龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

富士山の夢を見るようになってから、私は地図を見る癖がついた。
富士山。
青木ヶ原樹海。
西湖。
本栖湖。
精進湖。
ニュースや観光サイトを見る。
理由は分からない。
ただ、懐かしかった。
行ったこともないはずなのに、どうしても気になる。
そんな場所だった。
夢は日に日に鮮明になっていった。
深い洞窟。
静かな湖。
差し込む白い光。
そして、誰かの声。
『こちらです』
優しい声。
何度も聞いた声。
夢の中の青年の声だった。
『もう少しです』
私はその声を追いかける。
夢の中で。
何度も。
何度も。
何度も。
ある夜、私は久しぶりに外へ出た。
夕暮れだった。
家の近くの公園。
子どもたちが遊んでいる。
犬の散歩をする人。
買い物帰りの人。
みんな普通に生きている。
その光景が眩しかった。
私はベンチに座って胸に手を当てる。
心臓は今日も少し苦しかった。
でも、それ以上に心が疲れていた。
「私は何をしているんだろう」
空に向かって囁いた。
大学へ行けない。
働いていない。
友達も少ない。
恋人もいない。
将来も見えない。
頑張ろうとしても身体がついてこない。
そんな日々だった。
空を見上げる。
夕焼けが綺麗だった。
そして、そこにいた白い龍。
私は目を擦る。
消えない。
本当にいる。
巨大な身体。
夕焼け色の雲の向こう。
静かにこちらを見ている。
昔から見ていた龍。
夢の中の人。
知らないはずの存在なのに涙が出た。
「どうして……」
自分でも分からない。
ただ苦しかった。
寂しかった。
そして、会いたかった。
誰に?
分からない。
分からないのに胸が締め付けられる。
その時だった。
風が吹く。
耳元で声がした気がした。
『迎えに行きます』
私は立ち上がる。
辺りを見る。
誰もいない。
でも、確かに聞こえた。
『約束しましたから』
胸の奥が熱くなる。
何の約束だろう。
誰との約束だろう。
分からない。
それなのに、なぜだろう。
私はその言葉を信じた。
昔から知っていたみたいに。
その夜、また夢を見た。
今までで一番鮮明な夢だった。
雲海。
龍たち。
黄金の空。
そして、白い青年。
彼はもう私の周りをぐるぐる回っていなかった。
ただ真っ直ぐに私を見ていた。
泣きそうなほど優しい目で。
「ようやく見つけました」
彼は泣きそうな顔で言う。
私は息を呑む。
胸が痛い。
苦しい。
でも、なぜか嬉しかった。
「誰……?」
そう聞くと青年は少しだけ笑った。
そして、今まで一度も言わなかった言葉を口にする。
「お迎えに来ました」
その瞬間、遠くで龍の咆哮が響いた。
黒い龍だった。
『まだ早いぞぉぉぉぉ!!』
『娘ちゃんはまだ心の準備ができてないぞぉぉぉ!!』
青年が露骨に嫌そうな顔をする。
『黒龍』
『義父になる予定だからって邪魔しないでください』
『予定って何だぁぁぁぁ!!』
『まだ許してないぞぉぉぉ!!』
夢の中なのに思わず吹き出してしまった。
長い間忘れていた私の心からの笑顔だった。