エースくんと僕の化学実験

校門を出ると、街はすっかりオレンジ色に染まりかけていた。
自販機で買ったスポーツドリンクを片手に、蓮が隣で楽しそうに語っている。試合の反省点、次の攻撃の戦略、そして俺の化学の教え方がいかにわかりやすかったかという、少しだけくすぐったい感想まで。

「……だからさ、次はフリースローをもっと安定させたいんだよ。一ノ瀬なら、確率論でアドバイスできるだろ?」

「それは……筋力とかメンタルとか、他の要素が多すぎて単純な確率だけじゃ割り切れないよ」

「ははっ、出た! 理系脳! でも、そういう堅いところ、嫌いじゃないぜ」

蓮は屈託のない笑みを浮かべて、僕の肩を軽く小突いた。
人通りの少ない通学路。聞こえるのは、どこかの家から流れてくる夕食の匂いと、蓮の弾むような足音だけ。
バスケ部エースという顔とはまた違う、ただの高校二年生としての彼の横顔が、僕の視界の中でゆっくりと解像度を上げていく。

『……このまま、どこまででも歩いていけそうな気がする』

自分の中に生まれたその思考を、慌てて打ち消した。
化学部部長の僕が、バスケ部エースとこんな時間に二人きりで歩いている。そのこと自体が、僕の日常において「想定外」の化学変化を引き起こしているのだから。

「……あ、ここコンビニ寄っていいか? 腹減って死にそう」

蓮が立ち寄ったのは、学校近くのコンビニだった。
彼がカゴに入れたのは、肉まん、からあげクン、それに炭酸飲料。
「お前、そんなに食べて胃もたれしないの?」という僕の問いに、彼は「高校生だぞ?」と笑って答えた。

店の外のベンチに腰を下ろすと、蓮は肉まんを半分に割って、当たり前のように僕に差し出した。

「ほら、半分食えよ。一ノ瀬、昼から何も食ってないだろ?」

「……え、いや、悪いよ。自分のだろ」

「いいから。俺、お前が腹減って倒れたら、追試の勉強見てくれる人がいなくなって困るんだよ」

言い方はぶっきらぼうだけど、その瞳は優しく僕を促している。
断る理由を探したけれど、結局僕は、差し出された半分を受け取った。
コンビニの肉まんの、湯気が立つ温かさ。
それを二人で並んで頬張るという状況が、どうしようもなく「特別」なものに思えて、胸の奥がじんわりと熱くなる。

「……あー、生き返る」

蓮が大きく息を吐き出す。
彼の横顔を見つめると、ふと、さっきまでの試合で見せていた自信に満ちた表情とは違う、どこか頼りない陰りが一瞬だけ掠めたように見えた。

「……試合中、怖くなる時があるんだ」

「え?」

「みんなが俺を『エース』として見てる。絶対に点を決めてくれる、絶対に負けない、って。……そう期待されるのが、正直、プレッシャーで押しつぶされそうになる時があるんだよ」

蓮の声は、さっきまでの元気なトーンとは違い、驚くほど静かで、低かった。
驚いて隣を見ると、彼は遠くの空を見つめていた。
普段は太陽のように眩しい彼が、誰にも見せない脆さを、今、僕にだけ零したのだ。

『どうして、僕なんだろう』

そう聞きたかったけれど、喉の奥で言葉が詰まる。
僕が彼をただの「化学の勉強相手」としてではなく、一人の人間として深く見つめていたからこそ、彼もまた、僕になら見せられると思ったのかもしれない。

「……高木」

僕は意を決して、彼の隣で小さく口を開いた。

「君は、一人じゃないよ。……少なくとも、化学準備室にいる間は」

「……え?」

「僕の前では、エースじゃなくていい。……ただの、化学が苦手で、ちょっとバカで、でもバスケが好きな高木蓮でいていいんだよ」

僕がそう言うと、蓮は一瞬、目を丸くして、それからふにゃりと力を抜いた。
さっきまでの張り詰めた空気が、溶けていく。
彼は僕の方を向くと、照れ隠しのように鼻を擦って、ふっと短く笑った。

「……お前さ、そういうとこ、本当にずるいよな」

「え? なにが」

「いや、なんでもない」

蓮はそれ以上何も言わなかったけれど、ベンチに置かれた僕の手に、彼の大きな手が、そっと重なった。
それは、さっき部活の更衣室で見たような、熱を帯びた接触ではなく、ただの安心感を求めるような、静かな温度だった。

コンビニの明かりが、僕たちの足元をぼんやりと照らしている。
夜の帳が降りる中、二人の間に流れるのは、もう化学式でも部活の戦略でもない。
ただ、お互いの鼓動だけが、静かに共鳴していた。