翌日、阿花里たちのいる工房へ、忌部氏の使いの者がやってきた。
行長が至急、真佐弥に話したいことがあるという。
真佐弥は使いの者と一緒に、忌部氏の屋敷へ向かった。
阿花里はひとりで留守をする。
太陽が西へ傾き、空を照らす務めを月に交代する準備を始めても、父は帰ってこない。
阿花里はゆっくりと支度していた夕飯を作り終えてしまった。
すると、思いつめたような顔で、真佐弥が帰ってきた。ひどく疲れているようだった。
「おかえり、父さん。ごはん出来てるから、すぐに用意するね」
「ああ……」
真佐弥は筵の上で胡坐をかくと、時が止まってしまったかのように動かなかった。
阿花里は甑で蒸した玄米と、青菜の入った汁をよそう。そして、蕨を塩で漬けたものを器に盛り、父と自分の前にそれぞれ置いた。
「父さん、何があったの?」
真佐弥は困り果てた目で、阿花里を見た。
「あの勾玉の存在を行長様たちが気づいていた」
「あの勾玉って……言霊に応える勾玉のこと!?」
真佐弥はうな垂れるように頷き、交わした会話を阿花里に話す。
行長は最近、真佐弥が京の人とこっそり会っていることを耳にした。そこで、真偽を確かめるため、下人に真佐弥と阿花里を見張らせたそうだ。
「父さんたちが玉造の社で、麗瑞様と会っていることをご存知だった。行長様は麗瑞様に渡しているのと同じ勾玉を持って、明日は娘も連れてくるようにとおっしゃった」
「私も!? 勾玉の目的はわかっていないんだよね?」
「そこまではご存知ない様子だった。忌部様のお屋敷へ行く前に、麗瑞様に相談しよう。今日はもう遅くなってしまったから、明日の朝一で祓殿へ行こう」
話がまとまると、すっかり冷たくなった汁をふたりはすすり始めた。
*****
翌朝、真佐弥は行長とのやり取りを麗瑞たちに話した。
「そうだったの……。でも大丈夫よ、真佐弥。なかったことにしちゃえばいいんだから」
麗瑞はあっけらかんと話した。
「実嗣、お願いしていいかしら?」
「はい。記憶を消してくればいいのですね」
実嗣はあっさりと承諾した。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「真佐弥が悪いわけじゃないわ。だって、誰かに話したわけではないのでしょう?」
「はい。ですが、ここを訪れる時は誰かに見られていないか、もっと気をつけるべきでした。今日は大丈夫だと思うのですが……」
「そうね、用心するに超したことはないわね。また困ったことがあったら、いつでも遠慮なく話してちょうだい」
「ありがとうございます、麗瑞様」
額が薄畳についてしまいそうなほど、真佐弥は頭を下げ続けた。
「では、行きましょう。俺は姿を消して、真佐弥さんたちの後をついて行きます。何かあったら、呼びかけてください」
実嗣はそう言って、すぐに術で姿を隠した。
忌部氏の屋敷に着くと、真佐弥がいつも行長に謁見する場所に通される。
阿花里と真佐弥は気をもみながら、並んで座った。姿の見えない実嗣は、その後ろに立つ。
行長は部下だけでなく、下人ふたりを伴って現れた。真佐弥が言い逃れ出来ないよう、尾行させた者たちも同席させたのだ。
「例の玉は持ってきたのだろうな」
例の玉という発言と年齢から考えて、実嗣はあの者が忌部氏の家長だと判断した。人形代を懐から出し、素早く行長たちに向ける。
「滅憶!――真表にいる者たちから、言霊に応える勾玉に関する記憶をすべて消去せよ」
はらはらと舞うように人形代は飛んでいき、行長と下人達の額に触れる。人形代が消えると、行長達は居眠りしているかのように、目を閉じて頭を垂れた。
「実嗣様、行長様たちはいったい……」
「大丈夫です、真佐弥さん。少し経てば、あの勾玉のことをすっかり忘れた状態で、目を覚ますはずです。あとは忌部殿のご子息ですね。探してきます」
実嗣がもう一度姿を消そうとした時、ばたばたと誰かが早歩きでやってくる音がした。
「父上! 遅れてすみません!」
荒い息遣いの行成だった。
実嗣は呪いを唱えようとしたけれど、行成に右腕をつかまれてしまう。
「おまえは何者だっ!」
自分より背が高く、がっしりした体つきの実嗣に対し、行成は物怖じせずに問いかけた。実嗣の当帯にぶら下がっている勾玉が目に入ると、さらに声を荒げる。
「我らが忌部を蔑ろにし、秩序を重んじず、玉作り職人から都合よく玉を調達しているのは、おまえたちだな!」
行成は非難の目で真佐弥を見た。
「真佐弥! 欲に目が眩んだのか!」
そして、失意の眼差しを阿花里に向ける。
「阿花里、おまえまで僕たちを裏切っていたのか……」
いつも陽気な行成から、こんな怒鳴り声や弱々しい声を阿花里は聞いたことがなかった。さらに、阿花里は行成の言葉にも違和感を覚えた。
「阿花里が作った特殊な勾玉はそれか!? もらった玉をすべてこちらに出せ!」
行成は勾玉を奪おうと、実嗣の当帯に通している紐を強引に引っ張る。すると、紐がほどけて、ばらばらと勾玉が落ちていった。
床の上には白と黒の勾玉がひとつずつと、へこみが二箇所ある碧色の勾玉が散らばっている。
行成はいちばん近くにある白い勾玉を拾おうと、実嗣から離れて屈んだ。
その隙を逃さず、実嗣は急いで刀印を結ぶ。
「縛拘!」
実嗣の指先から伸びた紐が、行成を縛る。行成は屈んだ姿勢のまま、しりもちをついた。
「お……の、れ……。よく……も、ぼ……くを」
記憶を消そうと、実嗣はすぐに人形代を行成に向けた。
「実嗣様、待ってください! 様子が変です! いつもの行成様と違います! 行成様は私たちの前で、自分のことを僕とは言いません! 俺って言うんです!」
ただ事ではない阿花里の声色に、実嗣は人形代をかざしたまま行成を凝視する。
「阿花里の言うとおりです。私たちの知っている行成様とは、お人柄がかなり違うように見えます。普段の行成様は友好的で、話をよくお聞きくださる方です。いきなり人につっかかるような方ではありません。もしや……私の義弟と同じ状況になってはいないでしょうか?」
黒目の多津岐の顔が、真佐弥の脳裏に浮かんだ。
実嗣は行成の前で片膝をつき、双眸の奥まで射抜くように、じっと見つめる。永久の闇に堕ちた眼にはなっていない。
けれど、擬妖になっていないだけで、妖の禍々しい気にあてられ半妖になってしまった可能性もある。
実嗣は人形代をしまい、常闇の禍玉を拾って行成に向けた。
「この者に宿りし闇を黄泉路へと誘い給え」
行成にも勾玉にも、変化は起こらなかった。
呪文は間違っていないはず――。もう一度、実嗣は唱えてみた。
けれど、さっきと同じだった。勾玉は少しも反応しない。
「私が作った勾玉に、問題があるのでしょうか?」
「いや、おまえは手順どおり、ちゃんと作っていた」
阿花里の作業を見守っていた真佐弥は、娘の懸念をきっぱり否定した。
行成は縛られて苦しそうだというのに、引き下がる様子は微塵もなかった。
「証の……勾玉はどこ、だ? おまえが……持っている、のだろう」
「証の勾玉!? 真佐弥さん、この男はどこまで知っているのですか!?」
「わかりません。証の勾玉のことは、昨日は一度も話に出ていませんでした」
白状しなければ容赦しないという意志を示すため、実嗣は刀印を行成に向けてから、自分のほうにくいっと引き寄せた。紐をもっときつくするためだ。
「言え! なぜおまえはいろいろ知っている! 誰から聞いた!? 言わねば、さらに締め上げるぞ!」
「うぅぅっ!」
額から汗がだらだらと出ているのに、行成には屈する気配などまるでない。
「……意識を失うまでやるつもり?」
冷ややかな顔で近づく者がいた。弓削峯理だった。
*****
「理狐をいじめないでくれるかな。今は人間の形姿をしているけど、僕の大切な式神なんだ」
行成は峯理を見て、ほっとしたような顔になった。
「理狐、後は僕がやるから、元に戻って楽におなり」
峯理は行成に向かって話しかけた。
すると、ぼんっという音とともに煙が立ち上がる。
煙が消え、緩々になった紐の間から見えてきたのは、行成ではなく一匹の狐だった。
「理狐、無理をさせたみたいだね。ごめん」
「平気よ、峯理!」
理狐は峯理にぴょんと飛びついた。峯理はしっかり抱きとめる。
「あなたは……弓削峯理殿ですね」
貴族や官人なら、峯理を見知っている者は多い。京で一番美しいと囁かれている青年だからだ。あまりにも女性たちが騒ぐので、どれほどのものか、男たちもこぞって見ようとする。
世間の噂に興味がない実嗣が峯理の顔を知っていたのは、少し前に偶然見かけたからだった。
峯理が急ぎの用事で、義兄である弓削恒道に会うため、陰陽寮を訪れたからだ。
弓削家といえば賀茂家と同じように、代々陰陽師として働いている。
「峯理殿、あなたは陰陽道に携わっていないと聞いています。しかし――」
「仕事で関わっていないからと言って、知識がないとは限らないよ。実嗣殿は随分と浅はかなんだね」
実嗣の反応を伺うことなく、峯理は淡々と話し続ける。
「賀茂氏は今まで、陰陽寮にかなり貢献されてきた。後のことはもう弓削に任せて、ゆっくり休まれてはどうかな? 使いたる者の務めは、僕が引き受ける。だから……証の勾玉を戴くとするよ」
「峯理殿には使いこなせないでしょう。持っていても、何も起こりませんよ」
「僕が使いたる者として、作りたる者と誓約を交わせばいいだけだ。縁を尊ぶため、途中で交代するのは好ましくはないようだけどね」
「どうして、そこまで知っているのですか!?」
「僕には頼もしい仲間がいるからね」
峯理は理狐の頭を優しく撫でる。そして、真佐弥を見た。
「あの男性が娘に一から説明しているのを理狐が聞いていたんだ。おかげで、全容を知ることが出来た」
「工房の中で姿を消してたのよ」
撫でられて綻んだ理狐の顔が、得意げな表情に変わる。
「言霊に応える勾玉が手に入れば、僕はそれを使って地位も権力も得られるはずだ」
「私、峯理様とは誓約を交わしません! だって、人助けをしたいわけではないんですよね!?」
阿花里の拒絶の言葉を聞いて、峯理はやっと阿花里に視線を向けた。
「撫子、使いたる者になりたいのは、ある人のために復讐したいからなんだ」
「ある人? 誰のことですか?」
阿花里だけでなく、この場にいる人は真佐弥以外、誰も検討がつかなかった。
「僕を慈しんでくれた人だよ。それなのに……義父や義兄は彼女を使い捨てにした。だから、使いたる者という、ふたりにはない特別な能力を手に入れ、優位に立ちたい」
峯理は腕の中にいる理狐を床の上に置いた。前かがみになって俯いた顔をゆっくり上げると、白目がうっすらと灰色に変わっていた。
「そして……彼女を軽んじた、あの男が憎い」
峯理は左手を伸ばして、手の甲を内側に向ける。人差し指を上に向け、親指を下に向けて伸ばし、その中央に右手人差し指を真佐弥に向けて置いた。弓を引く形を真似た印――弓印で、弓削家だけが結ぶことが出来る。
峯理の目がさらに淀み、鈍色になっていく。
「何をするつもりですか、峯理様!?」
阿花里は両手を広げて、父の前に立ちはだかった。
「撫子、君を傷つけたくない。どいてくれないかな」
「嫌です! 何で父さんを襲おうとするんですか!?」
「理狐、彼女を抑えてて」
理狐は尾をしゅっと伸ばし、阿花里の体にくるくると巻きつけた。
何とか緩められないかと、阿花里は懸命にもがく。けれど、体の痛みと息苦しさでうずくまってしまった。
「理狐! そんなにきつく――」
「縛拘!」
峯理が阿花里に気を取られた隙に、実嗣はすかさず呪文を唱えた。
峯理は蔓に巻かれて、崩れるように座った。
「狐、その娘を解放しないと、峯理殿をもっと苦しめることになるぞ」
さっきまで同じ術にかけられていた理狐は、迷うことなく尾をぱっと放した。しゅるしゅるしゅるっと尾がどんどん短くなり、元の長さに戻る。
鈍色になった峯理の両眼を見て、実嗣は確信した。握ったままだった常闇の禍玉を峯理の顔に近づける。
「この者に宿りし闇を黄泉路へと誘い給え」
峯理の全身から禍々しい黒い気が放出され、常闇の禍玉の中へと呑まれていった。
峯理は目を閉じて、がくっと頭を下げる。
「峯理様!」
阿花里は峯理に近づき屈んだ。
峯理はぱっと瞼を開けた。そして、少しずつ顔を上げる。
「あね、う、え……」
阿花里の顔を見て、峯理は懐かしそうに微笑んだ。
行長が至急、真佐弥に話したいことがあるという。
真佐弥は使いの者と一緒に、忌部氏の屋敷へ向かった。
阿花里はひとりで留守をする。
太陽が西へ傾き、空を照らす務めを月に交代する準備を始めても、父は帰ってこない。
阿花里はゆっくりと支度していた夕飯を作り終えてしまった。
すると、思いつめたような顔で、真佐弥が帰ってきた。ひどく疲れているようだった。
「おかえり、父さん。ごはん出来てるから、すぐに用意するね」
「ああ……」
真佐弥は筵の上で胡坐をかくと、時が止まってしまったかのように動かなかった。
阿花里は甑で蒸した玄米と、青菜の入った汁をよそう。そして、蕨を塩で漬けたものを器に盛り、父と自分の前にそれぞれ置いた。
「父さん、何があったの?」
真佐弥は困り果てた目で、阿花里を見た。
「あの勾玉の存在を行長様たちが気づいていた」
「あの勾玉って……言霊に応える勾玉のこと!?」
真佐弥はうな垂れるように頷き、交わした会話を阿花里に話す。
行長は最近、真佐弥が京の人とこっそり会っていることを耳にした。そこで、真偽を確かめるため、下人に真佐弥と阿花里を見張らせたそうだ。
「父さんたちが玉造の社で、麗瑞様と会っていることをご存知だった。行長様は麗瑞様に渡しているのと同じ勾玉を持って、明日は娘も連れてくるようにとおっしゃった」
「私も!? 勾玉の目的はわかっていないんだよね?」
「そこまではご存知ない様子だった。忌部様のお屋敷へ行く前に、麗瑞様に相談しよう。今日はもう遅くなってしまったから、明日の朝一で祓殿へ行こう」
話がまとまると、すっかり冷たくなった汁をふたりはすすり始めた。
*****
翌朝、真佐弥は行長とのやり取りを麗瑞たちに話した。
「そうだったの……。でも大丈夫よ、真佐弥。なかったことにしちゃえばいいんだから」
麗瑞はあっけらかんと話した。
「実嗣、お願いしていいかしら?」
「はい。記憶を消してくればいいのですね」
実嗣はあっさりと承諾した。
「ご迷惑をおかけして、本当に申し訳ありません」
「真佐弥が悪いわけじゃないわ。だって、誰かに話したわけではないのでしょう?」
「はい。ですが、ここを訪れる時は誰かに見られていないか、もっと気をつけるべきでした。今日は大丈夫だと思うのですが……」
「そうね、用心するに超したことはないわね。また困ったことがあったら、いつでも遠慮なく話してちょうだい」
「ありがとうございます、麗瑞様」
額が薄畳についてしまいそうなほど、真佐弥は頭を下げ続けた。
「では、行きましょう。俺は姿を消して、真佐弥さんたちの後をついて行きます。何かあったら、呼びかけてください」
実嗣はそう言って、すぐに術で姿を隠した。
忌部氏の屋敷に着くと、真佐弥がいつも行長に謁見する場所に通される。
阿花里と真佐弥は気をもみながら、並んで座った。姿の見えない実嗣は、その後ろに立つ。
行長は部下だけでなく、下人ふたりを伴って現れた。真佐弥が言い逃れ出来ないよう、尾行させた者たちも同席させたのだ。
「例の玉は持ってきたのだろうな」
例の玉という発言と年齢から考えて、実嗣はあの者が忌部氏の家長だと判断した。人形代を懐から出し、素早く行長たちに向ける。
「滅憶!――真表にいる者たちから、言霊に応える勾玉に関する記憶をすべて消去せよ」
はらはらと舞うように人形代は飛んでいき、行長と下人達の額に触れる。人形代が消えると、行長達は居眠りしているかのように、目を閉じて頭を垂れた。
「実嗣様、行長様たちはいったい……」
「大丈夫です、真佐弥さん。少し経てば、あの勾玉のことをすっかり忘れた状態で、目を覚ますはずです。あとは忌部殿のご子息ですね。探してきます」
実嗣がもう一度姿を消そうとした時、ばたばたと誰かが早歩きでやってくる音がした。
「父上! 遅れてすみません!」
荒い息遣いの行成だった。
実嗣は呪いを唱えようとしたけれど、行成に右腕をつかまれてしまう。
「おまえは何者だっ!」
自分より背が高く、がっしりした体つきの実嗣に対し、行成は物怖じせずに問いかけた。実嗣の当帯にぶら下がっている勾玉が目に入ると、さらに声を荒げる。
「我らが忌部を蔑ろにし、秩序を重んじず、玉作り職人から都合よく玉を調達しているのは、おまえたちだな!」
行成は非難の目で真佐弥を見た。
「真佐弥! 欲に目が眩んだのか!」
そして、失意の眼差しを阿花里に向ける。
「阿花里、おまえまで僕たちを裏切っていたのか……」
いつも陽気な行成から、こんな怒鳴り声や弱々しい声を阿花里は聞いたことがなかった。さらに、阿花里は行成の言葉にも違和感を覚えた。
「阿花里が作った特殊な勾玉はそれか!? もらった玉をすべてこちらに出せ!」
行成は勾玉を奪おうと、実嗣の当帯に通している紐を強引に引っ張る。すると、紐がほどけて、ばらばらと勾玉が落ちていった。
床の上には白と黒の勾玉がひとつずつと、へこみが二箇所ある碧色の勾玉が散らばっている。
行成はいちばん近くにある白い勾玉を拾おうと、実嗣から離れて屈んだ。
その隙を逃さず、実嗣は急いで刀印を結ぶ。
「縛拘!」
実嗣の指先から伸びた紐が、行成を縛る。行成は屈んだ姿勢のまま、しりもちをついた。
「お……の、れ……。よく……も、ぼ……くを」
記憶を消そうと、実嗣はすぐに人形代を行成に向けた。
「実嗣様、待ってください! 様子が変です! いつもの行成様と違います! 行成様は私たちの前で、自分のことを僕とは言いません! 俺って言うんです!」
ただ事ではない阿花里の声色に、実嗣は人形代をかざしたまま行成を凝視する。
「阿花里の言うとおりです。私たちの知っている行成様とは、お人柄がかなり違うように見えます。普段の行成様は友好的で、話をよくお聞きくださる方です。いきなり人につっかかるような方ではありません。もしや……私の義弟と同じ状況になってはいないでしょうか?」
黒目の多津岐の顔が、真佐弥の脳裏に浮かんだ。
実嗣は行成の前で片膝をつき、双眸の奥まで射抜くように、じっと見つめる。永久の闇に堕ちた眼にはなっていない。
けれど、擬妖になっていないだけで、妖の禍々しい気にあてられ半妖になってしまった可能性もある。
実嗣は人形代をしまい、常闇の禍玉を拾って行成に向けた。
「この者に宿りし闇を黄泉路へと誘い給え」
行成にも勾玉にも、変化は起こらなかった。
呪文は間違っていないはず――。もう一度、実嗣は唱えてみた。
けれど、さっきと同じだった。勾玉は少しも反応しない。
「私が作った勾玉に、問題があるのでしょうか?」
「いや、おまえは手順どおり、ちゃんと作っていた」
阿花里の作業を見守っていた真佐弥は、娘の懸念をきっぱり否定した。
行成は縛られて苦しそうだというのに、引き下がる様子は微塵もなかった。
「証の……勾玉はどこ、だ? おまえが……持っている、のだろう」
「証の勾玉!? 真佐弥さん、この男はどこまで知っているのですか!?」
「わかりません。証の勾玉のことは、昨日は一度も話に出ていませんでした」
白状しなければ容赦しないという意志を示すため、実嗣は刀印を行成に向けてから、自分のほうにくいっと引き寄せた。紐をもっときつくするためだ。
「言え! なぜおまえはいろいろ知っている! 誰から聞いた!? 言わねば、さらに締め上げるぞ!」
「うぅぅっ!」
額から汗がだらだらと出ているのに、行成には屈する気配などまるでない。
「……意識を失うまでやるつもり?」
冷ややかな顔で近づく者がいた。弓削峯理だった。
*****
「理狐をいじめないでくれるかな。今は人間の形姿をしているけど、僕の大切な式神なんだ」
行成は峯理を見て、ほっとしたような顔になった。
「理狐、後は僕がやるから、元に戻って楽におなり」
峯理は行成に向かって話しかけた。
すると、ぼんっという音とともに煙が立ち上がる。
煙が消え、緩々になった紐の間から見えてきたのは、行成ではなく一匹の狐だった。
「理狐、無理をさせたみたいだね。ごめん」
「平気よ、峯理!」
理狐は峯理にぴょんと飛びついた。峯理はしっかり抱きとめる。
「あなたは……弓削峯理殿ですね」
貴族や官人なら、峯理を見知っている者は多い。京で一番美しいと囁かれている青年だからだ。あまりにも女性たちが騒ぐので、どれほどのものか、男たちもこぞって見ようとする。
世間の噂に興味がない実嗣が峯理の顔を知っていたのは、少し前に偶然見かけたからだった。
峯理が急ぎの用事で、義兄である弓削恒道に会うため、陰陽寮を訪れたからだ。
弓削家といえば賀茂家と同じように、代々陰陽師として働いている。
「峯理殿、あなたは陰陽道に携わっていないと聞いています。しかし――」
「仕事で関わっていないからと言って、知識がないとは限らないよ。実嗣殿は随分と浅はかなんだね」
実嗣の反応を伺うことなく、峯理は淡々と話し続ける。
「賀茂氏は今まで、陰陽寮にかなり貢献されてきた。後のことはもう弓削に任せて、ゆっくり休まれてはどうかな? 使いたる者の務めは、僕が引き受ける。だから……証の勾玉を戴くとするよ」
「峯理殿には使いこなせないでしょう。持っていても、何も起こりませんよ」
「僕が使いたる者として、作りたる者と誓約を交わせばいいだけだ。縁を尊ぶため、途中で交代するのは好ましくはないようだけどね」
「どうして、そこまで知っているのですか!?」
「僕には頼もしい仲間がいるからね」
峯理は理狐の頭を優しく撫でる。そして、真佐弥を見た。
「あの男性が娘に一から説明しているのを理狐が聞いていたんだ。おかげで、全容を知ることが出来た」
「工房の中で姿を消してたのよ」
撫でられて綻んだ理狐の顔が、得意げな表情に変わる。
「言霊に応える勾玉が手に入れば、僕はそれを使って地位も権力も得られるはずだ」
「私、峯理様とは誓約を交わしません! だって、人助けをしたいわけではないんですよね!?」
阿花里の拒絶の言葉を聞いて、峯理はやっと阿花里に視線を向けた。
「撫子、使いたる者になりたいのは、ある人のために復讐したいからなんだ」
「ある人? 誰のことですか?」
阿花里だけでなく、この場にいる人は真佐弥以外、誰も検討がつかなかった。
「僕を慈しんでくれた人だよ。それなのに……義父や義兄は彼女を使い捨てにした。だから、使いたる者という、ふたりにはない特別な能力を手に入れ、優位に立ちたい」
峯理は腕の中にいる理狐を床の上に置いた。前かがみになって俯いた顔をゆっくり上げると、白目がうっすらと灰色に変わっていた。
「そして……彼女を軽んじた、あの男が憎い」
峯理は左手を伸ばして、手の甲を内側に向ける。人差し指を上に向け、親指を下に向けて伸ばし、その中央に右手人差し指を真佐弥に向けて置いた。弓を引く形を真似た印――弓印で、弓削家だけが結ぶことが出来る。
峯理の目がさらに淀み、鈍色になっていく。
「何をするつもりですか、峯理様!?」
阿花里は両手を広げて、父の前に立ちはだかった。
「撫子、君を傷つけたくない。どいてくれないかな」
「嫌です! 何で父さんを襲おうとするんですか!?」
「理狐、彼女を抑えてて」
理狐は尾をしゅっと伸ばし、阿花里の体にくるくると巻きつけた。
何とか緩められないかと、阿花里は懸命にもがく。けれど、体の痛みと息苦しさでうずくまってしまった。
「理狐! そんなにきつく――」
「縛拘!」
峯理が阿花里に気を取られた隙に、実嗣はすかさず呪文を唱えた。
峯理は蔓に巻かれて、崩れるように座った。
「狐、その娘を解放しないと、峯理殿をもっと苦しめることになるぞ」
さっきまで同じ術にかけられていた理狐は、迷うことなく尾をぱっと放した。しゅるしゅるしゅるっと尾がどんどん短くなり、元の長さに戻る。
鈍色になった峯理の両眼を見て、実嗣は確信した。握ったままだった常闇の禍玉を峯理の顔に近づける。
「この者に宿りし闇を黄泉路へと誘い給え」
峯理の全身から禍々しい黒い気が放出され、常闇の禍玉の中へと呑まれていった。
峯理は目を閉じて、がくっと頭を下げる。
「峯理様!」
阿花里は峯理に近づき屈んだ。
峯理はぱっと瞼を開けた。そして、少しずつ顔を上げる。
「あね、う、え……」
阿花里の顔を見て、峯理は懐かしそうに微笑んだ。
