白龍が視線を外したまま、夜の雲海を見ていた。
その沈黙が、なぜか怖かった。
まるで“言ってはいけない何か”が、すぐそこにあるみたいに。
私はふと、自分の胸に手を当てる。
心臓が、少し早く脈打っていた。
いつもより、うるさいくらいに。
「……白龍様」
呼びかけると、彼はすぐに振り返る。
「はい」
その声は優しい。
なのに、距離がある。
「私の名前って」
少し息を吸う。
「どうして“志穂”なんですか」
白龍の表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
でも私は見逃さなかった。
「……それは」
白龍は静かに言う。
「人間界でのあなたの名前です」
その言葉が落ちた瞬間。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「人間界……」
私は繰り返す。
その言葉が、なぜかとても遠く感じた。
視界の端が揺れる。
黒い病室。
白い天井。
小さな身体。
点滴の音。
「心臓に穴がある」
誰かの声。
私は思わず息を詰める。
「っ……」
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
白龍がすぐに近づく。
「志穂」
でもその声が、遠い。
私は壁に手をつく。
息が吸えない。
吐けない。
「やめて……」
何を止めてほしいのかも分からない。
でも、止めてほしかった。
頭の中に記憶が流れ込む。
病院のベッド。
小さな手。
誰も来ない教室。
笑い声の外側にいる自分。
「どうして私は……」
声が途切れる。
白龍が私の肩を支える。
でも、その手すら遠く感じる。
「落ち着いてください」
白龍の声。
それでも呼吸は戻らない。
記憶がさらに深くなる。
母の声。
『この子は心臓が弱いの』
『でもね、志は高く持ってほしいの』
「志穂……」
誰かがそう呼んでいた。
私はその場に崩れ落ちる。
「っ……は、っ……」
息が乱れる。
涙が止まらない。
「志を高く……?」
自分の声が震える。
「そんなの……できるわけないじゃないですか……」
白龍が一瞬だけ目を見開く。
「ずっと……」
私は続ける。
「ずっと入院して」
「友達もいなくて」
「学校でも浮いてて」
言葉が止まらない。
止められない。
「それでも生きてて」
「でも、ずっと怖くて」
呼吸が崩れる。
「だから……だから龍界に来るとき」
私は震えながら言う。
「全部忘れたかったんです……」
空気が止まる。
白龍が静かに私を抱き寄せる。
強くはない。
でも離さない距離。
「……思い出さなくていい」
その声は、今までで一番優しかった。
でも私は首を振る。
「でも……」
「それでも、私なんですか」
白龍は少しだけ目を伏せる。
そして、静かに言った。
「はい」
「それでも、あなたです」
その言葉が落ちた瞬間。
少しだけ呼吸が戻る。
私は泣きながら笑う。
「……最悪ですね」
「人生」
白龍は一瞬だけ迷ってから言う。
「龍界は違います」
「え?」
「ここでは」
白龍はゆっくり続ける。
「あなたは“弱い人間”ではありません」
「龍王妃です」
その言葉に、胸の奥が少しだけ静かになる。
でも、完全には消えない。
過去は、まだそこにある。
私は小さく呟く。
「……それでも」
「私は、怖かったままです」
白龍は何も否定しなかった。
ただ、少しだけ近くにいる。
夜の雲海の上で。
初めて私は気づく。
“名前”はただの呼び名じゃない。
生きてきた痛みそのものだった。
その瞬間、頭の奥で別の声がした。
――黒姫。
私は今、確かにそう呼ばれた気がした。
白龍の腕の中で、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
まだ胸の奥は痛いのに、不思議と安心してしまう。
この矛盾が、少しだけ怖い。
「……白龍様」
かすれた声で呼ぶと、彼はすぐに応える。
「はい」
その瞬間だった。
頭の奥に、また別の“声”が落ちてくる。
――黒姫。
はっきりと、そう呼ばれた気がした。
今ここにいる白龍の声とは違う。
もっと遠くて、もっと切実で。
私は目を見開く。
「……今」
「何か……」
白龍の手が、ほんのわずかに止まる。
でもすぐに、何事もなかったように背を撫でた。
「大丈夫です」
「もう、何もありません」
その“もう”が、なぜか引っかかった。
私はゆっくり顔を上げる。
「白龍様」
「はい」
「今、私……別の名前で呼ばれませんでしたか」
一瞬。
空気が完全に止まる。
白龍の瞳が揺れる。ほんの一瞬だけ。
そしてすぐに、いつもの静けさに戻る。
「いいえ」
短い否定。
でも、その否定は“早すぎた”。
私は確信してしまう。
今のは、気のせいじゃない。
白龍の腕の中で、小さく息を吐く。
「……そう、ですか」
桜が一枚、落ちる。
音はしないのに、やけに重く感じた。
私は心の奥で、もう一つの問いを飲み込んだ。
(じゃあ、黒姫って……誰?)
白龍は何も言わない。
ただ、少しだけ強く、私を抱きしめていた。
その沈黙が、なぜか怖かった。
まるで“言ってはいけない何か”が、すぐそこにあるみたいに。
私はふと、自分の胸に手を当てる。
心臓が、少し早く脈打っていた。
いつもより、うるさいくらいに。
「……白龍様」
呼びかけると、彼はすぐに振り返る。
「はい」
その声は優しい。
なのに、距離がある。
「私の名前って」
少し息を吸う。
「どうして“志穂”なんですか」
白龍の表情が、一瞬だけ止まった。
ほんの一瞬。
でも私は見逃さなかった。
「……それは」
白龍は静かに言う。
「人間界でのあなたの名前です」
その言葉が落ちた瞬間。
胸の奥が、きゅっと締まる。
「人間界……」
私は繰り返す。
その言葉が、なぜかとても遠く感じた。
視界の端が揺れる。
黒い病室。
白い天井。
小さな身体。
点滴の音。
「心臓に穴がある」
誰かの声。
私は思わず息を詰める。
「っ……」
胸が苦しい。
呼吸が浅くなる。
白龍がすぐに近づく。
「志穂」
でもその声が、遠い。
私は壁に手をつく。
息が吸えない。
吐けない。
「やめて……」
何を止めてほしいのかも分からない。
でも、止めてほしかった。
頭の中に記憶が流れ込む。
病院のベッド。
小さな手。
誰も来ない教室。
笑い声の外側にいる自分。
「どうして私は……」
声が途切れる。
白龍が私の肩を支える。
でも、その手すら遠く感じる。
「落ち着いてください」
白龍の声。
それでも呼吸は戻らない。
記憶がさらに深くなる。
母の声。
『この子は心臓が弱いの』
『でもね、志は高く持ってほしいの』
「志穂……」
誰かがそう呼んでいた。
私はその場に崩れ落ちる。
「っ……は、っ……」
息が乱れる。
涙が止まらない。
「志を高く……?」
自分の声が震える。
「そんなの……できるわけないじゃないですか……」
白龍が一瞬だけ目を見開く。
「ずっと……」
私は続ける。
「ずっと入院して」
「友達もいなくて」
「学校でも浮いてて」
言葉が止まらない。
止められない。
「それでも生きてて」
「でも、ずっと怖くて」
呼吸が崩れる。
「だから……だから龍界に来るとき」
私は震えながら言う。
「全部忘れたかったんです……」
空気が止まる。
白龍が静かに私を抱き寄せる。
強くはない。
でも離さない距離。
「……思い出さなくていい」
その声は、今までで一番優しかった。
でも私は首を振る。
「でも……」
「それでも、私なんですか」
白龍は少しだけ目を伏せる。
そして、静かに言った。
「はい」
「それでも、あなたです」
その言葉が落ちた瞬間。
少しだけ呼吸が戻る。
私は泣きながら笑う。
「……最悪ですね」
「人生」
白龍は一瞬だけ迷ってから言う。
「龍界は違います」
「え?」
「ここでは」
白龍はゆっくり続ける。
「あなたは“弱い人間”ではありません」
「龍王妃です」
その言葉に、胸の奥が少しだけ静かになる。
でも、完全には消えない。
過去は、まだそこにある。
私は小さく呟く。
「……それでも」
「私は、怖かったままです」
白龍は何も否定しなかった。
ただ、少しだけ近くにいる。
夜の雲海の上で。
初めて私は気づく。
“名前”はただの呼び名じゃない。
生きてきた痛みそのものだった。
その瞬間、頭の奥で別の声がした。
――黒姫。
私は今、確かにそう呼ばれた気がした。
白龍の腕の中で、呼吸が少しずつ落ち着いていく。
まだ胸の奥は痛いのに、不思議と安心してしまう。
この矛盾が、少しだけ怖い。
「……白龍様」
かすれた声で呼ぶと、彼はすぐに応える。
「はい」
その瞬間だった。
頭の奥に、また別の“声”が落ちてくる。
――黒姫。
はっきりと、そう呼ばれた気がした。
今ここにいる白龍の声とは違う。
もっと遠くて、もっと切実で。
私は目を見開く。
「……今」
「何か……」
白龍の手が、ほんのわずかに止まる。
でもすぐに、何事もなかったように背を撫でた。
「大丈夫です」
「もう、何もありません」
その“もう”が、なぜか引っかかった。
私はゆっくり顔を上げる。
「白龍様」
「はい」
「今、私……別の名前で呼ばれませんでしたか」
一瞬。
空気が完全に止まる。
白龍の瞳が揺れる。ほんの一瞬だけ。
そしてすぐに、いつもの静けさに戻る。
「いいえ」
短い否定。
でも、その否定は“早すぎた”。
私は確信してしまう。
今のは、気のせいじゃない。
白龍の腕の中で、小さく息を吐く。
「……そう、ですか」
桜が一枚、落ちる。
音はしないのに、やけに重く感じた。
私は心の奥で、もう一つの問いを飲み込んだ。
(じゃあ、黒姫って……誰?)
白龍は何も言わない。
ただ、少しだけ強く、私を抱きしめていた。

