夏が来た。
灯花の通う私立梅ケ原高等学校は都心部にある高校であり、偏差値が特段高いという訳ではないものの、その立地の良さから多くの入学希望者が殺到するせいか、入学倍率の高い高校である。
灯花は今日も電車に揺られながら梅ケ原へと向かう。電車内は多くの梅ケ原の制服を着た生徒でごった返しており、冷房が効いているはずにも関わらず額に汗が滲んでくるほど暑い。
灯花はそんな些細なことに文句や弱音は一切吐くことなく、吊革につかまりながら夏休みはアルバイトの数でも増やそうかと考えていると、一人の男子高校生が声を掛けてきた。
「とーか! おはよっ!」
ヘアアイロンを使って髪の毛を外に跳ねさせ、それをワックスで固めており、その到底地毛では再現することのできない茶色に染まった毛先は枝分かれしている。パッと見ただけで傷んでいることがわかるその男子高校生は――山内辰之は灯花のクラスメイトであり、小学校からの親友である。
サッカー部である辰之は大きなスポーツバッグを肩に掛け、今から朝練でもあるが如く制服姿ではなく運動のしやすいポリエステルを素材に使用したであろう半袖とハーフパンツの組み合わせで登場した。
「おはよう辰之。お前そんな大荷物なのにこの電車内を移動してきたのかよ。周りの迷惑を考えろ」
「朝から冷たいね、とーかは。ま! そういうところも好きだけどなっ!」
ただでさえ暑いというのに、朝からこんなにもハイテンションな辰之に当てられては灯花の体力も削られていくもので「はいはい、ありがとな。俺も好きだよ」と返すので精一杯な様子だ。
それに対し「ってことは俺達相思相愛ってこと? やったじゃん」と言う辰之にサッカー部の体力は朝からどうなっているんだと思わずツッコミを入れたくなるが、小さなため息を吐くだけでツッコミは入れることはない灯花は、辰之という存在を視界の端には入れつつも、車窓から見える景色に目を向ける。
実を言うと、そんな朝からハイテンションな辰之に灯花は感謝をしていたりする。父親を亡くした当時の灯花は死んだ魚のような目をしており、そんな彼の事情を知っているクラスメイトや担任の先生はどんな言葉をかけるべきかを考えた結果、今はそっとしておくのが一番だろうと、声をかけないという選択を取ったのだ。
時間が解決するなんてよく言うが、それは周りの人間の力添えがあってこそ成立するものだろう。周りの人間が遊びに誘ったり、一緒に美味しいご飯を食べたり。そういった日々の積み重ねが当事者の心を徐々に癒していくのだ。
しかし誰からも声をかけてもらえなければ、塞ぎ込んでいくばかりだ。
そんな状況を打破したのはこの朝からハイテンションなサッカー部こと山内辰之である。彼だけが今までと何一つ変わらない態度で灯花に接してくれた。だからこそ灯花は塞ぎ込むことはなく、誰かを助けたいという想いで自分からドナー登録するに至るほど、前を向くようになったのだろう。
灯花はときより辰之に対し「あのときはありがとう」と告げる。それに対し辰之は「お礼言われるようなことなんてしたかなぁ」と自分には思い当たる節がないと言わんばかりの態度を取る。
きっと辰之は嘘をついていない。ただ友達に声をかけただけ。そんな認識だろう。
そんな辰之だからこそ、灯花は感謝をしているのかもしれない。
高校の最寄り駅である梅ケ原高等学校前駅に電車が到着すると、ダムの放流かのように電車に乗っていた梅ケ原の生徒が降りる。
もう二年以上この光景を見続けているため今更何も思うことはないが、梅ケ原に入学してから一ヶ月はそのすごさに圧巻されたものだと灯花は当時のことを思い出しながら電車を降り、辰之と共に学校へと向かう。
いざ実際に電車の外に出ると、電車内の冷房はしっかりと機能していたのだと気づく。電車内でさえ額に汗を滲ませていたというのに、外に出たときのあのモワッとした空気を感じた瞬間、滲ませていただけだった汗が頬を伝い、顎先から地面へと落下していくのが感覚として伝わってくる。
「最近の気温は異常じゃないか? まだ七月だぞ?」と隣りにいる辰之に問いかけるように灯花は話を振る。
「そんでもってまだ朝の七時だもんな。異常だよ異常。ちなみに何度?」とスムーズに会話を進めていく辰之に灯花は自分のスマホで確認しろよと心のなかで思いながらも、調べたらすぐに分かることを聞くのが会話なのだと自分の中で結論づけ、自身のスマホに目を向ける。
「今三十一度。今日はマックス三十七度まで上がるらしいぞ」
「マジかよ……。部活中に俺死ぬんじゃね?」
「熱中症にだけは気をつけろよ? 水分補給はこまめに取れよな」
「さっすがダーリン! 俺のコト好きすぎて超心配してくれてんじゃん!」
「誰がダーリンだよハニー。あ、そうだ。タブレットやるよ」そう言って灯花はスクールバッグの内ポケットに入れていた塩レモン風味のタブレットを四つほど辰之に手渡す。
このタブレットはアルバイト先であるガソリンスタンドで配布されているもので、炎天下の中作業することもあるため、店長がスタッフが倒れないようにと買ってくれたものだ。現に灯花はこの塩レモン風味のタブレットに何度も助けられている。
「サンキュー! これで今日の俺は無敵だわ!」
「あくまで応急処置だからな。あとは必ず水分をたくさん取ること! いいな!」
「やっぱりダーリンじゃなくて、お母さんかも」
「サッカー部のムキムキスポーツマンを生んだ覚えはありません」
「いつもありがとう、お母さん!」
そう言って灯花の右腕に抱きつく辰之に「暑いからやめろ!」と右腕を大きく振る灯花の表情は目にシワが寄るほどの笑みを浮かべていた。
校門をくぐった後、辰之は部活の朝練があるからと走って部室棟へと向かった。
もう高校三年生だと言うのに、引退せずいつまで部活を続けるつもりなのだろうと心の何処かでは思いつつも、そういえば来週が最後の大会だっけ? と先日辰之が「最後の大会は応援に来いよ」と言っていたことを思い出し、スマホのスケジュールアプリを起動させ灯花は自身の予定を確認する。
「バイトは入って……ないな。応援行けるわ」と誰に言うわけでもなく、そう自分にだけ聞こえるように呟き、電車を降りてから気温を確認するために取り出したままのスマホを制服のポケットに突っ込む。
サッカー部の朝練に間に合うほど早い時間に登校した甲斐はなく、教室にはまだ誰の姿も無かった。つまりはまだ誰も登校していないということなのだが、そうなると必然的に教室のクーラーはついていない。
灯花は自分の席にスクールバッグを置くと、中から下敷きだけを取り出しそれをうちわのように仰ぎ風を起こしながら職員室へと向かう。私立梅ケ原高等学校は今年で創立四十五年を迎える高校であり、教室に設置されている空調を操作するパネルは各教室にあるわけではなく、職員室で一括管理をしているのだ。
そのため梅ケ原では一番最初に登校した生徒が職員室に行ってクーラーをつけるという暗黙のルールが存在する。別にこのルールを守らなかったら何かしらの罰があるだとかそういうことは一切無いのだが、クーラーをつけなければただただ暑いだけの教室でホームルームが開始されるのを待つだけの時間を過ごすことになる。
いくら冬より夏が好きと公言している人であっても、暑さを耐え続けることは不可能なわけで、夏よりも冬が好きな灯花は大人しく職員室へと足を運んだ。
「三年一組の宮崎灯花です。教室のクーラーをつけに来ました。失礼します」と職員室の扉付近でそう宣言してから職員室へと入る。これは梅ケ原のルールの一つであり、先ほどの一番最初に登校した生徒がクーラーをつけにいくという暗黙のルールとは違い、こちらは学校側が定めている正式なルールだ。
極力家にいる時間を減らしたい灯花はほぼ毎日のように一番に教室に来ては、夏も冬も変わらず空調を操作しに職員室に訪れているのだから、いい加減この宣言しなければならないルールも適用外にしてほしいものだと考えつつも、職員室の前に立つと自然と宣言してしまうようになったため、人間の慣れとは恐ろしいと思っていた。
「お、宮崎! ちょうどいいところに」
「おはようございます神崎先生。先生にはちょうどいいタイミングだったかもしれませんが、俺にはクーラーをつけなければならないという重大なミッションを遂行しているところなんです。忙しいので先生の依頼を引き受けることはできません」
「何が重大なミッションだ! ボタンをポチッて押すだけで終わるミッションがあってたまるか! あと下敷きは仰ぐためのものじゃないぞ」
そんな的確なツッコミを入れてくるのは神崎志信。梅ケ原高等学校に勤務する教師であり、灯花や辰之が在籍する三年一組の担任でもある。父親をなくした灯花をまるで腫れ物に触るような態度を取る教師たちとは違い、”教師とはこうあるべきだ!”という持論を掲げ、どんなときでも生徒の立場と教師としての立場を考えたうえで声をかけてくれるタイプの教師である。そんな教師の鏡とも呼べる神崎だが、彼が何かを生徒に頼もうとしているときはろくなことが無いことを灯花は知っている。
「そんな拗ねた顔したって可愛くないぞー」
「俺は別に先生に可愛いって思われたくてこんな顔してるわけじゃありません。あと下敷きは仰ぐためにも使っているだけで、普段はちゃんとノートに敷いて使ってますよ」
「本来の使い方をしてあげたほうが道具も喜ぶってもんだっ!」と言いながら神崎は灯花に竹でできた黒のシンプルな扇子を差し出す。灯花は多少の警戒を見せつつも、差し出されたその扇子を受け取る。
「受け取ったなら今日からその扇子は宮崎の物だ。じゃあ扇子のお礼ってことで手伝って?」
やっぱり受け取るんじゃなかったと数秒前の自分の行動を後悔しつつも、灯花は受け取ったばかりの扇子に目を向ける。
「……この扇子高いんじゃないですか? こんなもの生徒にあげていいです?」
「宮崎は百均に行かないのか? それは百均の商品だ! 最近の百均はすごいんだぞ?」
本当に受け取らなければよかったと、今度は表情にまで出したのだが、神崎は一切灯花の表情を気にすることなく、自身の要件を簡潔に伝える。
「生徒会準備室に机と椅子があるんだ。それを一緒に運んでくれ」
「……椅子なら持ってあげます」
「軽い方を選ぶな。宮崎は机を運んでくれ! そして俺が椅子を運ぶ」
「……飲み物も買ってくれるなら検討します」
「なっちゃんのオレンジでどうだ?」
「わかりました。準備室に行きましょう」
「宮崎は話が早くて助かるよ」
灯花は持っていた下敷きを腰とベルトの間に挟み込むと、もらったばかりの扇子で自分だけを仰ぎながら、神崎と共に生徒会準備室へと向かった。
梅ケ原高等学校は三階建ての学校であり、その二階に生徒会準備室がある。一階にある職員室からは階段で二階にあがり、すぐのところだ。
神崎は慣れた手つきで生徒会準備室の扉の鍵を開けると、中からは埃っぽいだけではなくサウナルームに入った瞬間のような暑い空気が灯花と神崎を襲う。
「…………ウチの高校の生徒会は何をしてるんですか?」掃除が行き届いていないことの不満を灯花は神崎にぶつける。
「そう言ってやるなよ。大事なモノとかも保管してるらしいから他の生徒に掃除をさせるわけにもいかないし、生徒会は生徒会でやることがあるしなぁ」神崎は手で口元を抑え、ホコリを吸わないようにしながらも目的の机と椅子を見つけ、招き猫のようなのて動きで灯花を呼ぶ。
「コレな」
「はーい。それでコレをどこまで運べば良いんですか?」
「ん? 三年一組だよ」
「……誰かの机壊れてましたっけ?」
「いいや。それは転校生用だ」椅子を持ち上げたことで口元を抑えていた手がどいた神崎の顔はなぜか左の広角だけが上がっており、さながら自慢話をするかのような表情だ。
「転校生? ウチのクラスに?」そんなこと聞いてないと言わんばかりの大声を上げた灯花に対し、「急に決まったんだよ。俺も詳しいことは知らん。まぁいいサプライズになったんじゃないか?」と自信有りげにそう告げる神崎に思わず舌打ちをしたくなるほどの若干の苛つきを覚えつつも、なっちゃんオレンジのために机を運び出す。
教室に着くと、先ほど入れたクーラーがいい感じに教室を冷やしてくれており、机を運び火照った灯花の体を優しく包み込むように冷やしてくれるようであった。
「ちょっとほこり被ってるから、きれいに拭いといてくれ」
「……いいけど」
「なーに安心しろ! 俺は今からなっちゃんを買ってくんだよ!」
そう言って教室を出た神崎は自動販売機がある売店の方ではなく、職員室へと向かっていく。やっぱり引き受けるんじゃなかったと思いながらも、スクールバッグの中からアルコールが配合されているウエットティッシュを取り出し、机と椅子をきれいにしていく。
「雑巾で拭くのは、ちょっと違うよな」と呟く灯花の声は誰の耳にも聞こえなかった。
灯花の通う私立梅ケ原高等学校は都心部にある高校であり、偏差値が特段高いという訳ではないものの、その立地の良さから多くの入学希望者が殺到するせいか、入学倍率の高い高校である。
灯花は今日も電車に揺られながら梅ケ原へと向かう。電車内は多くの梅ケ原の制服を着た生徒でごった返しており、冷房が効いているはずにも関わらず額に汗が滲んでくるほど暑い。
灯花はそんな些細なことに文句や弱音は一切吐くことなく、吊革につかまりながら夏休みはアルバイトの数でも増やそうかと考えていると、一人の男子高校生が声を掛けてきた。
「とーか! おはよっ!」
ヘアアイロンを使って髪の毛を外に跳ねさせ、それをワックスで固めており、その到底地毛では再現することのできない茶色に染まった毛先は枝分かれしている。パッと見ただけで傷んでいることがわかるその男子高校生は――山内辰之は灯花のクラスメイトであり、小学校からの親友である。
サッカー部である辰之は大きなスポーツバッグを肩に掛け、今から朝練でもあるが如く制服姿ではなく運動のしやすいポリエステルを素材に使用したであろう半袖とハーフパンツの組み合わせで登場した。
「おはよう辰之。お前そんな大荷物なのにこの電車内を移動してきたのかよ。周りの迷惑を考えろ」
「朝から冷たいね、とーかは。ま! そういうところも好きだけどなっ!」
ただでさえ暑いというのに、朝からこんなにもハイテンションな辰之に当てられては灯花の体力も削られていくもので「はいはい、ありがとな。俺も好きだよ」と返すので精一杯な様子だ。
それに対し「ってことは俺達相思相愛ってこと? やったじゃん」と言う辰之にサッカー部の体力は朝からどうなっているんだと思わずツッコミを入れたくなるが、小さなため息を吐くだけでツッコミは入れることはない灯花は、辰之という存在を視界の端には入れつつも、車窓から見える景色に目を向ける。
実を言うと、そんな朝からハイテンションな辰之に灯花は感謝をしていたりする。父親を亡くした当時の灯花は死んだ魚のような目をしており、そんな彼の事情を知っているクラスメイトや担任の先生はどんな言葉をかけるべきかを考えた結果、今はそっとしておくのが一番だろうと、声をかけないという選択を取ったのだ。
時間が解決するなんてよく言うが、それは周りの人間の力添えがあってこそ成立するものだろう。周りの人間が遊びに誘ったり、一緒に美味しいご飯を食べたり。そういった日々の積み重ねが当事者の心を徐々に癒していくのだ。
しかし誰からも声をかけてもらえなければ、塞ぎ込んでいくばかりだ。
そんな状況を打破したのはこの朝からハイテンションなサッカー部こと山内辰之である。彼だけが今までと何一つ変わらない態度で灯花に接してくれた。だからこそ灯花は塞ぎ込むことはなく、誰かを助けたいという想いで自分からドナー登録するに至るほど、前を向くようになったのだろう。
灯花はときより辰之に対し「あのときはありがとう」と告げる。それに対し辰之は「お礼言われるようなことなんてしたかなぁ」と自分には思い当たる節がないと言わんばかりの態度を取る。
きっと辰之は嘘をついていない。ただ友達に声をかけただけ。そんな認識だろう。
そんな辰之だからこそ、灯花は感謝をしているのかもしれない。
高校の最寄り駅である梅ケ原高等学校前駅に電車が到着すると、ダムの放流かのように電車に乗っていた梅ケ原の生徒が降りる。
もう二年以上この光景を見続けているため今更何も思うことはないが、梅ケ原に入学してから一ヶ月はそのすごさに圧巻されたものだと灯花は当時のことを思い出しながら電車を降り、辰之と共に学校へと向かう。
いざ実際に電車の外に出ると、電車内の冷房はしっかりと機能していたのだと気づく。電車内でさえ額に汗を滲ませていたというのに、外に出たときのあのモワッとした空気を感じた瞬間、滲ませていただけだった汗が頬を伝い、顎先から地面へと落下していくのが感覚として伝わってくる。
「最近の気温は異常じゃないか? まだ七月だぞ?」と隣りにいる辰之に問いかけるように灯花は話を振る。
「そんでもってまだ朝の七時だもんな。異常だよ異常。ちなみに何度?」とスムーズに会話を進めていく辰之に灯花は自分のスマホで確認しろよと心のなかで思いながらも、調べたらすぐに分かることを聞くのが会話なのだと自分の中で結論づけ、自身のスマホに目を向ける。
「今三十一度。今日はマックス三十七度まで上がるらしいぞ」
「マジかよ……。部活中に俺死ぬんじゃね?」
「熱中症にだけは気をつけろよ? 水分補給はこまめに取れよな」
「さっすがダーリン! 俺のコト好きすぎて超心配してくれてんじゃん!」
「誰がダーリンだよハニー。あ、そうだ。タブレットやるよ」そう言って灯花はスクールバッグの内ポケットに入れていた塩レモン風味のタブレットを四つほど辰之に手渡す。
このタブレットはアルバイト先であるガソリンスタンドで配布されているもので、炎天下の中作業することもあるため、店長がスタッフが倒れないようにと買ってくれたものだ。現に灯花はこの塩レモン風味のタブレットに何度も助けられている。
「サンキュー! これで今日の俺は無敵だわ!」
「あくまで応急処置だからな。あとは必ず水分をたくさん取ること! いいな!」
「やっぱりダーリンじゃなくて、お母さんかも」
「サッカー部のムキムキスポーツマンを生んだ覚えはありません」
「いつもありがとう、お母さん!」
そう言って灯花の右腕に抱きつく辰之に「暑いからやめろ!」と右腕を大きく振る灯花の表情は目にシワが寄るほどの笑みを浮かべていた。
校門をくぐった後、辰之は部活の朝練があるからと走って部室棟へと向かった。
もう高校三年生だと言うのに、引退せずいつまで部活を続けるつもりなのだろうと心の何処かでは思いつつも、そういえば来週が最後の大会だっけ? と先日辰之が「最後の大会は応援に来いよ」と言っていたことを思い出し、スマホのスケジュールアプリを起動させ灯花は自身の予定を確認する。
「バイトは入って……ないな。応援行けるわ」と誰に言うわけでもなく、そう自分にだけ聞こえるように呟き、電車を降りてから気温を確認するために取り出したままのスマホを制服のポケットに突っ込む。
サッカー部の朝練に間に合うほど早い時間に登校した甲斐はなく、教室にはまだ誰の姿も無かった。つまりはまだ誰も登校していないということなのだが、そうなると必然的に教室のクーラーはついていない。
灯花は自分の席にスクールバッグを置くと、中から下敷きだけを取り出しそれをうちわのように仰ぎ風を起こしながら職員室へと向かう。私立梅ケ原高等学校は今年で創立四十五年を迎える高校であり、教室に設置されている空調を操作するパネルは各教室にあるわけではなく、職員室で一括管理をしているのだ。
そのため梅ケ原では一番最初に登校した生徒が職員室に行ってクーラーをつけるという暗黙のルールが存在する。別にこのルールを守らなかったら何かしらの罰があるだとかそういうことは一切無いのだが、クーラーをつけなければただただ暑いだけの教室でホームルームが開始されるのを待つだけの時間を過ごすことになる。
いくら冬より夏が好きと公言している人であっても、暑さを耐え続けることは不可能なわけで、夏よりも冬が好きな灯花は大人しく職員室へと足を運んだ。
「三年一組の宮崎灯花です。教室のクーラーをつけに来ました。失礼します」と職員室の扉付近でそう宣言してから職員室へと入る。これは梅ケ原のルールの一つであり、先ほどの一番最初に登校した生徒がクーラーをつけにいくという暗黙のルールとは違い、こちらは学校側が定めている正式なルールだ。
極力家にいる時間を減らしたい灯花はほぼ毎日のように一番に教室に来ては、夏も冬も変わらず空調を操作しに職員室に訪れているのだから、いい加減この宣言しなければならないルールも適用外にしてほしいものだと考えつつも、職員室の前に立つと自然と宣言してしまうようになったため、人間の慣れとは恐ろしいと思っていた。
「お、宮崎! ちょうどいいところに」
「おはようございます神崎先生。先生にはちょうどいいタイミングだったかもしれませんが、俺にはクーラーをつけなければならないという重大なミッションを遂行しているところなんです。忙しいので先生の依頼を引き受けることはできません」
「何が重大なミッションだ! ボタンをポチッて押すだけで終わるミッションがあってたまるか! あと下敷きは仰ぐためのものじゃないぞ」
そんな的確なツッコミを入れてくるのは神崎志信。梅ケ原高等学校に勤務する教師であり、灯花や辰之が在籍する三年一組の担任でもある。父親をなくした灯花をまるで腫れ物に触るような態度を取る教師たちとは違い、”教師とはこうあるべきだ!”という持論を掲げ、どんなときでも生徒の立場と教師としての立場を考えたうえで声をかけてくれるタイプの教師である。そんな教師の鏡とも呼べる神崎だが、彼が何かを生徒に頼もうとしているときはろくなことが無いことを灯花は知っている。
「そんな拗ねた顔したって可愛くないぞー」
「俺は別に先生に可愛いって思われたくてこんな顔してるわけじゃありません。あと下敷きは仰ぐためにも使っているだけで、普段はちゃんとノートに敷いて使ってますよ」
「本来の使い方をしてあげたほうが道具も喜ぶってもんだっ!」と言いながら神崎は灯花に竹でできた黒のシンプルな扇子を差し出す。灯花は多少の警戒を見せつつも、差し出されたその扇子を受け取る。
「受け取ったなら今日からその扇子は宮崎の物だ。じゃあ扇子のお礼ってことで手伝って?」
やっぱり受け取るんじゃなかったと数秒前の自分の行動を後悔しつつも、灯花は受け取ったばかりの扇子に目を向ける。
「……この扇子高いんじゃないですか? こんなもの生徒にあげていいです?」
「宮崎は百均に行かないのか? それは百均の商品だ! 最近の百均はすごいんだぞ?」
本当に受け取らなければよかったと、今度は表情にまで出したのだが、神崎は一切灯花の表情を気にすることなく、自身の要件を簡潔に伝える。
「生徒会準備室に机と椅子があるんだ。それを一緒に運んでくれ」
「……椅子なら持ってあげます」
「軽い方を選ぶな。宮崎は机を運んでくれ! そして俺が椅子を運ぶ」
「……飲み物も買ってくれるなら検討します」
「なっちゃんのオレンジでどうだ?」
「わかりました。準備室に行きましょう」
「宮崎は話が早くて助かるよ」
灯花は持っていた下敷きを腰とベルトの間に挟み込むと、もらったばかりの扇子で自分だけを仰ぎながら、神崎と共に生徒会準備室へと向かった。
梅ケ原高等学校は三階建ての学校であり、その二階に生徒会準備室がある。一階にある職員室からは階段で二階にあがり、すぐのところだ。
神崎は慣れた手つきで生徒会準備室の扉の鍵を開けると、中からは埃っぽいだけではなくサウナルームに入った瞬間のような暑い空気が灯花と神崎を襲う。
「…………ウチの高校の生徒会は何をしてるんですか?」掃除が行き届いていないことの不満を灯花は神崎にぶつける。
「そう言ってやるなよ。大事なモノとかも保管してるらしいから他の生徒に掃除をさせるわけにもいかないし、生徒会は生徒会でやることがあるしなぁ」神崎は手で口元を抑え、ホコリを吸わないようにしながらも目的の机と椅子を見つけ、招き猫のようなのて動きで灯花を呼ぶ。
「コレな」
「はーい。それでコレをどこまで運べば良いんですか?」
「ん? 三年一組だよ」
「……誰かの机壊れてましたっけ?」
「いいや。それは転校生用だ」椅子を持ち上げたことで口元を抑えていた手がどいた神崎の顔はなぜか左の広角だけが上がっており、さながら自慢話をするかのような表情だ。
「転校生? ウチのクラスに?」そんなこと聞いてないと言わんばかりの大声を上げた灯花に対し、「急に決まったんだよ。俺も詳しいことは知らん。まぁいいサプライズになったんじゃないか?」と自信有りげにそう告げる神崎に思わず舌打ちをしたくなるほどの若干の苛つきを覚えつつも、なっちゃんオレンジのために机を運び出す。
教室に着くと、先ほど入れたクーラーがいい感じに教室を冷やしてくれており、机を運び火照った灯花の体を優しく包み込むように冷やしてくれるようであった。
「ちょっとほこり被ってるから、きれいに拭いといてくれ」
「……いいけど」
「なーに安心しろ! 俺は今からなっちゃんを買ってくんだよ!」
そう言って教室を出た神崎は自動販売機がある売店の方ではなく、職員室へと向かっていく。やっぱり引き受けるんじゃなかったと思いながらも、スクールバッグの中からアルコールが配合されているウエットティッシュを取り出し、机と椅子をきれいにしていく。
「雑巾で拭くのは、ちょっと違うよな」と呟く灯花の声は誰の耳にも聞こえなかった。



