契約が終わった。
その瞬間から龍界はお祭り騒ぎだった。
龍たちは空を舞い、祝福の光が降り注ぐ。
雲海は七色に輝いていた。
私は白龍と並んで歩く。
龍王妃として。
そして、私として百年前には叶わなかった未来。
その中を歩いていた。
祝宴が始まる。
八大龍王が次々と日本酒を持ってくる。
白龍は断れない。
私は少し笑ってしまう。
「人気者ですね」
白龍は困ったような顔をした。
「今日は特にです」
その時だった。
遠くから大声が聞こえる。
「娘ぇぇぇぇぇぇん!!」
黒龍だった。
また泣いている。
今日だけで何回目だろう。
「嫁に行っちまったぁぁぁぁ!!」
周囲の龍たちは慣れていた。
「黒龍様ですから」
誰も止めない。
私は苦笑する。
すると白龍が小さく言った。
「見ますか?」
「何をですか?」
白龍が指先を動かす。
水鏡が現れた。
そこに映ったのは貴船神社だった。
私は目を見開く。
雨、まだ降っている。
いや、むしろ激しくなっていた。
神職たちが走り回っている。
その中心で黒龍が頭を抱えていた。
「止まらねぇぇぇぇ!!」
神職が叫ぶ。
「黒龍様! もう川が限界です!」
「俺だって限界だ!!」
私は吹き出した。
白龍も肩を震わせている。
神職が恐る恐る尋ねる。
「いつ止むんですか?」
黒龍は空を見上げる。
そして、少しだけ笑った。
「娘が幸せになったらだ」
私は笑うのをやめた。
胸が温かくなる。
黒龍は続ける。
「ずっと心配だったんだよ」
神職たちは黙って聞いている。
「熱ばっかり出して、心臓も弱くて、いつも苦しそうで」
私は息を呑む。
黒龍の声は静かだった。
「でもな」
彼は少し誇らしそうに笑う。
「全部意味があった」
雨が降る。
貴船神社の空を。
龍界の空を。
同じ雨が繋いでいた。
黒龍は空へ向かって言う。
「聞いてるか、志穂」
私は思わず水鏡へ手を伸ばした。
届かない。
それでも。
黒龍は笑った。
優しく。
父親のように。
「お前、龍の王女だぞ」
涙が零れた。
子どもの頃、何度も思った。
どうして自分だけが病気なのか。
どうして友達ができないのか。
どうして苦しいのか。
どうして生きるのが辛いのか。
その答えは全部ではない。
全部を説明できるわけでもない。
けれども、無意味ではなかった。
私はここまで来た。
泣いて。
苦しんで。
迷って。
それでも生きた。
だから今ここにいる。
私は涙を拭く。
そして白龍を見る。
彼は何も言わない。
ただ、私の手を握る。
百年前と違って。
今度は離さないように。
私は微笑む。
「白龍様」
「はい」
「幸せです」
白龍の瞳が揺れた
そして百年間閉じ込めていた想いが解けるように。
静かに破顔一笑する。
「私もです」
その時だった。
雨が止んだ。
貴船神社の空、龍界の空、同時に雲が割れる。
光が差し込む。
そして、大きな虹が現れた。
神職たちが歓声を上げる。
龍界の龍たちも空を見上げる。
黒龍は、また泣いていた。
「綺麗だなぁぁぁぁ……」
誰も笑わなかった。
皆同じ気持ちだったから。
百年前、叶わなかった恋。
百年間、待ち続けた想い。
ようやく結ばれた。
私は白龍の肩にもたれる。
彼は静かに私を抱き寄せた。
龍界の空には虹。
その下で私たちは未来を見上げる。
もう契約はいらない。
もう別れもない。
ここから先は夫婦として歩いていく。
百年越しの恋の続きを。
永遠に。
エピローグ そして龍王は花嫁を離さない
婚礼から半年後。
私は白龍と共に人間界へ降りていた。
目的地は一つ。
長野県。
黒姫山。
千年前。
私が黒姫として生きていた土地。
そして、今は伝説として語り継がれている場所だった。
山道を歩く。
夏の風が吹く。
木々が揺れる。
懐かしい。
来たことがないはずなのにと、不思議に思った。
「大丈夫ですか」
隣を歩く白龍が聞く。
私は頷く。
「はい」
昔の私なら緊張していたかもしれない。
でも今は違う。
私はもう。
逃げてばかりだった杉本志穂ではない。
龍族の女王。
黒姫だから。
やがて湖が見えてくる。
黒姫湖。
伝説の舞台。
私は静かに湖を見つめた。
その瞬間。
遠い記憶が蘇る。
桜。
雨。
泣きながら笑った自分。
白龍。
そして約束。
――迎えに来てください。
胸の奥が温かくなった。
私は白龍を見た。
彼もまた湖を見つめていた。
百年。
ずっと待ち続けていた人。
ようやく隣に立った人。
私はそっと手を握る。
白龍も握り返した。
その時だった。
背後から豪快な声が響いた。
「娘ぇぇぇぇぇん!」
振り返る。
黒龍だった。
私は思わず笑う。
相変わらずだった。
けれども、その声を聞いた瞬間、ある記憶が繋がった。
幼い頃。
布団の中。
豪雨の夜。
聞こえた声。
『娘ちゃぁぁぁん』
私は目を見開く。
「……あ」
黒龍が首を傾げる。
「どうした?」
私は思わず言った。
「もけれどもて……私が小さい頃から見ていた黒いものって……」
黒龍が固まった。
白龍が目を逸らす。
国之常立神が頭を抱える。
私は確信した。
「黒龍様だったんですか」
沈黙。
そして、黒龍が大声で叫んだ。
「仕方なかったんじゃ!」
図星だった。
「だって娘だったんだぞ!」
「心配するだろう!」
「保育園にも行った!」
「運動会も見た!」
「入学式も見た!」
「大学も見た!」
私は呆然とした。
ストーカーだった。
「見守りだ!」
心を読んだらしい。
私は笑う。
すると黒龍も笑った。
その時、白龍が静かに言った。
「黒いものは黒龍様でしたが、小さな白龍は私です」
私は振り返る。
知っていた。
けれども聞きたかった。
「いつから?」
白龍は少しだけ微笑んだ。
「前世からです」
私は驚いた。
「ずっと?」
「ずっとです」
「百年間」
その言葉に胸が熱くなる。
本当に。
ずっとだった。
湖のほとりに小さな石碑があった。
黒姫伝説。
そう刻まれている。
人々は今も信じている。
黒姫は死んだ。
龍は天へ帰った。
そう。
伝説では。
でも真実は違う。
私は石碑に触れた。
そして静かに呟く。
「終わりましたよ」
千年前の私へ。
ずっと泣いていた私へ。
ようやく言えた。
帰り際。
私は空を見上げる。
青空だった。
昔から私は晴れ女だった。
理由は後になって知った。
黒姫は龍界の天候を司る女王だった。
その力が少しだけ漏れていたのだと。
そして、生まれつき弱かった心臓。
その理由も今なら知っている。
私は人間ではなかったから。
女王の魂は本来。
龍界にあるべきだった。
追放された代償として。
魂が欠けた状態で生まれた。
だから心臓に穴があいていた。
だから苦しかった。
だから生きづらかった。
けれども今は違う。
失われていた魂は戻った。
もう苦しくない。
ふと。
母のことを思い出す。
母は知っていた。
自分が龍女の末裔であることを。
そして私が特別な存在であることを。
幼い頃、母はこう言った。
『志穂にはちゃんと居場所があるのよ』
当時は分からなかった。
でも今なら分かる。
母は最後まで信じてくれていた。
白龍が手を差し出す。
「帰りましょう」
私は微笑んだ。
「はい」
帰る場所はもう決まっている。
龍界。
龍王宮。
私の家。
私の居場所。
百年前、叶わなかった願い。
百年間、待ち続けた想い。
孤独だった少女。
愛を知らなかった女王。
全てを乗り越えて。
私はようやく辿り着いた。
それから龍界は平和になった。
百年間続いた契約も終わった。
空の裂け目も消えた。
龍界はかつてないほど穏やかだった。
ただ一つ問題があるとすれば。
「白龍様」
「はい」
「近いです」
「そうでしょうか」
近い。
どう考えても近い。
私は本を読んでいる。
白龍は隣にいる。
肩が触れている。
いや、半分抱き寄せられている。
「読みにくいです」
「申し訳ありません」
そう言いながら離れない。
全然申し訳なさそうじゃない。
私はため息をつく。
すると、白龍は少しだけ笑った。
「志穂」
「何ですか」
「幸せですか」
私は思わず吹き出した。
今日だけで三回目だった。
「幸せです」
「本当に?」
「本当です」
白龍は安心したように微笑む。
百年待った反動らしい。
最近はずっとこんな感じだった。
その時、勢いよく扉が開く。
嫌な予感がした。
「娘ぇぇぇぇぇん!!」
来た。
黒龍だった。
白龍が即座に顔をしかめる。
「ノックをしてください」
「そんな場合じゃねぇ!」
黒龍は大慌てだった。
私は首を傾げる。
「どうしたんですか?」
黒龍は真顔になる。
そして、恐ろしいことを言った。
「孫はまだか」
沈黙。
龍宮全体が静まった気がした。
私は固まる。
白龍も固まる。
黒龍だけが真剣だった。
「黒龍様」
白龍が低い声を出す。
危険な声だった。
けれども黒龍は気付かない。
「だって気になるだろ! 娘だぞ!? 結婚したんだぞ!? 孫だろ!」
白龍の額に青筋が浮く。
私は慌てて止めた。
「落ち着いてください!」
「どっちをだ!」
確かに。
どっちもだった。
その時だった。
外から声が聞こえる。
「黒龍様!」
神職だった。
黒龍が振り返る。
「何だ!」
「貴船神社で雨が降っています!」
黒龍は固まった。
ゆっくり私を見る。
私も空を見る。
晴れている。
私は首を傾げる。
「私じゃありませんよ?」
黒龍はさらに固まる。
「じゃあ誰だ
全員が考える。
そして、遠くで小さな雷が鳴った。
黒龍が青ざめる。
「まさか……」
白龍も何かに気付いた。
「黒龍様」
「言うな」
「ご自身では」
「言うなぁぁぁぁ!!」
龍界に笑い声が響く。
どうやら。
娘の結婚式を思い出して黒龍自身が雨を降らせていたらしい。
本人だけが気付いていなかった。
私は笑う。
白龍も笑う。
黒龍は頭を抱える。
空には小さな虹が架かっていた。
私はその景色を見上げる。
もう苦しくない。
もう一人じゃない。
百年前に叶わなかった願い。
百年間待ち続けた想い。
その全てが今ここにある。
すると、白龍がそっと手を握った。
私は握り返す。
白龍は優しく微笑んだ。
そして静かに言う。
「志穂」
「はい」
「愛しています」
私は少し照れながら笑った。
「知っています」
白龍は少しだけ驚く。
私は続けた。
「だって百年も待ったじゃないですか」
その言葉に白龍は本当に幸せそうに笑った。
龍界の空に虹が架かる。
そして今日も龍王は花嫁を離さない。
その瞬間から龍界はお祭り騒ぎだった。
龍たちは空を舞い、祝福の光が降り注ぐ。
雲海は七色に輝いていた。
私は白龍と並んで歩く。
龍王妃として。
そして、私として百年前には叶わなかった未来。
その中を歩いていた。
祝宴が始まる。
八大龍王が次々と日本酒を持ってくる。
白龍は断れない。
私は少し笑ってしまう。
「人気者ですね」
白龍は困ったような顔をした。
「今日は特にです」
その時だった。
遠くから大声が聞こえる。
「娘ぇぇぇぇぇぇん!!」
黒龍だった。
また泣いている。
今日だけで何回目だろう。
「嫁に行っちまったぁぁぁぁ!!」
周囲の龍たちは慣れていた。
「黒龍様ですから」
誰も止めない。
私は苦笑する。
すると白龍が小さく言った。
「見ますか?」
「何をですか?」
白龍が指先を動かす。
水鏡が現れた。
そこに映ったのは貴船神社だった。
私は目を見開く。
雨、まだ降っている。
いや、むしろ激しくなっていた。
神職たちが走り回っている。
その中心で黒龍が頭を抱えていた。
「止まらねぇぇぇぇ!!」
神職が叫ぶ。
「黒龍様! もう川が限界です!」
「俺だって限界だ!!」
私は吹き出した。
白龍も肩を震わせている。
神職が恐る恐る尋ねる。
「いつ止むんですか?」
黒龍は空を見上げる。
そして、少しだけ笑った。
「娘が幸せになったらだ」
私は笑うのをやめた。
胸が温かくなる。
黒龍は続ける。
「ずっと心配だったんだよ」
神職たちは黙って聞いている。
「熱ばっかり出して、心臓も弱くて、いつも苦しそうで」
私は息を呑む。
黒龍の声は静かだった。
「でもな」
彼は少し誇らしそうに笑う。
「全部意味があった」
雨が降る。
貴船神社の空を。
龍界の空を。
同じ雨が繋いでいた。
黒龍は空へ向かって言う。
「聞いてるか、志穂」
私は思わず水鏡へ手を伸ばした。
届かない。
それでも。
黒龍は笑った。
優しく。
父親のように。
「お前、龍の王女だぞ」
涙が零れた。
子どもの頃、何度も思った。
どうして自分だけが病気なのか。
どうして友達ができないのか。
どうして苦しいのか。
どうして生きるのが辛いのか。
その答えは全部ではない。
全部を説明できるわけでもない。
けれども、無意味ではなかった。
私はここまで来た。
泣いて。
苦しんで。
迷って。
それでも生きた。
だから今ここにいる。
私は涙を拭く。
そして白龍を見る。
彼は何も言わない。
ただ、私の手を握る。
百年前と違って。
今度は離さないように。
私は微笑む。
「白龍様」
「はい」
「幸せです」
白龍の瞳が揺れた
そして百年間閉じ込めていた想いが解けるように。
静かに破顔一笑する。
「私もです」
その時だった。
雨が止んだ。
貴船神社の空、龍界の空、同時に雲が割れる。
光が差し込む。
そして、大きな虹が現れた。
神職たちが歓声を上げる。
龍界の龍たちも空を見上げる。
黒龍は、また泣いていた。
「綺麗だなぁぁぁぁ……」
誰も笑わなかった。
皆同じ気持ちだったから。
百年前、叶わなかった恋。
百年間、待ち続けた想い。
ようやく結ばれた。
私は白龍の肩にもたれる。
彼は静かに私を抱き寄せた。
龍界の空には虹。
その下で私たちは未来を見上げる。
もう契約はいらない。
もう別れもない。
ここから先は夫婦として歩いていく。
百年越しの恋の続きを。
永遠に。
エピローグ そして龍王は花嫁を離さない
婚礼から半年後。
私は白龍と共に人間界へ降りていた。
目的地は一つ。
長野県。
黒姫山。
千年前。
私が黒姫として生きていた土地。
そして、今は伝説として語り継がれている場所だった。
山道を歩く。
夏の風が吹く。
木々が揺れる。
懐かしい。
来たことがないはずなのにと、不思議に思った。
「大丈夫ですか」
隣を歩く白龍が聞く。
私は頷く。
「はい」
昔の私なら緊張していたかもしれない。
でも今は違う。
私はもう。
逃げてばかりだった杉本志穂ではない。
龍族の女王。
黒姫だから。
やがて湖が見えてくる。
黒姫湖。
伝説の舞台。
私は静かに湖を見つめた。
その瞬間。
遠い記憶が蘇る。
桜。
雨。
泣きながら笑った自分。
白龍。
そして約束。
――迎えに来てください。
胸の奥が温かくなった。
私は白龍を見た。
彼もまた湖を見つめていた。
百年。
ずっと待ち続けていた人。
ようやく隣に立った人。
私はそっと手を握る。
白龍も握り返した。
その時だった。
背後から豪快な声が響いた。
「娘ぇぇぇぇぇん!」
振り返る。
黒龍だった。
私は思わず笑う。
相変わらずだった。
けれども、その声を聞いた瞬間、ある記憶が繋がった。
幼い頃。
布団の中。
豪雨の夜。
聞こえた声。
『娘ちゃぁぁぁん』
私は目を見開く。
「……あ」
黒龍が首を傾げる。
「どうした?」
私は思わず言った。
「もけれどもて……私が小さい頃から見ていた黒いものって……」
黒龍が固まった。
白龍が目を逸らす。
国之常立神が頭を抱える。
私は確信した。
「黒龍様だったんですか」
沈黙。
そして、黒龍が大声で叫んだ。
「仕方なかったんじゃ!」
図星だった。
「だって娘だったんだぞ!」
「心配するだろう!」
「保育園にも行った!」
「運動会も見た!」
「入学式も見た!」
「大学も見た!」
私は呆然とした。
ストーカーだった。
「見守りだ!」
心を読んだらしい。
私は笑う。
すると黒龍も笑った。
その時、白龍が静かに言った。
「黒いものは黒龍様でしたが、小さな白龍は私です」
私は振り返る。
知っていた。
けれども聞きたかった。
「いつから?」
白龍は少しだけ微笑んだ。
「前世からです」
私は驚いた。
「ずっと?」
「ずっとです」
「百年間」
その言葉に胸が熱くなる。
本当に。
ずっとだった。
湖のほとりに小さな石碑があった。
黒姫伝説。
そう刻まれている。
人々は今も信じている。
黒姫は死んだ。
龍は天へ帰った。
そう。
伝説では。
でも真実は違う。
私は石碑に触れた。
そして静かに呟く。
「終わりましたよ」
千年前の私へ。
ずっと泣いていた私へ。
ようやく言えた。
帰り際。
私は空を見上げる。
青空だった。
昔から私は晴れ女だった。
理由は後になって知った。
黒姫は龍界の天候を司る女王だった。
その力が少しだけ漏れていたのだと。
そして、生まれつき弱かった心臓。
その理由も今なら知っている。
私は人間ではなかったから。
女王の魂は本来。
龍界にあるべきだった。
追放された代償として。
魂が欠けた状態で生まれた。
だから心臓に穴があいていた。
だから苦しかった。
だから生きづらかった。
けれども今は違う。
失われていた魂は戻った。
もう苦しくない。
ふと。
母のことを思い出す。
母は知っていた。
自分が龍女の末裔であることを。
そして私が特別な存在であることを。
幼い頃、母はこう言った。
『志穂にはちゃんと居場所があるのよ』
当時は分からなかった。
でも今なら分かる。
母は最後まで信じてくれていた。
白龍が手を差し出す。
「帰りましょう」
私は微笑んだ。
「はい」
帰る場所はもう決まっている。
龍界。
龍王宮。
私の家。
私の居場所。
百年前、叶わなかった願い。
百年間、待ち続けた想い。
孤独だった少女。
愛を知らなかった女王。
全てを乗り越えて。
私はようやく辿り着いた。
それから龍界は平和になった。
百年間続いた契約も終わった。
空の裂け目も消えた。
龍界はかつてないほど穏やかだった。
ただ一つ問題があるとすれば。
「白龍様」
「はい」
「近いです」
「そうでしょうか」
近い。
どう考えても近い。
私は本を読んでいる。
白龍は隣にいる。
肩が触れている。
いや、半分抱き寄せられている。
「読みにくいです」
「申し訳ありません」
そう言いながら離れない。
全然申し訳なさそうじゃない。
私はため息をつく。
すると、白龍は少しだけ笑った。
「志穂」
「何ですか」
「幸せですか」
私は思わず吹き出した。
今日だけで三回目だった。
「幸せです」
「本当に?」
「本当です」
白龍は安心したように微笑む。
百年待った反動らしい。
最近はずっとこんな感じだった。
その時、勢いよく扉が開く。
嫌な予感がした。
「娘ぇぇぇぇぇん!!」
来た。
黒龍だった。
白龍が即座に顔をしかめる。
「ノックをしてください」
「そんな場合じゃねぇ!」
黒龍は大慌てだった。
私は首を傾げる。
「どうしたんですか?」
黒龍は真顔になる。
そして、恐ろしいことを言った。
「孫はまだか」
沈黙。
龍宮全体が静まった気がした。
私は固まる。
白龍も固まる。
黒龍だけが真剣だった。
「黒龍様」
白龍が低い声を出す。
危険な声だった。
けれども黒龍は気付かない。
「だって気になるだろ! 娘だぞ!? 結婚したんだぞ!? 孫だろ!」
白龍の額に青筋が浮く。
私は慌てて止めた。
「落ち着いてください!」
「どっちをだ!」
確かに。
どっちもだった。
その時だった。
外から声が聞こえる。
「黒龍様!」
神職だった。
黒龍が振り返る。
「何だ!」
「貴船神社で雨が降っています!」
黒龍は固まった。
ゆっくり私を見る。
私も空を見る。
晴れている。
私は首を傾げる。
「私じゃありませんよ?」
黒龍はさらに固まる。
「じゃあ誰だ
全員が考える。
そして、遠くで小さな雷が鳴った。
黒龍が青ざめる。
「まさか……」
白龍も何かに気付いた。
「黒龍様」
「言うな」
「ご自身では」
「言うなぁぁぁぁ!!」
龍界に笑い声が響く。
どうやら。
娘の結婚式を思い出して黒龍自身が雨を降らせていたらしい。
本人だけが気付いていなかった。
私は笑う。
白龍も笑う。
黒龍は頭を抱える。
空には小さな虹が架かっていた。
私はその景色を見上げる。
もう苦しくない。
もう一人じゃない。
百年前に叶わなかった願い。
百年間待ち続けた想い。
その全てが今ここにある。
すると、白龍がそっと手を握った。
私は握り返す。
白龍は優しく微笑んだ。
そして静かに言う。
「志穂」
「はい」
「愛しています」
私は少し照れながら笑った。
「知っています」
白龍は少しだけ驚く。
私は続けた。
「だって百年も待ったじゃないですか」
その言葉に白龍は本当に幸せそうに笑った。
龍界の空に虹が架かる。
そして今日も龍王は花嫁を離さない。

