エースくんと僕の化学実験

「……離して。教えるのに集中できない」

僕は声が裏返らないよう必死に制御しながら、まるで火傷でもしたかのように彼の手を払いのけた。心拍数はさっきよりもさらに上がっている。指先が熱くて、思考回路がショートしそうだ。

高木蓮は意地悪そうに目を細め、僕が引っ込めた手を、どこか楽しげに眺めている。

「集中? お前、俺がここにいるだけで、すでに十分集中できてないだろ。さっきからペン、震えてるぞ」

「それは……冷房の利きが悪くて、手が冷えてるだけだよ」

苦しい言い訳だ。この化学準備室のエアコンは、去年の夏に修理したばかりで絶好調だ。僕は眼鏡の位置を直すふりをして、彼から顔を背けた。
蓮は「ふうん」と短く笑うと、今度は机に頬杖をついて、じっと僕の横顔を観察し始めた。

『なんなんだよ、こいつは……。普通、男子高生が男子高生をそんなジロジロ見ないだろ』

視線が肌を這うような感覚がして、僕は逃げ場を失う。
このままじゃダメだ。ちゃんと化学の話に戻さなきゃ。僕は自分に言い聞かせるように、プリントの『酸化還元反応』の項目を指で強くなぞった。

「……高木。この反応式を見て。酸化数が変化してるだろう?」

「おー……? うん、まあ……あー、なるほど?」

彼は適当に相槌を打っているけれど、絶対に見当違いなことを考えているはずだ。
その時、グラウンドから遠く、バスケ部の練習のかけ声が聞こえてきた。
『――よっしゃあ!!』という、力強い歓声。

蓮の肩が、ピクリと動いた。
その瞬間、彼の瞳からふざけた色が消え、アスリート特有の鋭い光が宿った。

「……練習、行かなくていいの?」

僕がぽつりと聞くと、蓮は少しだけ寂しげに笑って、視線を窓の外のグラウンドに向けた。

「行きたいよ、もちろん。あいつらだけで回してんのも腹立つし。でも、追試で赤点取ったら、次の大会メンバーから外すって顧問に言われててさ」

「え、そうなの?」

「おう。だから、俺のバスケの命運は、今、一ノ瀬のその白衣にかかってるわけ」

彼はまた、僕の方を向いてニカッと笑った。その笑顔があまりにも無防備で、僕は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような痛みを感じた。
バスケを愛する彼が、大会に出られないことのリスクを抱えてまで、ここに来ている。

『それって……僕のためじゃないけど、でも、僕が勉強を教えることで、彼の未来が変わるのか』

そう思ったら、急に責任の重さが変わった。
ただの『化学が苦手な不良生徒』じゃない。彼には彼なりの、バスケに懸ける熱い思いがあるんだ。

「……わかった。絶対に追試なんて受けさせない。ちゃんと理解させてやるから」

僕が真剣なトーンで言うと、蓮は目を丸くして、それから声を出して笑った。

「ははっ! 何その部長モード。……一ノ瀬って、意外と熱いんだな」

「……うるさい。集中して。ここ、イオン化傾向の順番」

僕は少しだけ顔を熱くしながら、ペンを握り直す。
今度は彼も真面目な顔をして、僕の指し示す数式を追うようになった。
時折、彼が「ここはなんで?」と聞いてくる声が、耳元で心地よく響く。
放課後の化学準備室。外の世界からは隔離されたような、僕たちだけの密室。
理科の教科書に載っているどんな物質よりも、今、僕たちの間で起きているこの感情の変化の方が、ずっと複雑で、ずっと予測不能な化学反応を起こしている気がした。

「……なぁ、一ノ瀬」

数式を書き終えた後、蓮が急に低い声で呼びかけてきた。

「なんだよ」

「来週の土曜、練習試合があるんだ。……もし、時間あったら見に来ないか?」

唐突な誘いに、僕はペンを止めた。
見に来ないか、なんて。そんなの、ただのクラスメイトを誘う言葉じゃない。
でも、彼は真っ直ぐに僕を見ていて、その瞳には何の嘘も混じっていないように見えた。

『僕が、あんなに眩しい場所に、足を踏み入れてもいいのかな』

「……行けたら、行くよ」

僕は精一杯の平静を装って、そう答えるしかなかった。
蓮は満足そうに「おう、待ってるわ!」と言って、机をバンと叩いて立ち上がった。
その拍子に、彼のシャツの裾が僕の膝に触れる。

心臓が、跳ねる。
この距離感に、いつの間にか慣れてしまっている自分が一番怖かった。