消毒液の匂いが鼻孔を突き刺す。
聖マリアンナ総合病院の廊下は、いつだって冷たく、そしてどこか死の気配が漂っている。
「如月(きさらぎ)先生、またここが遅れていますよ。基本的な書類作成すらできないなんて、医者以前の問題ですね」
背後から突き刺さる嫌味ったらしい声。振り返るまでもない。外科部長の鬼塚(おにづか)だ。彼は高級な腕時計をチラつかせながら、私が作成したオペの予定表を床に叩きつけた。
「申し訳ありません。すぐに修正いたします」
私は深々と頭を下げる。周囲の看護師たちが、憐れむような、あるいは馬鹿にするような視線を向けているのを感じる。
私は「如月セリナ」。この病院に勤務して三年になる外科医だが、同僚たちからの評価は一貫して「無能でトロい、使い道のないお荷物」だ。
(ああ、今日も相変わらず品のない人ね。そのネクタイ、先週の患者への裏金で買ったものかしら)
私は内側で冷ややかに毒づきながら、床に落ちた書類を拾い上げた。
鬼塚は鼻を鳴らすと、部下の医師たちを従えてVIPルームへと向かっていった。彼らにとって、患者は「治すべき命」ではなく、「稼ぐための道具」に過ぎないのだ。
私は背筋を伸ばし、何事もなかったかのように当直室へと歩き出した。
私の歩幅は一定で、無駄がない。だが、周囲の目にはそれが「頼りなく、覇気のない足取り」として映っている。それこそが、私がこの病院で生き残るために獲得した唯一のスキル――「透明人間」の技術だ。
私は当直室に入ると、静かに鍵をかけた。
扉が閉まった瞬間、私の表情から卑屈な微笑みが消え失せる。
表情筋が弛緩し、瞳から焦点が抜けるような空虚さが消え、代わりに鋭利な刃物のような光が宿る。
(準備は整った。今日の標的は、鬼塚部長が密かに進めている『未承認薬の過剰投与実験』のデータね)
私はパソコンを起動し、病院の閉鎖的なイントラネットへ侵入する。
ここからは、私のもう一つの顔だ。
病院という名の城壁は堅固だ。だが、どんなに強固な城であっても、内部から腐れば崩れ落ちるのは早い。
かつて私の妹を殺した、医療ミスという名の殺人。権力によって揉み消されたあの時、私は誓ったのだ。
法が裁けないのなら、私が法になる。
私が、この世の『毒』をすべて解剖してやると。
「如月先生、聞こえますか?」
通信機から、協力者である『エコー』の声が響く。
「ええ。準備はいいわ。今夜、鬼塚が隠している裏口座のキーを特定する」
「了解。だが、少し状況が変わった。今夜、急患が入る可能性がある。ターゲットの動きに注意しろ」
私はモニター越しに、病院内の監視カメラ映像を切り替えた。
緊急救命室の前に、今、一台の救急車が到着した。
運ばれてきたのは、建設現場で事故に遭った若い作業員だ。その横で、鬼塚の部下である医師が、カルテを見ながら露骨に眉をひそめている。
「……あいつ、保険適用の確認を優先して、オペの準備を止めている」
怒りが、喉元までせり上がる。
これが私の生きる場所の現実だ。金になる患者には愛想を振りまき、保険の効かない、あるいは利益にならない患者には背を向ける。
(許せない)
私は手にしたメス——ではなく、スマートフォンの画面を強く握りしめた。
私は白衣を纏い、再び扉を開ける。
もう一度、「無能で大人しい女医」の仮面を被るために。
「さて。まずは、その作業員の命を救いに行くのが先ね」
私は小走りで救命室へと向かう。廊下ですれ違う看護師たちが、また冷たい視線を向けてくる。
だが、今の私には関係ない。
私は、ただ彼らの知らないところで、彼らの世界を壊す準備を着々と進めているだけなのだから。
聖マリアンナ総合病院の廊下は、いつだって冷たく、そしてどこか死の気配が漂っている。
「如月(きさらぎ)先生、またここが遅れていますよ。基本的な書類作成すらできないなんて、医者以前の問題ですね」
背後から突き刺さる嫌味ったらしい声。振り返るまでもない。外科部長の鬼塚(おにづか)だ。彼は高級な腕時計をチラつかせながら、私が作成したオペの予定表を床に叩きつけた。
「申し訳ありません。すぐに修正いたします」
私は深々と頭を下げる。周囲の看護師たちが、憐れむような、あるいは馬鹿にするような視線を向けているのを感じる。
私は「如月セリナ」。この病院に勤務して三年になる外科医だが、同僚たちからの評価は一貫して「無能でトロい、使い道のないお荷物」だ。
(ああ、今日も相変わらず品のない人ね。そのネクタイ、先週の患者への裏金で買ったものかしら)
私は内側で冷ややかに毒づきながら、床に落ちた書類を拾い上げた。
鬼塚は鼻を鳴らすと、部下の医師たちを従えてVIPルームへと向かっていった。彼らにとって、患者は「治すべき命」ではなく、「稼ぐための道具」に過ぎないのだ。
私は背筋を伸ばし、何事もなかったかのように当直室へと歩き出した。
私の歩幅は一定で、無駄がない。だが、周囲の目にはそれが「頼りなく、覇気のない足取り」として映っている。それこそが、私がこの病院で生き残るために獲得した唯一のスキル――「透明人間」の技術だ。
私は当直室に入ると、静かに鍵をかけた。
扉が閉まった瞬間、私の表情から卑屈な微笑みが消え失せる。
表情筋が弛緩し、瞳から焦点が抜けるような空虚さが消え、代わりに鋭利な刃物のような光が宿る。
(準備は整った。今日の標的は、鬼塚部長が密かに進めている『未承認薬の過剰投与実験』のデータね)
私はパソコンを起動し、病院の閉鎖的なイントラネットへ侵入する。
ここからは、私のもう一つの顔だ。
病院という名の城壁は堅固だ。だが、どんなに強固な城であっても、内部から腐れば崩れ落ちるのは早い。
かつて私の妹を殺した、医療ミスという名の殺人。権力によって揉み消されたあの時、私は誓ったのだ。
法が裁けないのなら、私が法になる。
私が、この世の『毒』をすべて解剖してやると。
「如月先生、聞こえますか?」
通信機から、協力者である『エコー』の声が響く。
「ええ。準備はいいわ。今夜、鬼塚が隠している裏口座のキーを特定する」
「了解。だが、少し状況が変わった。今夜、急患が入る可能性がある。ターゲットの動きに注意しろ」
私はモニター越しに、病院内の監視カメラ映像を切り替えた。
緊急救命室の前に、今、一台の救急車が到着した。
運ばれてきたのは、建設現場で事故に遭った若い作業員だ。その横で、鬼塚の部下である医師が、カルテを見ながら露骨に眉をひそめている。
「……あいつ、保険適用の確認を優先して、オペの準備を止めている」
怒りが、喉元までせり上がる。
これが私の生きる場所の現実だ。金になる患者には愛想を振りまき、保険の効かない、あるいは利益にならない患者には背を向ける。
(許せない)
私は手にしたメス——ではなく、スマートフォンの画面を強く握りしめた。
私は白衣を纏い、再び扉を開ける。
もう一度、「無能で大人しい女医」の仮面を被るために。
「さて。まずは、その作業員の命を救いに行くのが先ね」
私は小走りで救命室へと向かう。廊下ですれ違う看護師たちが、また冷たい視線を向けてくる。
だが、今の私には関係ない。
私は、ただ彼らの知らないところで、彼らの世界を壊す準備を着々と進めているだけなのだから。



