阿花里は小袖の裾や袖を何度も見ながら歩く。作業衣の小袖とは違って身の丈と同じ長さのせいか、足首がくすぐったい。
初めて着る明るい色の衣。心だけでなく、体もふわふわと浮き立つようだった。
真佐弥もきちんとした身なりをしている。白い直垂と柿渋色の括袴姿。普段は短めの後ろ髪をひとつに結んでいるだけなのに、今日は萎烏帽子をかぶっている。
そろそろ、玉造の社が間近になってきた。
後ろにいる阿花里に話しかけようと、真佐弥は歩を緩めて振り返った。そして、阿花里の歩幅に合わせ、並んで歩く。
「これから会うのは……京に住んでいる方たちだ」
「京から、わざわざ父さんに?」
「父さんの作る勾玉をお仕事で必要とされている。だから、こうして時々お会いして、手渡しているのだ」
玉作り集団の作る玉は、忌部氏を介して流通している。父が京の人と直接やり取りをしているのは、阿花里にとって初耳だった。
「どんな仕事をしている人たちなの?」
「人々が平和に過ごせるよう、お祈りをされたり…………鬼や妖などを退治されたりしているそうだ」
「お、鬼ーっ!?」
阿花里は父の言葉だけではなく、素っ頓狂な自分の声にも驚く。
「その人たちはお守りとして、勾玉が必要ってことなの?」
「……もう社に着いた。お待たせしているといけないから急ぐぞ」
真佐弥は歩幅を元に戻し、阿花里の質問を聞き流した。
ふたりは玉造の社のひとつ目の鳥居をくぐった。
ふたつ目の鳥居の先には石段がある。鬱蒼と茂る常緑の低木に左右を挟まれ、階には枝葉の影が出来ていた。
石段を上りきると、開けた視界の先に拝殿が見えた。参拝客はひとりもいない。清浄な場所を示す注連縄は、鳥居で見たものよりも大きくて太い。
その拝殿の奥には、御神体がおさめられている本殿がある。
本殿のほうから宮司が歩いて来た。
色素がすっかり無くなってしまった白い髪と、ほっそりした顔に刻まれた複数の深い皺。老齢ではあるけれど、背筋がすっと伸びている。白衣と紫色の袴姿に、高潔さが滲み出ていた。
「真佐弥さん、今日は娘さんと一緒なのですね」
宮司は孫でも見るような眼差しで、阿花里に微笑んだ。
この社に祀られている玉祖命は、玉作り集団が祖神として崇めている神だ。玉祖命は三種の神器のひとつ、あの八尺瓊勾玉を作ったと伝えられている。
「真佐弥さん、お客様はもう祓殿にいらっしゃいますよ」
「そうですか。では急いで向かいます」
宮司に一礼をし、阿花里たちは祓いを行う社殿へと急いだ。
客は真佐弥と会う時はいつも、滅多に人が立入るのことのない祓殿を利用させてもらっていた。
泣く子も黙るという鬼。そんな恐ろしい鬼を退治するなんて、いったいどんな人なのだろうと、阿花里は想像してみる。
獰猛な顔つきに、大きな図体。そして、毛むくじゃらの手足。もじゃもじゃっとした胸毛も追加して……野獣と化していった。
そして、ぼてっとした腹が露わになった褌姿で、武器の棍棒を持たせる。これが阿花里の考えた、人類史上最強の人物像だった。
阿花里と真佐弥は祓殿の真正面に来た。
足の付け根あたりの高さに床があり、阿花里は小さな軋み音を立てながら階段を上った。
「お待たせして申し訳ありません。真佐弥です」
「どうぞ、入ってください」
少し低めで、よく通る男性の返事が聞こえてきた。
建物の中は意外と広い。座っても体が痛くならないよう、床板の上には薄畳が敷かれている。
調度品は必要最小限の物だけ。顔や手足を洗うための木製のたらい、硯箱を乗せた文台、照明具の燈台だけの簡素な室内だ。
「真佐弥、いらっしゃい」
もう一人、男性がいた。女性のように柔らかい声で話すけれど、無理やり作った高音の声だ。
阿花里はその男性に、思わず見とれてしまう。
形の整った眉と、艶かしい眼。そして、薄くて形の良い唇。女性と見紛うような、見目麗しい顔立ちをしている。
月のように白い狩衣と闇のように濃い藍色の指貫を身にまとい、座っていると床についてしまいそうなほど長い髪は、瞳と同じように艶やかで美しい。女性のように頭を露出していて、烏帽子をかぶってはいなかった。
阿花里は父と横に並んで座る。
目の前にいる二人の男性の間には、衣の中に桃でも隠しているのかと思うほど、お腹がぽっこり突き出たたぬきが、二本足で立っていた。灰白色の狩衣と指貫姿で、さらに烏帽子まで乗せている。
なぜ、たぬき? たぬきを着飾って連れ歩くのが、京では流行っている? 阿花里はそんなことを考えながら、膨れ上がったお腹をつついてみたい衝動に駆られる。
「遅れてすみません」
真佐弥が手をついて謝った。
たぬきに気を取られていた阿花里は、慌てて同じように頭を下げる。
「気にしないで。温泉に入りたかったから、早く来ちゃったの。やっぱり玉造のお湯はいいわね。お肌つるんつるんよ」
長髪の男性はうっとりとした顔をしながら、手のひらで両頬をすりすりとさすった。
真佐弥は年若い男性に視線を移して、お辞儀をする。
長髪の男性と同じ月白色の狩衣を着て、濃藍色の指貫を履いていた。
その男性は無言のまま、真佐弥に挨拶を返した。ところが、少し遅れて会釈した阿花里には無反応だった。
真佐弥は最後に、たぬきを見る。そして、恭しく頭を垂れた。
他の人にはたぬきではなく、もしかして人間に見えている? 阿花里はそんなことを考えながら口をぽかんと開け、目をこすってはたぬきを凝視する……を繰り返した。
長髪の男性は閉じたまま手にしていた蝙蝠扇を少し広げて口元に添え、阿花里を見てくすくすと笑った。
「真佐弥、阿花里ちゃんに私たちのこと話してないの?」
「申し訳ありません。なかなか言い出せなかったもので、詳しくは……」
「それじゃあ、私から阿花里ちゃんに伝えるわね」
「はい、お願いします」
長髪の男性は頷いて、阿花里のほうへ体を傾けた。
「私は賀茂麗瑞。国の安泰を維持するため、京で占いをしたり、呪いを唱えたりしているの」
麗瑞は扇をさっと全開にして、しなやかに扇いだ。
阿花里が思い描いていた客人像――棍棒を持った野獣のような大男とは、似ている要素が何ひとつなかった。
麗瑞が手にしているのは棍棒ではなく、色彩豊かな鳥が描かれた美しい扇だった。
「そこにいるのは、息子の実嗣。歳は阿花里ちゃんより、ふたつ上よ。私と同じ仕事をしているの」
阿花里は実嗣と麗瑞を交互に見た。
顔のつくりもそうだけれど、雰囲気がまったく違う。艶やかな麗瑞とは異なり、実嗣は凛々しかった。
阿花里の視線に気づくと、実嗣は撥ね除けるように一瞥した。
「実嗣も何か話しなさいよ」
「俺は特に話すことはないです」
興味なさそうに、ぼそっと話す。戸口付近から聞こえてきた声と同じだった。
「実嗣、女子と接する時は、最初の印象が大事じゃ。まずは笑顔だと、わしはいつも言っているだろうが」
阿花里は声のするほう――たぬきを見た。
すると、たぬきは阿花里に向かい、歯をむき出しにして、にかっと笑った。
「えぇっ! た、たぬきが、しゃべった!?」
「やっぱり最初は驚くわよね」
阿花里の反応に理解を示しながらも、麗瑞は可笑しそう目を細める。
「京のたぬきって、しゃべるんですね! すごいです!! 人と同じようにしゃべるから、服を着ているんですね!」
「……そんなわけないだろ」
お腹を抱えて笑っている麗瑞の代わりに、実嗣が呆れ顔で答えた。
「阿花里とかいう、そこの娘。さっきから、たぬき呼ばわりしておるが、わしは賀茂家の屋敷神じゃ。守彦という立派な名前もある。見た目が少ぉしだけ似ているからといって、たぬきと決めつけるでないぞ。折角おまえたち親子にも、わしの姿が見えるようにしてやっているというのに。それから実嗣! たぬきではないと、まずははっきり否定すべきであろう!」
守彦は手にしていた蝙蝠扇を実嗣にぴしっと向け、きぃっと睨んだ。
父が丁寧にお辞儀をした理由が、やっと阿花里にもわかった。見た目はどうあれ、あのたぬきは神様だったのだ。
「守彦様には実嗣の教育係もしてもらってるのよ」
麗瑞は阿花里にそう付け加えた。
まさか、目の前に神様がいるなんて――。阿花里はたぬき……ではなく、きつねにつままれたような気分になった。
「阿花里ちゃん、私たちが鬼や妖を退治しているっていう話は、もう聞いているかしら?」
「はい。でも、どのようにですか?」
「力じゃ到底敵わないから、特殊な能力を使うの」
「特殊な……能力?」
「そう。特別に見せてあげるわね」
麗瑞はにっこり微笑んだ。そして、扇をぱたんと閉じて、その先を戸口の方へ向ける。
「光矢眼眩!」
力強い男性の声。それは紛れもなく、麗瑞の口から発せられた。
扇を持つ指先から放たれた光芒が、ものすごい速さで戸口に当たる。そしてその瞬間、周囲がまばゆい光にぱぁっと覆われた。
麗瑞はすっと俯き、光をまともに見ないようにした。実嗣と守彦も瞬時に下を向く。
阿花里と真佐弥は光をまともにくらった。
やっと目が慣れてきた頃、阿花里は麗瑞がこちらを見ているのに気づいた。
「こうやって、敵の目を眩ませるの。そうしたらその隙に、あーんなことや、こーんなこととか出来ちゃうのよ」
麗瑞はすっかり元の声に戻っていた。
「あとはね、道具を用いて、呪いを唱えることもあるの。真佐弥、例の物をもらえるかしら」
「はい」
真佐弥は胸元から麻袋を出し、麗瑞に渡した。
麗瑞は袋に入っている物を腿の上に乗せる。そこには碧玉で作られた一寸ほどの勾玉が十数個あった。
「これは言霊に応える勾玉といって、真佐弥に作ってもらっているの。とーっても大事な道具なのよ。まあ、見ててちょうだい」
麗瑞は勾玉をひとつだけ、右手のひらに乗せた。
「黄泉を統べる伊邪那美命よ。御玉に闇啜る力を分け与い宿し給え」
麗瑞は太い声で詠唱した。
すると、勾玉は閃光に包まれた。光が消えると、勾玉の色が檜扇の実――ぬばたまのように真っ黒になっていた。
「これはね、常闇の禍玉っていうの。悪い気を吸い込んでくれるのよ。それから、もうひとつあるの」
麗瑞は常闇の勾玉を腿の上に置き、すぐ横にある碧玉の勾玉――言霊に応える勾玉をもう一個つまんで、手のひらに乗せた。
「数多の神を生みし伊邪那岐命よ。御玉に蘇りの力を分け与い宿し給え」
麗瑞の唱えに反応して、まぶしい光がまた勾玉を覆った。さっきと違うのは、変色した勾玉の色。碧色から麗瑞たちが着ている狩衣と同じ、月白色に変化していた。
驚嘆した阿花里の表情を見て、麗瑞は満足そうに微笑んだ。そして、月白色の勾玉を阿花里に見せる。
「これは浄明の勾玉といって、良い気を放出して、人の体に送り込んでくれるの」
麗瑞はもう片方の手で、常闇の勾玉を持った。そして、ふたつの勾玉の凹凸を合わせる。すると……円の形になった。
「このふたつの勾玉は対になっているの。そして、この勾玉を作る者と使う者も、対になっているのよ」
「それは……父が作ったその不思議な勾玉を使えるのは、麗瑞様だけということですか?」
「そう。誓約を交わしたひと組だけが、言霊に応える勾玉を作り使うことを許されているの」
麗瑞は勾玉をすべて袋に入れて、懐にしまった。そして、両手を床について、体をすいっと阿花里のほうに近づける。
「言霊に応える勾玉を常闇の禍玉と浄明の勾玉に変えたら、こうして持ち歩いているの」
麗瑞は左の袖をまくって、腕を見せた。黒と白の勾玉が交互に紐に通され、腕輪になっていた。
「近々、実嗣を私の後継者にって考えているんだけど、そうなると玉を作る人が新たに必要になってしまうでしょ。だからね、阿花里ちゃんにお願いしようと思って、今日はここに来たのよ」
「私!? 私にも、その不思議な勾玉を作ることが出来るんですか!? 本当なの、父さん!?」
実嗣が訴えるような目をして、麗瑞を見た。
「もしかしたら……と思っていたのですが、やはり女に頼むのですね。どうして事前に、そのことを話してくれなかったのですか!?」
「だって、そう教えたら、実嗣は絶対にここに来ようとしなかったでしょ?」
守彦は両手を腰にあて、何度も頷く。
「麗瑞の言うとおりじゃ。実嗣は女子を避ける傾向があるからのぅ」
「ほんと、女性の話になると、途端に嫌そうな顔をするのよね」
麗瑞は首を傾げながら、肩をすくめる。
実嗣から自分にだけあの冷ややかな視線を向けられた理由が、阿花里にはわかった気がした。
「それって……実嗣様は、男の人のほうが好きということですか?」
阿花里の質問に、実嗣は男性二人と一柱の男神から、いっせいに視線を浴びた。彼らは目を見開き、驚愕の事実を知ったというような顔をしている。
「ち、違う! いや、そういうことになるのか……? いやいや、そうじゃない! 変な言い方をするな!」
誤解された実嗣を麗瑞は哀れんだ目で見ている。けれど、蝙蝠扇で隠した口元は笑いを隠せないでいた。
阿花里は実嗣をからかうつもりなど、まったくなかった。
女性が嫌いなら男性のほうが好き――。ただ単純にそう思っただけで、麗瑞たちが想像したような、深い意味はなかった。
実嗣は躍起になって言い返す。
「女っていうのは、しゃあしゃあと嘘をついたり、平然と裏切ったりする。そして、都合が悪くなると、すぐに泣く。うわべだけ綺麗に飾ってみせても、女なんて信用出来ないのです!」
今度は皆が阿花里を見る。
視線に痛くなって、阿花里は下を向いた。薄紅色の衣が目に入る。
「実嗣はそんな女性としか接してこなかったのかしら? それで女嫌いだったの? 全員そうとは限らないんだから、決めつけはよくないわよ」
麗瑞はやんわりと実嗣を諭した。
「ですが、実際に――」
ふたりのやり取りは、阿花里の耳を素通りしていった。今着ている小袖のことで、阿花里の頭の中がいっぱいだったからだ。
よそゆきの服より作業衣を着たほうが、職人らしくてよかったのかな――。
母の形見の品に難癖をつけられたようで、阿花里は悲しくなった。俯いていると、体中の水分が目に集まってきそうだった。
守彦は実嗣の左肩を蝙蝠扇でぺしぺし叩いた。
「実嗣、可愛らしい娘を見て、ついいじめたくなりおったのか。おぬしは女子に対しては、まだまだ子供だからのぅ」
場を和ませようとしてか、守彦はかっかっかっと豪快に笑った。
今まで事の成り行きを黙って見ていた真佐弥が、一文字に結んでいた口を開く。
「麗瑞様、事前にきちんと阿花里に話していなかった、私の落ち度です。お許しください。阿花里は信じられないような話をたくさん聞いて、気が動転しているのだと思います。あとで私からきちんと説明しておきますので、ひとまず下がらせてもらってよいでしょうか」
「そうね……また日を改めましょう。私も実嗣によく言い聞かせておくわ」
真佐弥は立ち上がって黙礼した。
阿花里も同じようにお辞儀をする。けれど、父とは違い、実嗣の顔を見ることはなかった。
初めて着る明るい色の衣。心だけでなく、体もふわふわと浮き立つようだった。
真佐弥もきちんとした身なりをしている。白い直垂と柿渋色の括袴姿。普段は短めの後ろ髪をひとつに結んでいるだけなのに、今日は萎烏帽子をかぶっている。
そろそろ、玉造の社が間近になってきた。
後ろにいる阿花里に話しかけようと、真佐弥は歩を緩めて振り返った。そして、阿花里の歩幅に合わせ、並んで歩く。
「これから会うのは……京に住んでいる方たちだ」
「京から、わざわざ父さんに?」
「父さんの作る勾玉をお仕事で必要とされている。だから、こうして時々お会いして、手渡しているのだ」
玉作り集団の作る玉は、忌部氏を介して流通している。父が京の人と直接やり取りをしているのは、阿花里にとって初耳だった。
「どんな仕事をしている人たちなの?」
「人々が平和に過ごせるよう、お祈りをされたり…………鬼や妖などを退治されたりしているそうだ」
「お、鬼ーっ!?」
阿花里は父の言葉だけではなく、素っ頓狂な自分の声にも驚く。
「その人たちはお守りとして、勾玉が必要ってことなの?」
「……もう社に着いた。お待たせしているといけないから急ぐぞ」
真佐弥は歩幅を元に戻し、阿花里の質問を聞き流した。
ふたりは玉造の社のひとつ目の鳥居をくぐった。
ふたつ目の鳥居の先には石段がある。鬱蒼と茂る常緑の低木に左右を挟まれ、階には枝葉の影が出来ていた。
石段を上りきると、開けた視界の先に拝殿が見えた。参拝客はひとりもいない。清浄な場所を示す注連縄は、鳥居で見たものよりも大きくて太い。
その拝殿の奥には、御神体がおさめられている本殿がある。
本殿のほうから宮司が歩いて来た。
色素がすっかり無くなってしまった白い髪と、ほっそりした顔に刻まれた複数の深い皺。老齢ではあるけれど、背筋がすっと伸びている。白衣と紫色の袴姿に、高潔さが滲み出ていた。
「真佐弥さん、今日は娘さんと一緒なのですね」
宮司は孫でも見るような眼差しで、阿花里に微笑んだ。
この社に祀られている玉祖命は、玉作り集団が祖神として崇めている神だ。玉祖命は三種の神器のひとつ、あの八尺瓊勾玉を作ったと伝えられている。
「真佐弥さん、お客様はもう祓殿にいらっしゃいますよ」
「そうですか。では急いで向かいます」
宮司に一礼をし、阿花里たちは祓いを行う社殿へと急いだ。
客は真佐弥と会う時はいつも、滅多に人が立入るのことのない祓殿を利用させてもらっていた。
泣く子も黙るという鬼。そんな恐ろしい鬼を退治するなんて、いったいどんな人なのだろうと、阿花里は想像してみる。
獰猛な顔つきに、大きな図体。そして、毛むくじゃらの手足。もじゃもじゃっとした胸毛も追加して……野獣と化していった。
そして、ぼてっとした腹が露わになった褌姿で、武器の棍棒を持たせる。これが阿花里の考えた、人類史上最強の人物像だった。
阿花里と真佐弥は祓殿の真正面に来た。
足の付け根あたりの高さに床があり、阿花里は小さな軋み音を立てながら階段を上った。
「お待たせして申し訳ありません。真佐弥です」
「どうぞ、入ってください」
少し低めで、よく通る男性の返事が聞こえてきた。
建物の中は意外と広い。座っても体が痛くならないよう、床板の上には薄畳が敷かれている。
調度品は必要最小限の物だけ。顔や手足を洗うための木製のたらい、硯箱を乗せた文台、照明具の燈台だけの簡素な室内だ。
「真佐弥、いらっしゃい」
もう一人、男性がいた。女性のように柔らかい声で話すけれど、無理やり作った高音の声だ。
阿花里はその男性に、思わず見とれてしまう。
形の整った眉と、艶かしい眼。そして、薄くて形の良い唇。女性と見紛うような、見目麗しい顔立ちをしている。
月のように白い狩衣と闇のように濃い藍色の指貫を身にまとい、座っていると床についてしまいそうなほど長い髪は、瞳と同じように艶やかで美しい。女性のように頭を露出していて、烏帽子をかぶってはいなかった。
阿花里は父と横に並んで座る。
目の前にいる二人の男性の間には、衣の中に桃でも隠しているのかと思うほど、お腹がぽっこり突き出たたぬきが、二本足で立っていた。灰白色の狩衣と指貫姿で、さらに烏帽子まで乗せている。
なぜ、たぬき? たぬきを着飾って連れ歩くのが、京では流行っている? 阿花里はそんなことを考えながら、膨れ上がったお腹をつついてみたい衝動に駆られる。
「遅れてすみません」
真佐弥が手をついて謝った。
たぬきに気を取られていた阿花里は、慌てて同じように頭を下げる。
「気にしないで。温泉に入りたかったから、早く来ちゃったの。やっぱり玉造のお湯はいいわね。お肌つるんつるんよ」
長髪の男性はうっとりとした顔をしながら、手のひらで両頬をすりすりとさすった。
真佐弥は年若い男性に視線を移して、お辞儀をする。
長髪の男性と同じ月白色の狩衣を着て、濃藍色の指貫を履いていた。
その男性は無言のまま、真佐弥に挨拶を返した。ところが、少し遅れて会釈した阿花里には無反応だった。
真佐弥は最後に、たぬきを見る。そして、恭しく頭を垂れた。
他の人にはたぬきではなく、もしかして人間に見えている? 阿花里はそんなことを考えながら口をぽかんと開け、目をこすってはたぬきを凝視する……を繰り返した。
長髪の男性は閉じたまま手にしていた蝙蝠扇を少し広げて口元に添え、阿花里を見てくすくすと笑った。
「真佐弥、阿花里ちゃんに私たちのこと話してないの?」
「申し訳ありません。なかなか言い出せなかったもので、詳しくは……」
「それじゃあ、私から阿花里ちゃんに伝えるわね」
「はい、お願いします」
長髪の男性は頷いて、阿花里のほうへ体を傾けた。
「私は賀茂麗瑞。国の安泰を維持するため、京で占いをしたり、呪いを唱えたりしているの」
麗瑞は扇をさっと全開にして、しなやかに扇いだ。
阿花里が思い描いていた客人像――棍棒を持った野獣のような大男とは、似ている要素が何ひとつなかった。
麗瑞が手にしているのは棍棒ではなく、色彩豊かな鳥が描かれた美しい扇だった。
「そこにいるのは、息子の実嗣。歳は阿花里ちゃんより、ふたつ上よ。私と同じ仕事をしているの」
阿花里は実嗣と麗瑞を交互に見た。
顔のつくりもそうだけれど、雰囲気がまったく違う。艶やかな麗瑞とは異なり、実嗣は凛々しかった。
阿花里の視線に気づくと、実嗣は撥ね除けるように一瞥した。
「実嗣も何か話しなさいよ」
「俺は特に話すことはないです」
興味なさそうに、ぼそっと話す。戸口付近から聞こえてきた声と同じだった。
「実嗣、女子と接する時は、最初の印象が大事じゃ。まずは笑顔だと、わしはいつも言っているだろうが」
阿花里は声のするほう――たぬきを見た。
すると、たぬきは阿花里に向かい、歯をむき出しにして、にかっと笑った。
「えぇっ! た、たぬきが、しゃべった!?」
「やっぱり最初は驚くわよね」
阿花里の反応に理解を示しながらも、麗瑞は可笑しそう目を細める。
「京のたぬきって、しゃべるんですね! すごいです!! 人と同じようにしゃべるから、服を着ているんですね!」
「……そんなわけないだろ」
お腹を抱えて笑っている麗瑞の代わりに、実嗣が呆れ顔で答えた。
「阿花里とかいう、そこの娘。さっきから、たぬき呼ばわりしておるが、わしは賀茂家の屋敷神じゃ。守彦という立派な名前もある。見た目が少ぉしだけ似ているからといって、たぬきと決めつけるでないぞ。折角おまえたち親子にも、わしの姿が見えるようにしてやっているというのに。それから実嗣! たぬきではないと、まずははっきり否定すべきであろう!」
守彦は手にしていた蝙蝠扇を実嗣にぴしっと向け、きぃっと睨んだ。
父が丁寧にお辞儀をした理由が、やっと阿花里にもわかった。見た目はどうあれ、あのたぬきは神様だったのだ。
「守彦様には実嗣の教育係もしてもらってるのよ」
麗瑞は阿花里にそう付け加えた。
まさか、目の前に神様がいるなんて――。阿花里はたぬき……ではなく、きつねにつままれたような気分になった。
「阿花里ちゃん、私たちが鬼や妖を退治しているっていう話は、もう聞いているかしら?」
「はい。でも、どのようにですか?」
「力じゃ到底敵わないから、特殊な能力を使うの」
「特殊な……能力?」
「そう。特別に見せてあげるわね」
麗瑞はにっこり微笑んだ。そして、扇をぱたんと閉じて、その先を戸口の方へ向ける。
「光矢眼眩!」
力強い男性の声。それは紛れもなく、麗瑞の口から発せられた。
扇を持つ指先から放たれた光芒が、ものすごい速さで戸口に当たる。そしてその瞬間、周囲がまばゆい光にぱぁっと覆われた。
麗瑞はすっと俯き、光をまともに見ないようにした。実嗣と守彦も瞬時に下を向く。
阿花里と真佐弥は光をまともにくらった。
やっと目が慣れてきた頃、阿花里は麗瑞がこちらを見ているのに気づいた。
「こうやって、敵の目を眩ませるの。そうしたらその隙に、あーんなことや、こーんなこととか出来ちゃうのよ」
麗瑞はすっかり元の声に戻っていた。
「あとはね、道具を用いて、呪いを唱えることもあるの。真佐弥、例の物をもらえるかしら」
「はい」
真佐弥は胸元から麻袋を出し、麗瑞に渡した。
麗瑞は袋に入っている物を腿の上に乗せる。そこには碧玉で作られた一寸ほどの勾玉が十数個あった。
「これは言霊に応える勾玉といって、真佐弥に作ってもらっているの。とーっても大事な道具なのよ。まあ、見ててちょうだい」
麗瑞は勾玉をひとつだけ、右手のひらに乗せた。
「黄泉を統べる伊邪那美命よ。御玉に闇啜る力を分け与い宿し給え」
麗瑞は太い声で詠唱した。
すると、勾玉は閃光に包まれた。光が消えると、勾玉の色が檜扇の実――ぬばたまのように真っ黒になっていた。
「これはね、常闇の禍玉っていうの。悪い気を吸い込んでくれるのよ。それから、もうひとつあるの」
麗瑞は常闇の勾玉を腿の上に置き、すぐ横にある碧玉の勾玉――言霊に応える勾玉をもう一個つまんで、手のひらに乗せた。
「数多の神を生みし伊邪那岐命よ。御玉に蘇りの力を分け与い宿し給え」
麗瑞の唱えに反応して、まぶしい光がまた勾玉を覆った。さっきと違うのは、変色した勾玉の色。碧色から麗瑞たちが着ている狩衣と同じ、月白色に変化していた。
驚嘆した阿花里の表情を見て、麗瑞は満足そうに微笑んだ。そして、月白色の勾玉を阿花里に見せる。
「これは浄明の勾玉といって、良い気を放出して、人の体に送り込んでくれるの」
麗瑞はもう片方の手で、常闇の勾玉を持った。そして、ふたつの勾玉の凹凸を合わせる。すると……円の形になった。
「このふたつの勾玉は対になっているの。そして、この勾玉を作る者と使う者も、対になっているのよ」
「それは……父が作ったその不思議な勾玉を使えるのは、麗瑞様だけということですか?」
「そう。誓約を交わしたひと組だけが、言霊に応える勾玉を作り使うことを許されているの」
麗瑞は勾玉をすべて袋に入れて、懐にしまった。そして、両手を床について、体をすいっと阿花里のほうに近づける。
「言霊に応える勾玉を常闇の禍玉と浄明の勾玉に変えたら、こうして持ち歩いているの」
麗瑞は左の袖をまくって、腕を見せた。黒と白の勾玉が交互に紐に通され、腕輪になっていた。
「近々、実嗣を私の後継者にって考えているんだけど、そうなると玉を作る人が新たに必要になってしまうでしょ。だからね、阿花里ちゃんにお願いしようと思って、今日はここに来たのよ」
「私!? 私にも、その不思議な勾玉を作ることが出来るんですか!? 本当なの、父さん!?」
実嗣が訴えるような目をして、麗瑞を見た。
「もしかしたら……と思っていたのですが、やはり女に頼むのですね。どうして事前に、そのことを話してくれなかったのですか!?」
「だって、そう教えたら、実嗣は絶対にここに来ようとしなかったでしょ?」
守彦は両手を腰にあて、何度も頷く。
「麗瑞の言うとおりじゃ。実嗣は女子を避ける傾向があるからのぅ」
「ほんと、女性の話になると、途端に嫌そうな顔をするのよね」
麗瑞は首を傾げながら、肩をすくめる。
実嗣から自分にだけあの冷ややかな視線を向けられた理由が、阿花里にはわかった気がした。
「それって……実嗣様は、男の人のほうが好きということですか?」
阿花里の質問に、実嗣は男性二人と一柱の男神から、いっせいに視線を浴びた。彼らは目を見開き、驚愕の事実を知ったというような顔をしている。
「ち、違う! いや、そういうことになるのか……? いやいや、そうじゃない! 変な言い方をするな!」
誤解された実嗣を麗瑞は哀れんだ目で見ている。けれど、蝙蝠扇で隠した口元は笑いを隠せないでいた。
阿花里は実嗣をからかうつもりなど、まったくなかった。
女性が嫌いなら男性のほうが好き――。ただ単純にそう思っただけで、麗瑞たちが想像したような、深い意味はなかった。
実嗣は躍起になって言い返す。
「女っていうのは、しゃあしゃあと嘘をついたり、平然と裏切ったりする。そして、都合が悪くなると、すぐに泣く。うわべだけ綺麗に飾ってみせても、女なんて信用出来ないのです!」
今度は皆が阿花里を見る。
視線に痛くなって、阿花里は下を向いた。薄紅色の衣が目に入る。
「実嗣はそんな女性としか接してこなかったのかしら? それで女嫌いだったの? 全員そうとは限らないんだから、決めつけはよくないわよ」
麗瑞はやんわりと実嗣を諭した。
「ですが、実際に――」
ふたりのやり取りは、阿花里の耳を素通りしていった。今着ている小袖のことで、阿花里の頭の中がいっぱいだったからだ。
よそゆきの服より作業衣を着たほうが、職人らしくてよかったのかな――。
母の形見の品に難癖をつけられたようで、阿花里は悲しくなった。俯いていると、体中の水分が目に集まってきそうだった。
守彦は実嗣の左肩を蝙蝠扇でぺしぺし叩いた。
「実嗣、可愛らしい娘を見て、ついいじめたくなりおったのか。おぬしは女子に対しては、まだまだ子供だからのぅ」
場を和ませようとしてか、守彦はかっかっかっと豪快に笑った。
今まで事の成り行きを黙って見ていた真佐弥が、一文字に結んでいた口を開く。
「麗瑞様、事前にきちんと阿花里に話していなかった、私の落ち度です。お許しください。阿花里は信じられないような話をたくさん聞いて、気が動転しているのだと思います。あとで私からきちんと説明しておきますので、ひとまず下がらせてもらってよいでしょうか」
「そうね……また日を改めましょう。私も実嗣によく言い聞かせておくわ」
真佐弥は立ち上がって黙礼した。
阿花里も同じようにお辞儀をする。けれど、父とは違い、実嗣の顔を見ることはなかった。
