龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

翌朝。
私はほとんど眠れなかった。
白龍の言葉。
百年という時間。
黒姫の記憶。
全部が胸の中に残っている。
窓の外を見る。
龍界の朝は美しい。
雲海が金色に染まり。
龍たちが空を舞う。
まるで絵本の世界だ。
それなのに、私の胸は重かった。
「失礼します」
扉が開く。
白龍だった。
銀色の髪。
整った顔。
穏やかな微笑み。
いつも通り。
本当に、いつも通り。
「お加減はいかがですか」
私は少し考える。
「分かりません」
正直な答えだった。
白龍は苦笑する。
「そうですか」
沈黙。
以前なら心地よかった沈黙。
今は少し苦しい。
私は意を決する。
「白龍様」
「はい」
「黒姫は」
彼の瞳が揺れる。
「どうして消えたんですか」
静寂。
風の音だけが聞こえる。
白龍は答えない。
けれども今回は逃げなかった。
長い沈黙のあと。
「……守ろうとしたのです」
その一言だけ。
私は首を傾げる。
「誰をですか」
白龍は私を見る。
悲しいほど優しい目だった。
「全員を」
胸がざわつく。
全員。
龍族。
人間。
白龍。
そして自分自身すら。
私はなぜか確信する。
黒姫は、最後まで誰かを守ろうとしていた。
だから壊れた。
その時だった。
頭の奥が痛む。
ズキッ、私は思わず額を押さえる。
視界が揺れる。
「志穂!」
白龍が駆け寄る。
でも遅かった。
記憶が流れ込んでくる。
巨大な神殿。
燃える空。
泣いている龍たち。
そして、黒姫。
王座の前に立っている。
『これで終わります』
誰かが叫ぶ。
『駄目です!!』
若い白龍だった。
今よりずっと幼い。
けれども必死だった。
『行かないでください!』
その声に胸が締め付けられる。
黒姫は振り返る。
そして微笑む。
あまりにも優しく。
あまりにも悲しく。
『大丈夫』
その一言。
白龍が崩れ落ちる。
『全然大丈夫じゃない……』
映像が揺れる。
私は涙を流していた。
理由が分からない。
でも苦しい。
悲しい。
白龍の悲しみが。
そのまま胸に流れ込んでくる。
「志穂」
現実の白龍が私を抱き寄せる。
「見ないでください」
また同じ言葉。
でも、もう止まらない。
私は震えながら呟く。
「白龍様」
「黒姫は……死んだんですか」
白龍の身体が硬直する。
完全に。
初めて見るほど。
そして、彼は小さく答えた。
「いいえ」
私は目を見開く。
白龍の瞳から。
一筋だけ涙が落ちた。
「死ねなかったのです」
その言葉と同時に。
遠くの空で雷鳴が響いた。
まるで、その真実に触れるなと、世界そのものが警告しているようだった。


第十八章 黒姫という存在
「死ねなかったのです」
白龍の涙が落ちる。
私は動けなかった。
頭の中が真っ白になる。
死んでいない。
でも生きてもいない。
それはどういう意味なのだろう。
「白龍様……」
声が震える。
「黒姫は……今どこにいるんですか」
白龍は答えない。
答えられないようにも見えた。
その時、空間が揺れる。
黒い炎のような気配。
「やれやれ」
聞き慣れた声。
黒龍だった。
「結局ここまで来たか」
白龍が眉をひそめる。
「黒龍」
「怒るな」
黒龍はため息をつく。
そして私を見る。
今まで見たことがないほど真剣な目だった。
「志穂」
「いや」
黒龍は首を振る。
「黒姫」
その呼び方に胸が震える。
私は息を呑む。
黒龍が静かに言う。
「お前は死んでいない」
世界が静かになる。
「お前は生きている」
「今も」
「ずっと」
私は首を振る。
「そんなはず……」
黒龍は続ける。
「黒姫は契約によって分けられた」
その瞬間。
頭の奥で何かが弾けた。
記憶。
感情。
願い。
光。
闇。
すべてが渦になる。
「龍界を守るため」
「人間界を守るため」
「龍族を守るため」
黒龍の声が響く。
「黒姫は自ら契約を結んだ」
私は震える。
なぜだろう。
その決断が自分らしいと思ってしまった。
「魂を分けたんだ」
私は目を見開く。
黒龍は続ける。
「王としての黒姫」
「人としての志穂」
「そして――」
言葉が止まる。
白龍が目を閉じる。
まるで覚悟したように。
黒龍は最後まで言った。
「契約そのもの」
世界が止まる。
私には理解できない。
でも、身体が震える。
本能を知っている。
これは真実だと。
その瞬間。
右腕に熱がある。
龍女の証。
黒い痣が光り始める。
「っ……!」
激痛。
私は膝をつく。
大量の記憶。
王座。
龍族。
戦争。
涙。
そして、契約の日。
黒姫が立っている。
その隣には白龍。
若く。
必死で。
泣きそうな顔。
『やめてください』
白龍が言う。
『そんな契約をすれば』
黒姫は微笑む。
『大丈夫です』
またその言葉。
白龍が一番嫌った言葉。
『私は必ず戻ります』
『だから待っていてください』
その映像が砕ける。
私は涙を流していた。
止まらない。
胸が痛い。
苦しい。
懐かしい。
そして、白龍を見る。
白龍は泣いていた。
百年分の想いを抱えたまま。
ただ私を見ていた。
私は震える声で呟く。
「待っていたんですね」
白龍の瞳が揺れる。
「百年も」
沈黙。
そして、白龍は静かに頷いた。
「はい」
たった一言。
でも、それだけで十分だった。
私はようやく理解する。
白龍が守りたかったもの。
隠したかったもの。
恐れていたものは全部、私だった。
その時。
空が裂けた。
轟音。
龍界全体が震える。
契約管理者の声が響く。
『第三の欠片が目覚める』
『契約が再び動き始めた』
世界が揺れる。
黒龍が空を見上げる。
白龍が私を庇う。
そして私は理解する。
まだ終わっていない。
黒姫の物語も。
私の人生も。
白龍との約束も。
すべてはここから始まるのだ。