龍王の花嫁 ~記憶を失くした私を夫が百年待っていました~

黒龍の笑い声が、まだ空気に残っていた。
「可愛いからいいや」
その軽さとは裏腹に、白龍の空気はずっと張り詰めている。
私はその間に立たされているような感覚だった。
「……もう帰れ」
白龍が静かに言う。
黒龍は肩をすくめる。
「相変わらずだな、お前」
「何を隠す時も、それだ」
その一言で、空気が変わる。
私は思わず白龍を見た。
白龍は何も言わない。
ただ、少しだけ目を伏せた。
黒龍は一歩だけ近づく。
ふざけた雰囲気はもうない。
その声だけが低くなる。
「志穂」
その呼び方が急に真剣になる。
「お前さ」
「“契約”のこと、どこまで聞いてる?」
契約。
その言葉で、胸の奥がざわつく。
「契約って……何のことですか」
白龍が即座に言う。
「話す必要はありません」
その声は優しいのに、拒絶されていた。
黒龍は笑わない。
むしろ少しだけ悲しそうな目をしている。
「ほらな。そこからもうおかしいんだよ」
私は混乱する。
「どういう意味ですか……?」
黒龍は白龍を見たまま言う。
「お前が龍王妃になった理由。それ、全部“恋愛”じゃない」
空気が凍る。
白龍が一歩動く。
その瞬間、黒龍が立ち上がる。
「やめろよ白龍、今さら隠すな」
私は一歩後ずさる。
「やめて……ください」
自分でも小さな声だった。
黒龍は一瞬だけ黙る。
そして声を落とす。
「……すまん。でも、これだけは言わせろ」
白龍が低く言う。
「黒龍」
警告の声。
だが黒龍は止まらない。
「白龍はな。お前を――」
その瞬間。
白龍の手が空間を切り裂いた。
音が消える。
黒龍の言葉が途中で途切れる。
沈黙。
風が止まる。
雲が止まる。
白龍が静かに言う。
「それ以上は必要ありません」
黒龍はその場で立ち止まったまま白龍を見る。
そして小さく笑う。
「……やっぱりか」
白龍がこちらに向き直る。
その瞳は優しい。
けれども少しだけ“隠している顔”だった。
「志穂」
その声はいつも通り優しい。
「あなたは何も知らなくていい」
私は息をのむ。
「知らなくていいって……何をですか」
白龍は答えない。
その沈黙が答えだった。
黒龍が遠くで言う。
「“守る”ってのはな」
「時々、一番残酷なんだよ」
私は初めて気づく。
この世界にはまだ、
“恋愛”でも“記憶”でもない場所がある。
そこに触れた瞬間、戻れなくなる何かがある。
白龍はただ静かに私を見ていた。
優しく。
逃げられないほどに。