白衣の断罪者 ——腐った権力を切り刻む

聖マリアンナ総合病院の正門をくぐり抜けた時、私は一度も振り返らなかった。
手元にあるのは、堂本理事長から渡された「退職勧奨」の書類と、あの汚れた小切手だけ。私の白いコートの下に隠されていた研修医という名の仮面は、もう必要ない。病院という箱庭は、私にとって一つのステージに過ぎなかったのだから。

私はタクシーを拾わず、わざと雑踏に紛れるようにして地下鉄の駅へと向かった。
背後に気配を感じる。おそらく、堂本が差し向けた「監視役」だろう。彼らにとって私は、すでに始末すべきリスクなのだ。だが、私を追う彼らは、自分が追っているのが「無能な研修医」ではなく、獲物を狩る蛇だということに気づいていない。

私は人混みの中でコートを裏返し、帽子を深く被り直した。
地下鉄の複雑な路線を乗り継ぎ、あえて誰もいない古い商業ビルの地下駐車場へと降りる。そこには、数年前から私の唯一の「武器庫」として使っている、遮蔽された隠れ家があった。

「よう。随分と派手な退職劇だったな、如月……いや、今はスアと呼ぶべきか」

モニターの向こうから、冷笑を浮かべた男の声が響く。
『エコー』。私の計画を影で支える、天才ハッカーであり、この街の裏側を知り尽くした情報屋だ。彼だけが、私の「掃除屋」としての顔を知っている。

「堂本は、私が海外へ行くものだと信じているわ。彼が私の『研修』を準備している間に、彼の帝国を根こそぎ解剖させてもらう」

私はPCの前に座り、モニターに映し出された『メディカル・コア』の内部ネットワークへとアクセスした。
画面上には、病院のサーバーとは比較にならないほどの膨大なデータが溢れている。これこそが、堂本が築き上げた富の源泉。そして、その裏に隠された無数の「死」の記録だった。

「見て。堂本が進めている次期臨床試験『プロジェクト・ジェネシス』の全容よ」

私はデータを展開し、エコーと共有する。
そこには、驚くべき事実が記されていた。
新薬の治験対象となっているのは、認知症を患う高齢者や、社会的孤立を余儀なくされた人々。彼らを実験台にし、効果の薄い、あるいは危険な副作用のある薬を投与し続けていたのだ。そして、そのデータの改ざんに手を貸していたのは、現職の厚生労働大臣と、大手新聞社の幹部たちだった。

「……なるほど。これは単なる製薬汚職じゃないな。政財界を巻き込んだ、壮大な人体実験だ。これを世に出せば、堂本どころか、この国の政治構造そのものがひっくり返る」

エコーのトーンが変わる。彼ですら、このデータの悪質さに戦慄しているのが伝わってくる。

「これが彼の『聖域』よ。鬼塚や田口なんて、この巨大な汚泥のほんの一部に過ぎない。堂本は彼らを切り捨てることで、自らの身の潔白を証明し、さらに強大な権力を手にしようとしている」

私は拳を握りしめた。
私の妹も、かつて同じような「構造」の犠牲になった。権力という壁に遮られ、真実が闇に葬られたあの日々。同じ過ちを、二度と繰り返させはしない。

「スア。一つ、警告しておかなければならないことがある」

エコーが急に真剣な声になる。
「堂本の部下が、お前の住んでいたアパートに立ち入った。荒らされた痕跡はない。……だが、彼らはお前が海外へ行くことを疑っている。執拗に、お前の『裏の顔』を探し回っているぞ」

「そう。……やはり、そう来ると思ったわ」

私は冷淡に言い放つ。
堂本は、ただ私を追い出したいだけではない。私が知るすべての証拠を回収し、私の口を永遠に封じようとしているのだ。彼らにとって、私は「研修医」という名の爆弾なのだから。

「なら、先に仕掛けるわ。彼らが私の住所を突き止める前に、このデータの『一部』を、特定の人物のデスクに送りつける」

「特定の人物? 誰だ?」

「高木よ。あの医療事故調査チームのリーダー。彼は頑固で融通が利かないけれど、正義感だけは本物。彼なら、この巨大な毒薬を、まともに飲み込んでくれるはず」

私はキーボードを叩き始めた。
メディカル・コア社の不正の根幹に触れる、決定的な証拠資料。それを匿名で、高木の個人のメールアドレスへと転送する。

「高木が動き出せば、堂本は私を追うどころではなくなるわ。自分自身の足元が崩れ落ちることに気づくはずだから」

「いいな。だが、堂本が逆上して、直接手を下しに来る可能性もあるぞ」

「来ればいいわ」

私はモニターに映る堂本の顔を指先でなぞった。
「私は医者よ。メスの使い方は誰よりも知っている。彼らが私の首を絞めようとするなら、その腕ごと切り落としてやるまで」

私の瞳に、かつてないほど濃い漆黒の光が宿る。
病院での「掃除」とは違う。これは、もっと深く、もっと泥沼のような悪との戦い。
だが、その泥沼の中にこそ、救われるべき命と、裁かれるべき悪が沈んでいるのだ。

私はエコーに向けて小さく頷いた。
「さあ、第3章の本番よ。準備はいい?」

モニター越しにエコーがニヤリと笑うのが見えた。
「ああ。地獄へ招待状を送る準備は万端だ」

私は椅子から立ち上がり、地下室の出口へと向かう。
堂本が待つ帝国の中心地へ。
そこには、私の「最強のブラックヒロイン」としての正義を、彼らに叩きつけるための、最後の処方箋が待っている。