龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

その夜。
私はなかなか眠れなかった。
湖で聞いた声が気になって仕方なかったのだ。
悲しそうな声。
助けを求めるような声。
あれは何だったのだろう。
龍界へ来てから不思議なことは何度もあった。
だが、あの声は今までとは違った。
まるで直接心に響いてきたような感覚だった。
「気のせい……じゃないよね」
窓の外を見る。
月明かりが湖を照らしている。
静かな夜だった。
私は迷った。
国之常立神に相談するべきだろうか。
だが、証拠は何もない。
気のせいだったらどうしよう。
そう考えているうちに。
また聞こえた。
『たすけて……』
私は飛び起きた。
今度ははっきり聞こえた。
間違いない。
誰かが呼んでいる。
私は上着を羽織ると部屋を飛び出した。
廊下を走る。
侍女も護衛もいない。
本当は呼ぶべきなのかもしれない。
でも、今すぐ行かなければいけない気がした。
湖へ向かう。
夜風が冷たい。
月が水面に映っていた。
『ここ……』
声が近い。
私は湖畔に立った。
辺りを見回す。
誰もいない。
けれども。
右腕の痣が淡く光っていた。
「どこにいるの?」
問いかける。
すると、湖面が揺れた。
ぽちゃん。
小さな波紋が広がる。
そして、水の中から青白い光が浮かび上がった。
「え……?」
私は目を見開く。
それは小さな龍だった。
掌に乗りそうなほど小さい。
透き通った身体。
まるで水でできているようだった。
『やっと……見つけた……』
小さな龍は泣きそうな声で言った。
「あなたが呼んでたの?」
『うん』
私はしゃがみ込む。
不思議と怖くなかった。
むしろ懐かしい気持ちになった。
「何があったの?」
小さな龍は湖の奥を見た。
『苦しい』
「苦しい?」
『水が流れない』
私は首を傾げる。
意味が分からない。
すると小さな龍は必死に説明した。
『湖の心臓が眠ってる』
「湖の……心臓?」
『ずっと前から』
私は息を呑んだ。
心臓。
その言葉に妙な引っ掛かりを覚えた。
自分も心臓が弱かった。
だからかもしれない。
何となく放っておけなかった。
『お願い』
小さな龍は頭を下げた。
『助けて』
私は湖を見た。
暗い水面。
普通なら怖くて近づけない。
けれども。
胸の奥が熱くなっていた。
困っている誰かがいる。
助けを求めている。
それなら。
「分かった」
自然に言葉が出た。
『ほんと?』
「うん」
私は微笑む。
「私にできることなら」
その瞬間だった。
背後から声がした。
「何をしているのですか」
「ひゃあっ!?」
私は飛び上がった。
振り返る。
国之常立神だった。
腕を組みながら立っている。
無表情。
だが明らかに呆れている。
「真夜中に一人で出歩くなど危険です」
「す、すみません!」
思わず謝った。
だが国之常立神は眉をひそめた。
「誰と話していたのですか」
私は小さな龍を指差した。
「あの子です」
「……?」
国之常立神は何もない空間を見る。
「何もいませんが」
そして、私は固まった。
「えっ」
もう一度見る。
小さな龍はちゃんといる。
不安そうに私を見上げている。
「見えないんですか?」
「見えません」
国之常立神は即答した。
その時だった。
小さな龍が私の耳元へ飛んでくる。
『言わないで』
「え?」
『みんな忘れた』
悲しそうな声だった。
『だから見えない』
私は小さく息を呑む。
国之常立神が怪訝そうな顔をする。
「どうしました」
私は迷った。
言うべきか。
言わないべきか。
だが、このまま隠していても解決しない。
「国之常立神さん」
「はい」
「私、この湖の調査をしたいです」
国之常立神は目を細めた。
「理由は?」
私は湖を見る。
月光が揺れている。
小さな龍がそこにいた。
ずっと助けを待っていたのだろう。
誰にも見えず。
誰にも気付かれず。
ひとりぼっちで。
その姿は。
少しだけ昔の自分に似ていた。
「困っている人がいるからです」
静かな声だった。
けれども確かな決意があった。
国之常立神はしばらく黙っていた。
やがて。
「……そうですか」
それだけ言った。
だが、どこか少しだけ。
私を見る目が変わったような気がした。
こうして。
私の最初の試練は。
本当の意味で始まったのだった。