龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

東の湖へ向かう調査隊は、その日の午後に編成された。
私を隊長とし、護衛の龍族が五名。
案内役として翠龍王配下の医療官が二名。
そして監督役として国之常立神が同行することになった。
「監視じゃないですよね?」
出発前、私は恐る恐る聞いた。
国之常立神は無表情のまま答える。
「半分は監視です」
「半分は?」
「補佐です」
即答だった。
私は思わず苦笑した。
相変わらず正直な人である。
湖へ到着すると、周囲の空気がどこか重かった。
青々としていたはずの木々は元気がなく、葉が黄色く変色している。
草花も枯れ始めていた。
「本当に異常が起きていますね」
翠龍王配下の医療官が眉をひそめる。
私は湖を見る。
以前よりも明らかに水位が低い。
胸の奥がざわついた。
『こっち……』
小さな声が聞こえる。
あの龍だ。
今日も私にしか見えていない。
半透明の身体を揺らしながら、湖の奥を指している。
「皆さん」
私は振り返った。
「湖の中央へ向かいます」
「理由は?」
国之常立神が聞く。
私は少し迷った。
小さな龍のことを話しても伝わらない。
だから別の言葉を探した。
「異常の中心がそこにある気がします」
国之常立神は数秒考える。
やがて頷いた。
「進みましょう」
船が出された。
一行は湖の中央へ向かう。
水面は静かだった。
だが近づくにつれて異変が見え始める。
「これは……」
護衛の一人が声を上げた。
湖の中央。
巨大な渦が生まれていた。
しかも。
黒い。
まるで墨を流したような色だった。
「瘴気です」
国之常立神が表情を険しくする。
「龍脈汚染」
私は息を呑んだ。
黒い渦は湖の底へ続いている。
そして、その中心から苦しそうな声が聞こえた。
『いたい……』
小さな龍が震えている。
『苦しい……』
私は思わず身を乗り出した。
「助けないと」
「待ってください」
国之常立神が止める。
「危険です」
「でも」
「瘴気に触れれば命を落とします」
私は唇を噛んだ。
どうすればいい。
ここまで来たのに。
その時だった。
護衛の一人が叫んだ。
「危ない!」
湖面が爆発する。
巨大な黒い触手のようなものが飛び出してきた。
悲鳴。
船が大きく揺れる。
「瘴気獣です!」
国之常立神が剣を抜く。
護衛たちも応戦する。
だが、倒しても倒しても次々現れる。
「数が多い!」
「押し切られます!」
現場が混乱する。
皆がそれぞれ戦い始めた。
私は立ち尽くす。
怖い。
身体が震える。
失敗したらどうしよう。
もし誰かが傷ついたら。
もし自分の判断が間違っていたら。
その時。
ふと昔を思い出した。
人間界で。
いつも周囲を見ていた。
怒られないように。
迷惑をかけないように。
自分の意見を飲み込んでいた。
誰かが決めるのを待っていた。
でも、今は違う。
私は隊長だ。
決めるのは私だ。
胸の奥が熱くなる。
「全員聞いてください!」
私は叫んだ。
皆が驚いて振り向く。
「瘴気獣の目的は私たちじゃありません!」
国之常立神が目を見開いた。
「何ですって?」
「守っているんです!」
私は黒い渦を見た。
「湖の底を!」
小さな龍が頷いていた。
『そう』
私は確信する。
この獣たちは敵ではない。
本来は湖の心臓を守る存在だ。
だが瘴気に侵されて暴走している。
「倒さないでください!」
護衛たちが戸惑う。
「けれども!」
「浄化します!」
その瞬間、全員が固まった。
国之常立神が真剣な顔で聞く。
「方法は?」
私は答えられなかった。
方法なんて知らない。
だけど、なぜか分かる気がした。
右腕の痣が熱い。
鼓動のように脈打っている。
「私を渦の中心へ連れて行ってください」
国之常立神の表情が変わる。
「却下です」
「でも」
「危険すぎます」
私はまっすぐ国之常立神を見る。
「国之常立神さん」
「……」
「信じてください」
沈黙。
湖上に風が吹く。
国之常立神は目を閉じた。
やがて小さく息を吐く。
「責任は私が取ります」
私の目が丸くなる。
「国之常立神さん」
「行きなさい」
それは初めての信頼だった。
私は頷く。
「はい」
その時。
湖の底から眩い光が漏れた。
まるで、誰かが目覚めようとしているように。