龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

龍界は静かだった。
百年前の約束が果たされた翌日。
空はどこまでも青い。
雲海は穏やかで、まるで世界そのものが安心したようだった。
私は龍宮の庭園を歩いていた。
胸の奥が不思議と温かい。
黒姫の記憶も、私の記憶も、どちらも私だった。
逃げる必要はない。
忘れる必要もない。
そう思えた。
「志穂」
振り返る。
白龍だった。
私は微笑む。
「白龍様」
その呼び方に白龍は少し困ったように笑った。
「その呼び方も好きですが」
「今日は違います」
「え?」
白龍は静かに手を差し出した。
「少し付き合ってください」
私はその手を取る。
百年前、最後に離した手。
今日は暖かかった。
二人で歩く雲海の上、龍界で最も高い場所。
龍王しか入れない聖域。
そこで白龍は立ち止まった。
風が吹く。
銀色の髪が揺れる。
私は胸が高鳴るのを感じていた。
何かが起きる。
そんな予感がした。
白龍はゆっくり振り返る。
そして跪いた。
私は目を見開く。
「え……?」
龍界が静まり返る。
遠くで龍たちが息を呑む気配がした。
龍王が跪いている。
私の前で。
白龍は真っ直ぐ私を見る。
その瞳には百年分の想いがあった。
「黒姫様」
私は首を振る。
すると白龍は微笑んだ。
「そうですね」
そして言い直す。
「志穂」
その呼び方だけで涙が出そうになる。
白龍は続けた。
「私は百年前、あなたに約束しました」
私は黙って聞く。
「何百年でも待つと」
風が吹く。
白龍の声だけが響く。
「ですが」
「本当は違いました」
私は首を傾げる。
白龍は少し笑う。
照れたように。
恥ずかしそうに。
百年間見たことがない顔だった。
「私は待ちたかったのではありません。ずっと隣にいたかった」
胸が締め付けられる。
「毎日会いたかった」
「笑っていてほしかった」
「泣いてほしくなかった」
「病気になってほしくなかった」
「苦しんでほしくなかった」
私の瞳から涙が溢れる。
白龍は続ける。
「心臓が弱かった時も」
「熱を出していた時も」
「ひとりで泣いていた時も」
「本当は迎えに行きたかった」
私は震える。
白龍は知っていた。
全部。
百年間。
見守っていた。
「ですが、それは許されませんでした」
白龍は小さく笑う。
「だから待ちました、百年。ただひたすら」
涙が止まらない。
白龍はゆっくり立ち上がる。
そして、私の手を取った。
優しく。
壊れ物に触れるように。
「黒姫様ではなく」
「龍王妃でもなく」
「龍王女でもなく」
白龍の声が震える。
「志穂として聞いてください」
世界が静まり返る。
龍界中の龍たちが見守っている。
黒龍まで泣いている。
まだ何も言われていないのに。
「早い!」
八大龍王に突っ込まれていた。
私は思わず笑ってしまう。
白龍も少し笑う。
そして、真っ直ぐ私を見た。
百年前と同じ瞳。
けれども今度は別れではない。
未来を見る瞳。
「志穂、私と結婚してください」
その言葉が空へ響く。
百年待った求婚。
私は泣きながら笑った。
もう答えは決まっていた。
ずっと前から。
「はい」
白龍の瞳が揺れる。
私は続けた。
「今度は私が選びます。白龍様」
涙が止まらない。
「あなたのお嫁さんになります
その瞬間、龍界全土が震えた。
歓声が響く。
龍たちが空へ舞い上がる。
花びらのような光が降り注ぐ。
そして、誰よりも大きな声が響いた。
「娘ちゃああああああん!!!!!」
黒龍だった。
「嫁に行くなぁぁぁぁ!!」
「今さらか!」
八大龍王の総ツッコミが飛ぶ。
龍界最大の結婚式が。
ついに始まろうとしていた。