エースくんと僕の化学実験

夏の午後の化学準備室は、不思議と時間が止まったような静けさに包まれている。
窓から差し込む斜光が埃の粒子を黄金色に染め、ビーカーやフラスコといったガラス細工がカチリと硬質な音を立てて机に並ぶ。僕はその静寂を愛していた。誰にも邪魔されず、ただ数値と物質の変化にだけ集中できるこの場所が、僕にとって唯一の聖域だった。

『……よし、これで反応速度の計算は終わりか』

シャーペンを置いて、大きく一つ溜息をつく。白衣の袖をまくり上げ、少し熱を持った額を手の甲で拭った。化学部部長として実験データの整理に追われる日々は、それなりに充実している。体育会系の連中がグラウンドで血の滲むような努力をしている間、僕たちは目に見えない分子の世界と向き合っているのだから。

その時だった。

「おーい、一ノ瀬! いるんだろ?」

ガガッ、と乱暴にドアがスライドされ、乾いた風と共にその男が飛び込んできた。
バスケ部エース、高木蓮。
校内でも一二を争うほど目立つ陽キャの筆頭格。汗ばんだジャージ姿で、その場にいるだけで室内の空気が一気に「部活の匂い」――熱気と、男臭さと、スポーツドリンクの甘ったるい香りに塗り替えられていく。

僕は眉をひそめて、視線を眼鏡の奥から突き刺した。

「……高木。何度言ったらわかるの? ここは実験中だよ。ノックくらいしてほしい」

「わりぃ、わりぃ! でも、お前いつも鍵かけてねえじゃん」

蓮は悪びれもせず、長い足を無造作に伸ばして僕の対面の椅子に座り込んだ。
彼は僕とは正反対の人間だ。誰とでも分け隔てなく笑い、誰からも好かれ、その瞳には迷いがない。まるで太陽そのものみたいな男。そんな彼がなぜ、僕のような地味な化学部部長のところにやってくるのか。

理由は明白だ。

「で? 今日も赤点予備軍の救済措置(チューター)?」

僕の問いに、蓮はわかりやすく顔をしかめて、カバンからクシャクシャになった化学のプリントを取り出した。

「勘弁してくれよ……。昨日の小テスト、記号問題全部外したわ。俺、元素記号ってやつがどうも生理的に受け付けなくてさ」

「生理的にって……。化学は生き物と同じだよ。結合のルールさえわかれば、パズルのように解ける」

「はいはい、出たよ部長の理屈」

蓮はニッと笑って、僕をまっすぐに見つめた。その瞳に射抜かれるような感覚がして、僕は慌てて視線をプリントに落とす。

『……こいつ、自覚ないのかな。そんな距離で笑われると、心臓に悪いってこと』

窓から入る西日が、彼の整った顔立ちをより一層鮮明に照らしている。スポーツで鍛えられたしなやかな体躯。汗で少し濡れた前髪が額に張り付いている。普段、実験室には静寂と試薬の冷たい匂いしかないのに、彼が来ると、この空間の温度が数度上がるような気がする。

「……まずは、この反応式の書き方から。炭化水素の燃焼だよ」

「わっかんねえー! なんで酸素が増えたり減ったりすんだよ!」

「それが化学の醍醐味だろうが。集中して」

僕はプリントを指先でトントンと叩き、彼にペンを握らせた。
僕たちの距離は、机の幅一つ分。
彼が身を乗り出すと、スポーツウェアの擦れる音と、微かな石鹸の香りが鼻腔をくすぐる。
バスケ部のエースと、化学部のオタク。本来なら交わるはずのない二人の、秘密の放課後が始まろうとしていた。

『この時間が、一生続けばいいなんて。……思ってないよ、そんなの』

僕は自分に言い聞かせるように、心の奥底でそう呟いた。
彼が僕を理解できる日は来ないし、僕が彼のような眩しさを手に入れることもない。
この化学反応の公式みたいに、僕と蓮もまた、決して混ざり合わない成分なのだと、自分に言い聞かせていた。

「おい、一ノ瀬。お前、また顔固くなってるぞ。もっとリラックスして教えろよー」

蓮が不意に僕の手の上に、自分の大きな手を重ねた。
その熱に、僕の思考が一瞬で蒸発した。

「な、なにを……!」

「いや、教える時さ、いつもより眉間のシワが深いなと思って。……お前さ、本当は俺のこと、そんなに嫌いじゃないんだろ?」

心臓が、鼓膜を破るほど大きな音を立てて跳ねた。
僕を見つめる彼の瞳が、まるで獲物を狙う獣のように、けれどどこか少年のような無邪気さを纏って輝いている。