体育館に響くのは、スニーカーが床を擦る甲高い音と、荒い呼吸音だけだった。
僕は入り口付近のベンチに座り、ただ呆然と彼を目で追っていた。さっきまで準備室で化学反応式を追いかけていた同じ男だとは、到底信じられない。
蓮は、コートの上ではまるで別人のような熱を帯びている。
「高木、いけッ!」
チームメイトの声に呼応するように、蓮が弾丸のようなスピードで敵陣を切り裂いていく。汗に濡れたユニフォームが、鍛えられた肩のラインを強調し、その躍動する筋肉が視界の端を焼く。
『……すごい』
単純な感嘆符だけが、胸の中で反響していた。
理屈じゃない。彼の動き一つひとつが、物理法則を無視したかのように力強く、美しい。
僕が愛した「化学」という学問は、世界を細分化し、法則を見つけ出し、再現性のある結果を導き出すためのものだ。けれど、今の目の前にある光景は、そんな理論の枠組みを根底から覆すような、純粋で無垢な衝動の塊だった。
試合中、何度か蓮と視線がぶつかる。そのたびに、彼は口角を吊り上げ、僕に向かって「見てろよ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべる。
僕の心臓は、試合展開よりも、彼のそんな仕草ひとつで、制御不能なリズムを刻み続けていた。
試合は、蓮の劇的なブザービーターで幕を閉じた。
体育館中が沸き上がり、歓声が渦巻く。その中心で、蓮はチームメイトたちにもみくちゃにされていた。でも、彼はすぐに僕の方を振り返り、乱れた呼吸のまま、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
「一ノ瀬!」
呼びかけられた声には、確かな熱が含まれていた。
彼は僕の目の前に立つと、タオルで頭を拭きながら、人懐っこい笑みを浮かべる。
「来てくれたんだな。……正直、本当に来るとは思ってなかったわ」
「……暇だっただけだよ。データ収集の一環っていうか、身体能力と集中力の相関関係を、現場で確認したくて」
とっさに突き放すような言葉が出てしまった。
あんなに夢中で見惚れていたくせに、素直になれない自分がもどかしい。
それでも蓮は、僕の言い訳を全て見透かしたような、優しい目で笑った。
「そっか。……わざわざデータ収集しに来てくれて、サンキューな」
彼はわざとらしく僕の肩に腕を回そうとして、直前で止めた。
汗をかいているから、と遠慮したのだろう。その細やかな気遣いに、僕はまた、胸の奥がチクリと痛む。
僕たちには、まだ距離がある。バスケ部のエースと、化学部部長という、校内の立ち位置の違い以上に、僕と彼の間に横たわる、埋めがたい心理的な境界線。
「……暑苦しいから、近くに来ないで」
「はいはい、わかってるよ。シャワー浴びてくるから、ここで待っててくれ。言っとくけど、絶対帰んなよ?」
蓮はそう言い残して、部員たちのいる更衣室へと駆け出した。
一人残されたベンチで、僕は深呼吸をする。
高鳴る鼓動を落ち着けようと胸元を押さえるけれど、一向に静まってくれない。
汗と、熱気と、男たちの雄叫び。
僕が今まで避けていた場所が、今はこんなにも、心地よく感じられるなんて。
数分後、少しだけ湿った髪をタオルで拭きながら戻ってきた蓮を見て、僕は思わず息を呑んだ。
ジャージに着替え、少しだけ火照った肌。更衣室の湿り気を纏ったような、アンニュイな色気。
普段の準備室で見せる陽キャな表情とは、少しだけ違う、大人びた空気が彼を包んでいた。
「お待たせ。……一ノ瀬、なんか食いに行かねえか? 腹減って死にそうなんだよ」
「……大会前でしょ? 食事制限とかないの?」
「今日くらい、ご褒美があってもバチは当たらんだろ。……お前が来てくれた、記念すべき日だしな」
「記念日……って」
言葉の響きに、耳が熱くなる。
蓮は僕の肩を軽く小突くと、校門へと続く出口に向かって歩き出した。
夕暮れ時のグラウンドには、長く伸びた僕たちの影が重なりそうになって、また離れる。
追試の勉強会という「建前」は、もうどこかへ消え去っていた。
僕たちは並んで、静かな午後の廊下を歩く。
心の中で、何かが溶け出していく音がした。
これは、化学反応だ。
僕の理論的な世界を、彼が鮮やかに塗り替えていく。
その先で僕がどうなってしまうのか、今はまだ、誰にも計算できない。
僕は入り口付近のベンチに座り、ただ呆然と彼を目で追っていた。さっきまで準備室で化学反応式を追いかけていた同じ男だとは、到底信じられない。
蓮は、コートの上ではまるで別人のような熱を帯びている。
「高木、いけッ!」
チームメイトの声に呼応するように、蓮が弾丸のようなスピードで敵陣を切り裂いていく。汗に濡れたユニフォームが、鍛えられた肩のラインを強調し、その躍動する筋肉が視界の端を焼く。
『……すごい』
単純な感嘆符だけが、胸の中で反響していた。
理屈じゃない。彼の動き一つひとつが、物理法則を無視したかのように力強く、美しい。
僕が愛した「化学」という学問は、世界を細分化し、法則を見つけ出し、再現性のある結果を導き出すためのものだ。けれど、今の目の前にある光景は、そんな理論の枠組みを根底から覆すような、純粋で無垢な衝動の塊だった。
試合中、何度か蓮と視線がぶつかる。そのたびに、彼は口角を吊り上げ、僕に向かって「見てろよ」と言わんばかりの不敵な笑みを浮かべる。
僕の心臓は、試合展開よりも、彼のそんな仕草ひとつで、制御不能なリズムを刻み続けていた。
試合は、蓮の劇的なブザービーターで幕を閉じた。
体育館中が沸き上がり、歓声が渦巻く。その中心で、蓮はチームメイトたちにもみくちゃにされていた。でも、彼はすぐに僕の方を振り返り、乱れた呼吸のまま、大股でこちらへ歩み寄ってきた。
「一ノ瀬!」
呼びかけられた声には、確かな熱が含まれていた。
彼は僕の目の前に立つと、タオルで頭を拭きながら、人懐っこい笑みを浮かべる。
「来てくれたんだな。……正直、本当に来るとは思ってなかったわ」
「……暇だっただけだよ。データ収集の一環っていうか、身体能力と集中力の相関関係を、現場で確認したくて」
とっさに突き放すような言葉が出てしまった。
あんなに夢中で見惚れていたくせに、素直になれない自分がもどかしい。
それでも蓮は、僕の言い訳を全て見透かしたような、優しい目で笑った。
「そっか。……わざわざデータ収集しに来てくれて、サンキューな」
彼はわざとらしく僕の肩に腕を回そうとして、直前で止めた。
汗をかいているから、と遠慮したのだろう。その細やかな気遣いに、僕はまた、胸の奥がチクリと痛む。
僕たちには、まだ距離がある。バスケ部のエースと、化学部部長という、校内の立ち位置の違い以上に、僕と彼の間に横たわる、埋めがたい心理的な境界線。
「……暑苦しいから、近くに来ないで」
「はいはい、わかってるよ。シャワー浴びてくるから、ここで待っててくれ。言っとくけど、絶対帰んなよ?」
蓮はそう言い残して、部員たちのいる更衣室へと駆け出した。
一人残されたベンチで、僕は深呼吸をする。
高鳴る鼓動を落ち着けようと胸元を押さえるけれど、一向に静まってくれない。
汗と、熱気と、男たちの雄叫び。
僕が今まで避けていた場所が、今はこんなにも、心地よく感じられるなんて。
数分後、少しだけ湿った髪をタオルで拭きながら戻ってきた蓮を見て、僕は思わず息を呑んだ。
ジャージに着替え、少しだけ火照った肌。更衣室の湿り気を纏ったような、アンニュイな色気。
普段の準備室で見せる陽キャな表情とは、少しだけ違う、大人びた空気が彼を包んでいた。
「お待たせ。……一ノ瀬、なんか食いに行かねえか? 腹減って死にそうなんだよ」
「……大会前でしょ? 食事制限とかないの?」
「今日くらい、ご褒美があってもバチは当たらんだろ。……お前が来てくれた、記念すべき日だしな」
「記念日……って」
言葉の響きに、耳が熱くなる。
蓮は僕の肩を軽く小突くと、校門へと続く出口に向かって歩き出した。
夕暮れ時のグラウンドには、長く伸びた僕たちの影が重なりそうになって、また離れる。
追試の勉強会という「建前」は、もうどこかへ消え去っていた。
僕たちは並んで、静かな午後の廊下を歩く。
心の中で、何かが溶け出していく音がした。
これは、化学反応だ。
僕の理論的な世界を、彼が鮮やかに塗り替えていく。
その先で僕がどうなってしまうのか、今はまだ、誰にも計算できない。



