病院内の空気は、一晩で凍りついた。
本部から派遣された医療事故調査チームの黒いスーツ姿の男たちが、各フロアを闊歩している。彼らは事務方だけでなく、各診療科の責任者のオフィスにまで土足で踏み込み、過去数年分のカルテと裏帳簿を精査し始めた。
「如月先生、何をしているんですか。カルテの整理なら、後回しでいいと言ったはずでしょう」
ナースステーションでぼんやりとモニターを眺めていた私に、鬼塚が苛立った声で言い放つ。彼のネクタイはいつになく歪み、額には冷や汗が滲んでいる。今まで権力という鎧に守られていた男が、ただの怯える小動物に成り下がっていく姿は、見ていて飽きない。
「あ、すみません。……なんだか、殺気立っていて怖くて」
私は小さく肩をすくめ、わざとらしく視線を泳がせた。
私の前には、医療調査チームのリーダーである高木という男がいる。切れ長の目に鋭い知性を宿したこの男は、すでに病院内の怪しげな金の流れに気づいているらしい。昨晩、私が匿名の告発メールとして送ったヒントを、彼は正確に拾い上げた。
「如月セリナ医師でしたね。……少し、お話を聞かせてもらっても?」
高木が静かな声で近づいてくる。周囲の空気が張り詰める。鬼塚がすかさず口を挟んだ。
「調査官。彼女は無能な研修医です。病院の運営に関わることなど、何も知りませんよ。時間の無駄です」
「いえ、現場の医師の意見ほど貴重なものはありません。彼女の視点も、必要な情報源です」
高木は鬼塚を軽くあしらうと、私に視線を固定した。その瞳は、嘘を完全に見抜くための冷徹な輝きを放っている。私は心の中で小さく笑った。この男は、清廉潔白すぎて融通が利かないタイプだ。だからこそ、私が与える「正義の餌」に食いつく。
「……何か、お聞きになりたいのですか?」
私は潤んだ瞳で高木を見上げる。まるで、今にも泣き出しそうな、か弱き獲物のように。
「昨日、田口医師が執刀したオペについてです。記録と、実際の報告内容に矛盾がある。あなたは助手としてオペ室にいたはずだ。……何があった?」
高木の問いに、鬼塚の視線が突き刺さる。彼はここで、私が「黙秘」することを望んでいる。あるいは、田口の嘘に合わせることを。
だが、そんなことをすれば、高木という有能な猟犬は、もっと深く私を嗅ぎ回るだろう。
「……あの、私、よくわからなくて」
私はあえて、混乱しているふりをした。
「田口先生は、すごく一生懸命でした。でも、急に手が止まって、真っ青になって……。そのあと、……あ、いえ。先生は『俺の技術だ』と仰っていましたし、私の見間違いかもしれません」
「見間違い……? 詳しく」
「えっと……出血したとき、田口先生が、『どこだ、どこだ』って呟いていて。でも、次の瞬間には『止まった』と仰って。……あ、でも、あのあとの縫合は、すごく綺麗でした! もしかしたら、何か……誰かが手助けしてくれたのかも……」
私はそこで言葉を切り、わざとらしく口元を覆った。
高木の眉がわずかに動く。彼は「誰かが手助けした」という言葉の意味を、正確に汲み取ったはずだ。田口にはそんな技量はない。つまり、別の誰かが指示を出したか、あるいは隠蔽工作があるということだ。
「……なるほど。貴重な情報をありがとう、如月先生」
高木は小さく会釈し、鬼塚の方を向いた。
「鬼塚部長。田口医師の聴取を急ぐ必要がありそうだ。……それと、このオペの執刀記録、書き換えられた形跡はないか、徹底的に調べる」
「……っ、そ、そんなものはあるはずがない!」
鬼塚が語気を強める。
私は背を向け、ナースステーションを離れた。私の顔には、隠しようのない安堵と、かすかな怯えを貼り付けたまま。
廊下を歩きながら、私は静かに息を吐いた。
(いいわ、高木さん。あなたが鬼塚の墓穴を掘ってくれる。私はただ、その墓穴に、彼らが積み上げてきた悪意の瓦礫を放り込むだけ)
病院の中庭へと続く裏口へ向かう。そこは人通りが少なく、唯一、監視の目が届かない場所だ。
私はスマートフォンの画面を開く。そこには、高木たち調査チームが未だ気づいていない、決定的なデータがある。鬼塚が裏金を受け取っていた、スイスの口座情報。そして、彼が隠蔽しようとしている、過去五年間における医療ミスの全リストだ。
これをいつ、誰に、どのタイミングで流すか。
それさえ決まれば、鬼塚の社会的生命は完全に終わる。
その時、背後で足音がした。
私は素早く画面を切り替え、怯えた新米医師の背中に戻る。
「……如月先生」
振り返ると、そこにいたのは田口だった。
彼は高木との聴取を終えたのか、血相を変えて立っている。その目には、私に対する殺意にも似た憎悪が宿っていた。
「お前、……高木に何を喋ったんだ」
「えっ……? い、いえ、何も……」
「白を切るな! 俺がミスをしたとでも言ったのか? お前のせいで、俺は今、めちゃくちゃに問い詰められているんだぞ!」
田口が私の腕を掴んだ。その指先が食い込む。
私は恐怖に顔を歪めながらも、心の中では冷ややかに彼を観察していた。
(この男、ここまで追い詰められても、自分のミスを認めるどころか、私に責任を転嫁するつもりね)
「ごめんなさい、田口先生……! でも、本当のことを話さないと、調査チームの人たちが……」
「本当のことだと? ふざけるな! 俺は完璧だったんだ。お前が変な指示さえ出さなければ!」
田口の叫び声が、廊下に響く。
彼は自分が今、とんでもないことを口走っていることに気づいていない。彼は自分の口で、私に「指示」を受けたことを認めたのだ。
私は心の中で舌打ちをした。あまりにも愚かだ。
「……指示?」
背後から、凍りつくような声がした。
振り向くと、そこには調査チームの高木が立っていた。
彼は手帳を閉じ、冷たい目つきで私たち二人を見ている。
「田口先生。今の言葉、どういう意味かな?」
田口の顔が真っ青に染まる。
私は彼の手を振りほどき、後ろに隠れるようにして、震える声で言った。
「高木さん……助けて……っ」
田口は絶句し、その場に立ち尽くした。
完璧な舞台装置。
彼が自分の力で、破滅への扉を全開にしてくれたのだ。
私はその背中で、冷たい笑みを浮かべた。さあ、幕引きの時間は近い。
本部から派遣された医療事故調査チームの黒いスーツ姿の男たちが、各フロアを闊歩している。彼らは事務方だけでなく、各診療科の責任者のオフィスにまで土足で踏み込み、過去数年分のカルテと裏帳簿を精査し始めた。
「如月先生、何をしているんですか。カルテの整理なら、後回しでいいと言ったはずでしょう」
ナースステーションでぼんやりとモニターを眺めていた私に、鬼塚が苛立った声で言い放つ。彼のネクタイはいつになく歪み、額には冷や汗が滲んでいる。今まで権力という鎧に守られていた男が、ただの怯える小動物に成り下がっていく姿は、見ていて飽きない。
「あ、すみません。……なんだか、殺気立っていて怖くて」
私は小さく肩をすくめ、わざとらしく視線を泳がせた。
私の前には、医療調査チームのリーダーである高木という男がいる。切れ長の目に鋭い知性を宿したこの男は、すでに病院内の怪しげな金の流れに気づいているらしい。昨晩、私が匿名の告発メールとして送ったヒントを、彼は正確に拾い上げた。
「如月セリナ医師でしたね。……少し、お話を聞かせてもらっても?」
高木が静かな声で近づいてくる。周囲の空気が張り詰める。鬼塚がすかさず口を挟んだ。
「調査官。彼女は無能な研修医です。病院の運営に関わることなど、何も知りませんよ。時間の無駄です」
「いえ、現場の医師の意見ほど貴重なものはありません。彼女の視点も、必要な情報源です」
高木は鬼塚を軽くあしらうと、私に視線を固定した。その瞳は、嘘を完全に見抜くための冷徹な輝きを放っている。私は心の中で小さく笑った。この男は、清廉潔白すぎて融通が利かないタイプだ。だからこそ、私が与える「正義の餌」に食いつく。
「……何か、お聞きになりたいのですか?」
私は潤んだ瞳で高木を見上げる。まるで、今にも泣き出しそうな、か弱き獲物のように。
「昨日、田口医師が執刀したオペについてです。記録と、実際の報告内容に矛盾がある。あなたは助手としてオペ室にいたはずだ。……何があった?」
高木の問いに、鬼塚の視線が突き刺さる。彼はここで、私が「黙秘」することを望んでいる。あるいは、田口の嘘に合わせることを。
だが、そんなことをすれば、高木という有能な猟犬は、もっと深く私を嗅ぎ回るだろう。
「……あの、私、よくわからなくて」
私はあえて、混乱しているふりをした。
「田口先生は、すごく一生懸命でした。でも、急に手が止まって、真っ青になって……。そのあと、……あ、いえ。先生は『俺の技術だ』と仰っていましたし、私の見間違いかもしれません」
「見間違い……? 詳しく」
「えっと……出血したとき、田口先生が、『どこだ、どこだ』って呟いていて。でも、次の瞬間には『止まった』と仰って。……あ、でも、あのあとの縫合は、すごく綺麗でした! もしかしたら、何か……誰かが手助けしてくれたのかも……」
私はそこで言葉を切り、わざとらしく口元を覆った。
高木の眉がわずかに動く。彼は「誰かが手助けした」という言葉の意味を、正確に汲み取ったはずだ。田口にはそんな技量はない。つまり、別の誰かが指示を出したか、あるいは隠蔽工作があるということだ。
「……なるほど。貴重な情報をありがとう、如月先生」
高木は小さく会釈し、鬼塚の方を向いた。
「鬼塚部長。田口医師の聴取を急ぐ必要がありそうだ。……それと、このオペの執刀記録、書き換えられた形跡はないか、徹底的に調べる」
「……っ、そ、そんなものはあるはずがない!」
鬼塚が語気を強める。
私は背を向け、ナースステーションを離れた。私の顔には、隠しようのない安堵と、かすかな怯えを貼り付けたまま。
廊下を歩きながら、私は静かに息を吐いた。
(いいわ、高木さん。あなたが鬼塚の墓穴を掘ってくれる。私はただ、その墓穴に、彼らが積み上げてきた悪意の瓦礫を放り込むだけ)
病院の中庭へと続く裏口へ向かう。そこは人通りが少なく、唯一、監視の目が届かない場所だ。
私はスマートフォンの画面を開く。そこには、高木たち調査チームが未だ気づいていない、決定的なデータがある。鬼塚が裏金を受け取っていた、スイスの口座情報。そして、彼が隠蔽しようとしている、過去五年間における医療ミスの全リストだ。
これをいつ、誰に、どのタイミングで流すか。
それさえ決まれば、鬼塚の社会的生命は完全に終わる。
その時、背後で足音がした。
私は素早く画面を切り替え、怯えた新米医師の背中に戻る。
「……如月先生」
振り返ると、そこにいたのは田口だった。
彼は高木との聴取を終えたのか、血相を変えて立っている。その目には、私に対する殺意にも似た憎悪が宿っていた。
「お前、……高木に何を喋ったんだ」
「えっ……? い、いえ、何も……」
「白を切るな! 俺がミスをしたとでも言ったのか? お前のせいで、俺は今、めちゃくちゃに問い詰められているんだぞ!」
田口が私の腕を掴んだ。その指先が食い込む。
私は恐怖に顔を歪めながらも、心の中では冷ややかに彼を観察していた。
(この男、ここまで追い詰められても、自分のミスを認めるどころか、私に責任を転嫁するつもりね)
「ごめんなさい、田口先生……! でも、本当のことを話さないと、調査チームの人たちが……」
「本当のことだと? ふざけるな! 俺は完璧だったんだ。お前が変な指示さえ出さなければ!」
田口の叫び声が、廊下に響く。
彼は自分が今、とんでもないことを口走っていることに気づいていない。彼は自分の口で、私に「指示」を受けたことを認めたのだ。
私は心の中で舌打ちをした。あまりにも愚かだ。
「……指示?」
背後から、凍りつくような声がした。
振り向くと、そこには調査チームの高木が立っていた。
彼は手帳を閉じ、冷たい目つきで私たち二人を見ている。
「田口先生。今の言葉、どういう意味かな?」
田口の顔が真っ青に染まる。
私は彼の手を振りほどき、後ろに隠れるようにして、震える声で言った。
「高木さん……助けて……っ」
田口は絶句し、その場に立ち尽くした。
完璧な舞台装置。
彼が自分の力で、破滅への扉を全開にしてくれたのだ。
私はその背中で、冷たい笑みを浮かべた。さあ、幕引きの時間は近い。



