になっていたことを話した。

 宮司は力なく立ち上がった。そして、涙を隠すように、俯きながら祓殿を出て行った。

「実嗣、わしはひと足先に京へ帰るぞ。麗瑞から頼まれていることを中断して、ここへ来たからのぅ」

「そうでしたか。ありがとうございます」

「では、わしから麗瑞に報告しておく。とうとう実嗣が阿花里の衣を脱がせておったと」

「理由をきちんと説明しておいてください!」

「気が向いたらな」

「守彦様!」

 守彦はにかっと微笑み、去っていった。

 阿花里は仰向けになって眠ったままだ。

 実嗣は阿花里の側に寄り、腰をおろす。

 最初は阿花里と誓約を交わすつもりなんて、まったくなかった。だとしたら、阿花里との出会いに、どんな意味があるのだろう。

 実嗣は阿花里の寝顔を見ながら考える。守彦の言葉を借りれば、阿花里を……さざ波のようだと思った。

 静かな波に心地よく揺られているように、今は一緒にいると心が穏やかになる。水面に立つ細かい波がきらきらして美しいように、あのまばゆい瞳は明るい気持ちにしてくれる。そして、いつまでも聞いていたい心安らぐ波音のように、阿花里の(うら)らかな声は癒してくれる。

 阿花里は実嗣にとって、必要な存在だった。

 阿花里から見た実嗣の初対面の印象は、間違いなく悪いはず。

 でも、実嗣が阿花里に対して感情が変わっていったように、阿花里も気持ちに変化が生じていないだろうか。

 こうやって身を(てい)してかばってくれたのだから、少しくらいは好意を寄せてくれていると思いたい。

 実嗣ははっきりと自分の気持ちに気づいた。俺を好きになってほしい……と。

「無理……」

 阿花里が言い捨てるように呟いた。

「えっ!? 俺は声に出していたのか?」

「この石、硬すぎるよ……」

 どうやら、阿花里は玉作りの夢を見ているようだった。

 実嗣はほっとしたと同時に、寝言と思わず、うろたえてしまった自分に驚く。

 こんなことに動揺していたら、ますますあのことを知られたくない。

 あのこと――実嗣の父が咎人(とがにん)だということ。父が八尺瓊勾玉を盗もうとしたなんて、阿花里の耳には絶対に入れたくない。

 八尺瓊勾玉は玉作り職人たちの祖神が作った勾玉と伝えられている。天皇が継承している至宝で、職人たちにとっては誇りとも思える品のはずだ。

 人を好きになると、こんなにも相手の感情が気になるなんて知らなかった。それに、こんなにも触れたくなってしまうなんて、思いもしなかった。

 唇を重ねてみて、抵抗されなかったら――。

 眠っている今なら、抵抗されないだろう。でも、それは合意にはならない。その先は気持ちが通じ合っていないと、実嗣には出来ない。

 ここまでなら許してくれ――。

 溢れてしまった想いに導かれるように、実嗣は阿花里の額に唇を近づけた。

*****

「よいしょ! 父さん、この碧玉よさそうだよ!」

 阿花里は両手で碧色の鉱石を手に取り、父に見せる。

 ふたりは恵珠山で、玉材を採掘しているところだ。

「その大きさなら、言霊に応える勾玉をたくさんを作れそうだな」

「うん! 私、頑張っていっぱい作るよ! 実嗣様から使いきれないって言われるくらいに!」

 阿花里は鉱石を籠の中に入れると、何度も父をちらちらと見て、話してみようか考えていた。

「どうした、阿花里? 父さんに何か話があるのか?」

「う、うん。あのね……父さんは言霊に応える勾玉を作ってた時、麗瑞様みたいに勾玉を持って、呪文を唱えることってあった?」

「いや、作るだけで使うことなど一度もなかった。そもそも、父さんに出来るはずがないだろう」

「そうだよね。それって麗瑞様たちのお仕事だもんね」

 やはり変なことを訊いてしまったと思い、阿花里はすぐに話を終わらせた。

 玉祖命の言葉どおり、阿花里は言霊を吹きこむことが出来た。それは、阿花里の中に弓削家の血が流れていることの、まぎれもない証拠だ。

 だから、父にはなかった責務を阿花里は話さないことにした。

 以前、父と口論になった時、なぜ隠しごとをするのかと阿花里は責めた。だけど、あの時の父の気持ちが初めてわかった。

 大切な人を心配させたり、困らせたりしたくないからだ。

 だから、宮司の闇を祓ったことも、父には内緒にしておいた。京に住む阿花里の親戚が、亡くなってしまった一連の出来事も――。

「今日はもうこの辺にして帰ろう」

 父に言われ、阿花里は採掘道具をしまう。渇いた喉を潤そうと、籠に入っていた竹筒を取り出した。

 水を飲もうと、手を近づける。黄土色の袖が目に入り、手を止めた。ちょっと前までは、地味な色の服ばかり着ているのが嫌だった。

 けれど、今は違う。作業衣を着た阿花里を見て、大地に育む可愛い花に例えてくれる人がいたから。

「行くぞ、阿花里」

「待って、水を飲みきっちゃうね」

 阿花里は急いで水を飲むと、籠を背負い、父と並んで歩き出した。

 父と母もこうやって、ふたりで並んで恵珠山を歩いたのだろうかと、阿花里は考え始めた。

 言霊に応える勾玉が縁となり、父と母は出会った。そして、一度もそのことで会話を交わさなかったのに、ふたりは結ばれた。しかも、身分違いの恋――。

 父は知らなかったとはいえ、官人の娘を妻にした。母は京に住んでいたのに、地方に住む職人の父に嫁いだ。

 もし、最初から母の正体を父が知っていても、夫婦になったのだろうか。

 阿花里は自分の中に芽生えた感情を、このまま育てていいのか悩んでいた。

 大蛇の毒から癒え、阿花里が祓殿で目を覚ました時のこと――。その時、実嗣の顔がものすごく近くにあった。

「きゃぁーー!」

「うわぁっ!」

 阿花里の叫び声と呼応するように、実嗣も大声を出した。

「すみません! 実嗣様の顔があまりにも近かったので、びっくりしてしまって」

「ね、熱があるかどうか、額に触れてたからだ」

 実嗣にそう言われて、阿花里はおでこに何かが触れた感覚で目を覚ましたことに気づいた。

「熱、ありました?」

「たぶん……ない」

 たぶん……という曖昧(あいまい)な言い方が少し気になったけれど、体調が悪くなかったので、阿花里はそれ以上何も訊かなかった。

「私、あの大きな蛇に襲われてしまったんですよね。今は痛みがまったくないんですけど」

 阿花里はゆっくりと上半身を起こした。

「毒牙にやられたので祓った。だから、もう大丈夫だ」

 実嗣は阿花里の様子を見て安堵の表情を浮かべたけれど、すぐに暗い表情になった。

「俺のために、おまえを犠牲にしてしまった。……本当にすまない」

「いえ。実嗣様でなければ、あの大きな蛇を倒せないですから。実嗣さまが無事でよかったです。だって、私たちふたりとも助からなかったかもしれませんよ」

 心底すまなさそうにしている実嗣を見て、阿花里はとっさにそう言った。

 本当はあの時、考えるより先に体が動いていた。すくんでしまうほど恐ろしかったはずなのに。

「それで、あの大きな蛇はどうなったんですか?」

「二度と現れないよう始末した」

「これで、この辺りでさらわれる人はいなくなるんですね。ありがとうございます。でも、恒道様は……」

「残念だが、亡くなってしまった」

「……あれは夢ではなかったんですね」

「ああ。おまえまで危険な目に遭わせて、本当に申し訳ない。おまえの身にまた何か起こったら……そう考えると、つらい。だから、おまえが作りたる者を辞めたいと言えば、俺はそれを受け入れる」

「実嗣様は私に辞めてほしいのでしょうか?」

「そうじゃない! 俺はおまえと誓約を交わしてよかったと思っている」

「私もです。私、自分にも誓ったんです。玉祖命様のお考えどおり、実嗣様が使いたる者でいる限り、私も作りたる者でいるって。それに、実嗣様にも誓いました。実嗣様に言霊に応える勾玉を作り続けるって」

 健気な阿花里に、実嗣はたまらず阿花里を抱きしめた。

「えっ、さ、実嗣様!?」
「おまえが毒に苦しんでいる間、本当に気が気ではなかった。もう二度とあんなことが起きないよう、俺が絶対におまえを守る」

 強く抱きしめる腕に、阿花里はなんとなく覚えがあるような気がした。だけど、いつどこでだったのか、さっぱりわからない。

 阿花里は宙ぶらりんだった両腕をおずおずと挙げ、実嗣の袖をきゅっとつかんだ。

「す、すまない!」

 実嗣は自分が何をしているのか気づき、慌てて体を離した。

「今度は何を謝っているんですか?」

「その、俺がおまえを思わず……だ、抱きしめてしまったからだ。本当にすまない」

「いえ、そんなに謝られると…………悲しいです」

「嫌……ではないのか?」

「……はい」

 阿花里は母の形見の小袖を初めて着た時を思い出す。あの時のふわふわした気持ちに、今は胸がくすぐったくなるような高ぶりも加わった感じがした。

嫌ではない、どころか……嬉しかった。

 実嗣はもう一度阿花里を抱きしめて、本当に大丈夫か反応を確かめてみようとした。

 実嗣が両手を広げたちょうどその時、伝鳥がやってきた。伸ばした実嗣の腕に、ぴょこっと止まる。

「フジワラノカネノブサマノオヤシキデ、メダマノクロイオトコガ、ケタケタワライナガラ、イエノナカヲハシリマワッテイルラシイワ。サネツグ、イマスグムカッテチョウダイ」

「麗瑞様からの伝言ですね。実嗣様、手を広げて伝鳥を待ってるなんて、来るのがわかっていたんですね! 実嗣様ってやっぱりすごいです!」

 尊敬の眼差しで見つめる阿花里に、実嗣は後ろめたくなった。やたら早口で、麗瑞への伝言を返す。

「では、俺は今から京へ戻る。何かあったら、遠慮なく連絡してくれ」

「はい、ありがとうございます」

 実嗣は我隠在無の術をかけて消えた。

 姿は見えないけれど、阿花里は実嗣を見送ろうと、じっと戸口を見つめる。すると、ぎゅっと抱きしめられる感覚がした。

「誰!? 実嗣様……?」

 返事はなかったけれど、抱きしめる力が強くなった。

 さっきみたいに謝ってほしくない。阿花里はこの気持ちを伝えようと、相手の背中に手を回してみた。

 すると、阿花里の頭の上に、頬を寄せる感触がした。

 阿花里を包む力がなくなると、戸口に置いてあった沓が、次第に見えなくなっていった。

「――阿花里、阿花里?」

 父の呼びかける声が、阿花里の意識を祓殿ではなく、恵珠山へ連れ戻した。

「阿花里、顔が赤いな。具合が悪いのか?」

 真佐弥が心配そうに、阿花里の顔を覗き込む。

「ううん。まだ採掘しても構わないくらい疲れてもいないし、元気だよ!」

「なら、よかった。今日は志久那や多津岐たちと一緒に、夕飯を食べる約束だ。急いで帰るぞ」

「はーい」

 夕暮れ時の少しひんやりした風に吹かれても、阿花里の頬はまだ熱を帯びていた。

 阿花里が実嗣のために出来ること――。言霊に応える勾玉を作ることで、阿花里にしか出来ないことだ。

 そのことを誇りに思うことが、実嗣を大切に想うことに繋がるような気がした。

 身分の差もあるけれど、自分の気持ちを押し付けたくない。一緒にいるだけで、幸せな気持ちになれるから。

 次に会う時は、もらった小袖を着ていこう。

 幾重にも重なり合う夕焼け雲を眺めながら、阿花里は実嗣に会いたい気持ちを募らせていった。